『名前を呼んだ日』

(これが、父上の形見だと…?)
 殺生丸は一振りの古ぼけた刀を握りしめたまま、立ち尽くしていた。彼の爪にはおびただしい血がこびりつき、その周囲には無惨に引き裂かれた数十体の妖怪の死体が散らかっていた。
 試し斬りを試みて、敵には何の傷もつかず、逆に一撃を喰らって顔につけられた一筋の傷。
常に冷えた心を保つのが当然の自分。
誇り高き大妖の血を引く自分。
その自分が理解のできない感情に襲われた。
あれは何だったのか。苛立ち…? この自分が?
「邪見」
冷え切ったその言葉に、彼の側近である妖怪は平伏した。
「はは、ここに」
殺生丸は刀を鞘に戻すと、視線を合わせないまま告げた。
「父上の墓を探す。ありかを聞き出してこい」
彼が蔑んでいた半妖の弟との関わりは、この時から再び始まったのだ。

  *  *  *

(犬夜叉よ。この殺生丸を殺しきれなかったこと…いずれきさまは後悔する。)
彼は不敵に口元を緩ませた。犬夜叉が目を塞がれながらも直感で放った”風の傷”。これに重傷を負わされた数日後、彼は天生牙を振るった。その右腕に抱えられた少女は、彼のそのわずかな変化をどう感じたのだろう。

 息を吹き返した幼い人間の娘をそのまま抱きかかえ、彼は一つの洞穴に入っていた。
「邪見、水を汲んでこい」
「は?」
「聞こえんのか」
「は、ははっ…」
 邪見はただでさえ大きい目をますます丸くしながら洞穴から走り出た。
殺生丸にとって、人間などは動く障害物でしかない。しかしこの命令は、どう考えても娘のためのものだ。
(どうなっておるのだ、今日の殺生丸さまは…)
長年彼に仕えてきた邪見には、まるで路傍の石ころを拾って持ち帰り、その入れ物を持ってこいと命じられたようなものだったのである。

 殺生丸は、じっと娘の様子を伺っていた。
血の匂いが乾いている。狼に噛み殺された時の傷跡が、嘘のように癒えていた。
まぎれもなく生きている人間の匂いだ。彼にとっては、野山を駆け回る猪や鹿と似たようなものでしかなかったのだが。
 娘はどことなく恥ずかしそうに、上目使いで殺生丸と自分の前の地面を交互に見やっている。口がきけないのはわかっているから、殺生丸がしゃべらない限り沈黙が続くのは当然なのだが、血と土で汚れた皮膚のままに、小さな手をせわしなくこすりあわせたり後ろに回したり、なかなかじっとしていられないようだった。
(人間、か…)
まるで力のない、弱き生き物。
群を作り武器を携え、数に頼らなければ戦うこともままならぬ生き物。
なぜあの父が、そのような生き物に情けをかけ、半妖の子までもうけたのか。
そしてこの自分に、殺せもしないナマクラ刀を遺したのか。
なにかの間違いだろう。そうとしか思えなかった。

 傷の深さに何日もの間動けなかった自分。
大妖の血統の誇りは、人間の助けや施しなど我慢ならない。
しかし何度威嚇しても、この幼い娘は毎日やってきた。
鼠を叩き返せば麦を、麦を吹き飛ばせば魚を、小さな手に大事そうに抱えてやってきた。
魚を持ってきた日は、目に大きな痣を作っていた。殴られ、足蹴にされた痕だ。
(顔を、どうした?)
 そう聞いた時、なぜかこの娘はにっこりと笑った。
なにが嬉しいというのか。
人間たちは嬉しい時に「笑う」のだという。
不可思議な生き物だ。
もっと不可思議だったのは、狼に噛み殺されていたこの娘の亡骸を見た時に、なぜかその笑った顔が自分の脳裏に浮かんだことだったのだが…。

