『風の絆』 4

 かごめの矢は一直線に剛鬼の額に向かって飛んできた。しかし剛鬼は斧をぶん、と一振りしてこともなげにたたき落とした。
「ちゃちな飛び道具が、この俺に効くわけがねえっ」
数珠に手をかけた弥勒の視界に、こちらに飛んでくる雲母と珊瑚の顔が映った。
(…イチかバチか、だ!)
「珊瑚っ! 飛来骨だ!」
「法師さま!」
珊瑚が飛来骨を剛鬼に向かって投げるのと、弥勒が懐から護符二枚を前方に投げるのがほぼ同時だった。飛来骨がぎゅるるると回転して剛鬼の上半身に飛ぶ。
「無駄だといってるだろうが、馬鹿どもが!」
剛鬼は斧を下から上に薙ぎ払い、飛来骨はがきん、とはね返されて力無く宙に舞った。振り向きざまに斧を振り上げ、剛鬼が弥勒に飛びかかる。
「死ねえ!」
「法師さまーっ!」
珊瑚の絶叫が響いた瞬間、弥勒の眼がぎらりと光る。二枚の護符が青白く光り、数珠が取り去られた。ごっ、と空気を裂く音がした。

「弥勒っ!」
犬夜叉は、見た。おそらく風の傷を見極める彼の目にだけ、それは見えた。弥勒の右手から延びた一直線の風…周囲の空気を突き抜けたそれが宙に舞った飛来骨をとらえ、一瞬のうちに引き寄せたのだ。珊瑚と、雲母の背中から顔を上げたかごめがあっと思った瞬間、飛来骨は剛鬼の背中に突き刺さっていた。
「ぐ…が…あ…」
呪いの表情を崩さない剛鬼の牙の間から鮮血があふれ出す。弥勒の右手は既に数珠でふさがれていたが、掌は正確に剛鬼の心臓の前で広げられていた。そのすぐ先には、剛鬼の心臓を貫いた飛来骨の先が突き出ていた。
「運は、俺にあったようだ」
斧が地面にどさりと落ち、剛鬼の巨体がゆっくりと倒れていく。ずううん、と音をたてた横で、弥勒はがくりと膝をついた。
「法師さま!」
雲母が着地し、珊瑚が駆け寄ろうとする。
「来るな!」
弥勒の大声にびくりと珊瑚が動きを止めた。
「くっ…」
剛鬼の真っ赤な右腕が弥勒の首をつかんでいる。既に白目を向いていながら、何という執念なのか。弥勒は必死に錫杖をつかみ、どがっ、と剛鬼の右腕を突き刺した。なのに締める力が緩まない。
「こ…の…化け物が…」
顔から血の気がひき、意識が朦朧としてくる。珊瑚が駆け出した。
「やめろおっ…!」
視界がにじんだ珊瑚の前に、銀色の髪がひるがえった。
「散魂鉄爪!」
ばきい、と鈍い音がして、さしもの剛鬼の執念の右腕も塵と化して消え失せる。密集していた最猛勝の大群が一斉に引き始めた。げほげほ、と咳込む弥勒に珊瑚が駆け寄り、必死に背中をさすった。犬夜叉は雲母から降りたばかりのかごめと七宝に声をかける。
「ケガはないか!」
「あたしは大丈夫。弥勒さまを早く…」
犬夜叉が遠方をひと睨みすると案の定、神楽はいつもの羽に乗って飛び去ろうとしていた。その後を最猛勝の大群が追っていく。
「ちっ、逃げ足の早い…」
いまいましげに舌打ちする犬夜叉の足元で、珊瑚が言った。
「犬夜叉、ありがとう…」
「…今、こいつに死なれちゃ寝覚めが悪いからな」
かごめが胸のリボンを引き抜いて言った。
「早く止血して。手当てを…昨日の宿場に戻ろう」
「かごめ様、先にそれを」
喉をおさえて弥勒が指さす。剛鬼の額に光る四魂のかけら。あ、と気付いたかごめが慎重に右手を伸ばす。犬夜叉は剛鬼の体を凄い目つきで睨んだが、さすがにその体はもうぴくりとも動かなかった。きいん、と独特の音をたててかけらは浄化され、かごめの右手に委ねられた。
「珊瑚、飛来骨を抜け」
「手当てが先だろ!」
「いいから抜け。私にはまだやることがある」
強い視線に、珊瑚はしぶしぶ立ち上がると飛来骨を鬼の巨体から引き抜いた。鮮血がしたたり落ち、さすがにかごめと七宝の視線がそれた。
「よし…皆下がって」
弥勒がよろけながらも立ち上がる。
「おい、吸い込むつもりか? やめとけ! そんな必要ねえだろうが」
犬夜叉が抗議するが、弥勒はまだ青い顔をしながらも言い返す。
「ゴミ掃除も私の務めなんですよ」
何かを訴えようとするその眼の色に、犬夜叉は黙った。弥勒の右掌が剛鬼の亡骸に向けられ、再び数珠が外される。今度はゴオオオと幅広く広がった風が鬼の巨体をまたたく間に吸い込んでいった。数珠を元通りに巻き付けると、弥勒はぽつりと漏らした。
「妖怪にも、血が赤い奴が結構いますな…さて、素直に休養させてもらいます」
珊瑚が赤らんだ眼で弥勒を見た。犬夜叉が黙って弥勒に肩を貸し、かごめも七宝もそれに従って歩き出した。
(吸い込んだ奴等の数だけ、俺が背負う業も重くなるのさ…)
弥勒は自嘲気味に内心でつぶやいた。

