シュンペーターの紹介

シュンペーターは経済学者の名前です。

ヨセフ・アロイス・シュンペーター188328日オーストリア領モラビア地方もトリーシュで誕生。195018日アメリカで死去、享年68歳)はケインズとかマルクスと同時代の経済学者です。イノベーション(革新)、起業者(新結合)、創造的破壊というような概念を経済学で初めて導入した学者です。25歳にして処女作「理論経済学の本質と主要内容」29歳で「経済発展の理論」を発表しイノベーション(革新)、起業者(新結合)を展開した。それ以外の著書は多数ありますが、創造的破壊を展開した「資本主義・社会主義・民主主義」は有名です。学派は作りませんでしたが、日本では中山伊知郎、東畑精一、伊藤善市、塩野谷祐一、野中郁次郎、最近では竹中大臣など影響を受けている。

 

次の掲載文は

20世紀の経済学者ネットワーク〜日本から見た経済学の展開〜池尾愛子著(有斐閣)

3章 5.JAシュンペーター”でのシュンペーターの紹介です

 

戦前の日本人経済学者にとってシュンペーター(Josef Alois Schumpeter 18831950)は、O.ランゲと並んで親しみのあるヨーロッパ人であった。

シュンペーターは、1883年にモラビア地方のトリューシュで生まれ、1950年にアメリカ合衆国コネティカット州で没した。彼は、ウイーン大学法学部で、E.v,ベームバヴェルクとF.フォン・ヴィーサーを師として経済学を学んだ。19世紀から20世紀初めにかけて、ウイーンは、スエーデンのストックホルム及びイギリスのケンブリッジと並んで、世界における経済学研究の中心地の一つであった。彼はエジプトのカイロで弁護士として勤務したが、「理論経済学の本質と主要内容」を1908年に発表したのをきっかけに、チェルノヴィッツ大学、グラーツ大学に招かれ、1912年には「経済発展の理論」を出版する。

 シュンペーターは1913年に、オーストリア交換教授としてニュウヨークのコロンビア大学を訪問した。第一次世界大戦直後には、オーストリア最初の共和国政府の大蔵大臣を引き受けるなど政治活動に参与し、また銀行経営にもたずさわったが、彼の銀行は経営困難に陥る。シュンペーターは、1922年頃に早川三代治(北海道帝国大学)と出会い、「ワルラスから始めよ(Begin with Walras)と助言する。1925年には、ドイツのボン大学の経済学の教授に迎えられ、学問の世界に復帰した。1927年にハーバード大学で客員教授として1年間過ごし、アメリカで東畑精一(東京帝国大学)と出会う。1928年から1929年にかけて東畑精一と中山伊知郎(東京商科大学)がシュンペーターのもとで経済学を学ぶ。シュンペーターは農業経済学者の東畑精一に対してはH.シュルツの砂糖の研究やHL.ムーアの景気変動の研究を勉強するように助言していた。シュンペーターは1931年には再びハーバード大学を訪問した後、ヨーロッパへの帰途、日本に立ち寄り、東京と関西で講演した。東京での講演後、若き安井琢磨(東京帝国大学→東北大学)に「理論経済学を勉強するならワルラスから始めなさい」と助言する。

 「ワルラスから始めよ(Begin with Walras)」という科白はこののち、長く人々の記憶に残ることになる。これはまた、日本において、一般均衡論だけでなく、新古典派経済学全般の本格的な研究がはじまったことをも象徴するものであった。

 シュンペーターは1930年に渡米し、同年末の計量経済学会の創設に関与した。その後、私的理由からドイツを去るべく、1932年にハーバード大学の正教授となった。柴田敬(京都帝国大学)が1936年前後にシュンペーターのもとで、経済学を研究する。シュンペーターは、1939年に「景気循環論」を、1942年に「資本主義・社会主義・民主主義」を出版した。彼の死後、夫人のエリザベス・ブーディー・シュンペーターによって、「経済分析の歴史」が出版された。「資本主義・社会主義・民主主義」の草稿は、エリザベスから東畑に贈られ、現在、東畑記念館(三重県)に眠っている。

 シュンペーターが学派をつくらなかったことがしばしば強調される。おそらく、同い年のJ.Mケインズがケインズ学派ないしケインジアンと呼ばれる集団を作り出したことと対比されるからであろう。確かにシュンペーターは影響力の大きい人であったかが、学派を形成するよりもむしろ、既存の学派を解体して世界全体で一つの流れを形成する方に興味があったと言える。注

注 しかしながら、現在、国際シュンペーター学会が組織されている。(丹羽武正もそのメンバーの一人である)


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