「少しは、じっとしていろ」
 娘は、ひさしぶりの彼の言葉にぴたりと動きを止めた。
あの世からの使いである餓鬼らを天生牙で斬った後、娘の体中の傷が消えていき、目の痣もまた薄れていきつつあった。
この「殺せぬ刀」には、どんな力があるというのか。
殺生丸はゆっくりと立ち上がると、洞穴の外を見やって歩を進めた。風の匂いが微妙に変わった。夕立が近づいてきたようだ。
彼の背中が少し遠ざかり始めた時、娘の体が動いた。すっくと立ち上がって、その口が丸く開いていく…。

「殺生丸さま」
 ぴくり、と耳が動き、殺生丸は思わず振り返った。
どきんとして娘は直立不動の姿勢をとった。
鎧に身を固め、鼻と耳が尖った隻腕の青年と、あちこちが破れたボロ服をまとい、土色の染みにまみれた幼い少女が、洞穴の中で向かい合う。
殺生丸の目は、大きく見開かれていた。少なくとも、この少女が彼を見てから、一番大きく。
「…今の声は、おまえか?」
我ながらおかしな問いだ。いかに下等な生き物といえど、言葉を放つ者などこの洞穴の中に、人間であるこの娘以外にいるはずもない。
少女は両手を胸の前で合わせると、こくりと首を縦に振る。

「は、はい」
ごく自然に言葉が出た。殺生丸はすっと少女に近づき、膝を折る。
じっと覗き込む銀色の瞳が、少女の眼に映った自らの顔をとらえていた。
「なぜ、私の名を呼んだ」
瞬きもせずに殺生丸が問いかける。
少女の心臓がどくんどくんと脈打った。
「あ、あの…あの人がそう呼んでいたから…」
覚える頭は、あるらしい。殺生丸は再び立ち上がると、くるりと身をひるがえす。
「座れ」
「はい」
わずかな言葉のやりとりに、なぜか少女の心に落ち着きが戻ってきた。
「奴の名は、邪見だ」
「あ…はい」
「…おまえは?」
「え?」
「おまえに、名はあるのか」
「あ、はいっ。りん、です。りん、っていいます」
「立たなくていい」
りんはあわてて座り直した。
背中ごしで見えはしなかったが、少女の肩は小さく震え、その表情は、今まで見たこともなかった美しいものを見たように輝いていた。

 殺生丸は洞穴の外に歩み寄り、空を見上げた。
(人間ごときに、名があるとはな)
それを聞いた自分にも奇妙な思いがする。
ちょうど桶を抱えた邪見が戻ってきた。
「殺生丸さま、水を汲んでまいりました…」
「奥へ運べ」
「は…」
いかに妖怪でも重いものは重い。邪見はぜえぜえ息をきらしながら桶を運び込む。
眼前に表れた人間の少女が、突然口を開く。
「あ、邪見さま」
「んなっ…」
がこん、と音がして、桶が洞穴の地に転がり、水はあっさりとこぼれ去る。
邪見はそのことを悟るよりも先に、呆然として少女を見ていた。
「お、おまえ…しゃ、しゃべったのか?」
洞穴の外からちらりと目をやった殺生丸が、冷たく言った。
「愚か者。こぼしてどうする」
あっと気が付いた邪見がへなへなとその場に座り込み、ため息をついた。
りんは思わず駆け寄って、邪見の顔を覗き込んだ。
「…びっくりしたの?」
じろり、と睨んだつもりが、りんはきょとんとして首をかしげるだけだった。これはまたため息をつくしかない。
が、空がにわかにかき曇り、遠くから雷の音。そして殺生丸の声が響いてきた。
「雨が来る。さっさと外に出しておけ」
邪見は、はっとしてあわてて桶をつかむと外に走った。まさに天の恵みだ。
入れ違いに入ってきた殺生丸が、ふわりと腰をおろす。
りんは正座するようにその場に留まった。

「…りん」
「…! は、はいっ」
「水が溜まったら、顔を洗え」
「はいっ」
りんはまっすぐに立ち上がって、邪見の後を追う。
殺生丸は何を想うでもなく、洞穴の上を見上げた。
手元に差す天生牙が、ほんのわずかに脈打った。彼でさえ気づかないほど、わずかに。

−了−

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