「今日は、二人きりにしてあげようよ」
かごめが小さな声で犬夜叉にささやいた。
「まああのケガじゃ、妙なコトもできねーだろ」
「そうそう」
七宝を連れて、かごめはそそくさと犬夜叉の背中を押して部屋を出ていったが、珊瑚はそれにも気付かない。ただひたすら、左腕に包帯を巻いて眼前に横たわる法師の顔を見つめていた。
「馬鹿だよ法師さまは。ああいう特訓やるんなら、素直にそう言いやいいじゃないか。毎日一人で抜け出すから変な誤解受けるんだ」
弥勒は苦笑しながら答えた。
「夜に私がつきあってくれと言ったとして、珊瑚はついてきますか?」
「ば…昼にすりゃいいだろっ、昼間に」
頬を赤らめて言い返す娘に、右手を顔の上にかざして不良法師はつぶやく。
「いつまでも、最猛勝に封じられてばかりじゃ何かとマズいでしょうしね」
はっとして、珊瑚は改めて弥勒の表情を伺う。そういえばこの男が毎晩単独行動をとるようになったのは、そう、犬夜叉が竜骨精を斬って一段と鉄砕牙の力を上げた日からだった。今日の闘いではあれほど密集していた毒虫を一匹も吸い込んでいない。迫り来る奈落との闘いに、この男はこの男なりに、相当の覚悟を固めているのかもしれない。
「法師さま」
「…ん?」
「昼間にやるんなら協力するよ。あれは絶対に有力な戦法になる」
退治屋として生きてきた娘の瞳には、狩人としての光が宿っていた。
「そいつはどうも。ただ…」
「ただ…?」
「そっち側に座っていられると、手が届かなくて困るのですがね」
包帯で動かせない左腕の側に珊瑚は座っている。右手をすうっと珊瑚の膝にのばそうとしたところで、ぎゅうっと甲をつねられた。
「ったく…すぐそっちの方に行くっ」
「もっと親密になれれば上達も早いでしょうに…」
「お茶でも入れてやるから、待ってな。まったく」
立ち上がってすたすたと歩き出す珊瑚の後ろ姿を見ながら、弥勒はふと考えた。
(いつもよりはつねる力が弱かった、かな…?)
ふっ、と口元を緩めて天井を見上げる。いつまで生きられるのか、それはわからないが、まだ自分には運がある。奈落一派は日に日に強くなっていく。配下の妖怪共も何匹生まれてくるのかわからない。だが自分は闘わねばならない。生きるために。
「ほら。ちょっと熱いかもしれないけど」
湯飲みを持ってくる珊瑚を見やりながら弥勒は思う。
(飛来骨のように、おまえの心もつかめたらいいのですがね)
「…なんだよ、その目」
「できれば口うつしで…」
「もう寝ろっ!」
「一人でですか?」
「あたりまえだろ!」
弥勒は苦笑しながら茶をすする。宿の夜は更けつつあった。ともかくも休息の時がある。頼りにできる仲間もいる。斜め左を見ながら頬をふくらませる珊瑚から湯飲みの中に視線を移し、弥勒は小さく息を吐き出した。

−了−

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