『呪詛を破った日』
* * *
愛した女に、矢を射かけられた。
胸を射抜かれた。
封印された。
どんなに悔しかっただろう。
どんなに悲しかっただろう。
…二度と、そんな思いをさせたくなかった。
* * *
「すまねえ、かごめ。俺と一緒にいるばかりに…」
背中で目を閉じている少女は、犬夜叉のこの言葉に、小さな声だがはっきりと返した。
「いいの…好きで一緒にいるんだから…」
犬夜叉は小さく奥歯を噛みしめる。少女を背負う両腕に、ぎゅっと力がこもった。
(かごめ…俺は…)
楓の村に戻った一行は、横になったかごめを囲んで座っていた。
「熱はどうやら下がったようだ。今日はゆっくり休むがよかろう」
かごめの額から熱冷ましの布をとり、楓が語りかけた。
「ありがとう、楓ばあちゃん。みんなも心配かけてごめんね」
かごめの声に、弥勒と珊瑚、七宝が口々に
「何をあやまることがありますか」
「かごめちゃん、あんたは本当に強いよ…お疲れさま」
「気にしないで早く眠るんじゃぞ」
「犬夜叉、おぬしも何か言ってやれ」
皆の視線が集まると、犬夜叉は居心地悪そうにむくれた。
「…先に言っちまわれたじゃねえかっ」
小さく苦笑しながら弥勒が立ち上がり、「おい」と犬夜叉を促すと離れたところに引っ張っていく。
「…今晩は、おまえがかごめ様の枕元にいてやれ」
「あ? …そりゃま、まあ、な」
「わかっているとは思うが、かごめ様はお疲れだ。妙な気分になっても自重しろよ」
「なっ…おまえと一緒にすんなっ」
夕食に軽く粥を摂ると、かごめは早い眠りについた。思えば今回は、骨喰いの井戸から出てきた途端に式神に襲われ、ずっと椿の呪詛との精神戦が続いていたのだ。さすがに疲労は大きかった。犬夜叉はその枕元で、じっと彼女の寝顔を見守っていた。
皆は同じ家屋の中にいたが、襖を隔ててやや離れている。夜は静かに更けていく。いつもそうであるように、犬夜叉は周囲に油断のない気を張り巡らせながらも、かごめへ向ける視線が熱かった。
(こいつは、どうしても桔梗のことを忘れられない俺のために、こんな目にあいながら、それでも戦ってやがる…)
自分の力不足が悔しかった。しかし同時に、自らの力で式神をはね返したかごめに心底驚いた。この華奢な体の、一体どこにあんな力が潜んでいるのか。生まれながらに神秘的な雰囲気を漂わせ、周囲に清浄な気を放っていた巫女・桔梗とは明らかに違う。この戦国の世にはあまり似つかわしくない、どことなく周りをなごませるような笑顔の一方で、邪なるもの、身勝手なるものへの怒りと、弱きもの、小さきものへの慈悲をもつ少女。いつのまにか、自分のそばにいてくれることが当たり前になっていたが、どれだけ自分に力をくれたかわからない。
「う…ん…」
小さく眉をひそめながら、かごめの口元が開いた。布団の端を握った指が曲がり、辛そうに表情がゆがんだ。犬夜叉は身を乗り出した。
(うなされてる…起こした方がいいのか?)
少々迷った彼の瞳に、かごめの目尻にじわりとにじんだ涙が映った。
「犬夜叉…ごめん、ごめんね」
ずきんと胸が痛んだ。今日のことを嫌な夢で思い出しているに違いない。鉄砕牙を握る右手にぐっと力がこもる。
(…なぜおまえがあれを謝るんだ。あれはおまえがやったんじゃねえ!)
「かごめ、かごめ。しっかりしろ」
犬夜叉は思わずかごめの頬に左手を添えて揺すった。苦しげに閉じられた目がぼんやりと開くと、一瞬の間を置いて、再び口が開いた。
「犬…夜叉?」
「そうだ。俺はここだ。安心しろ。おまえは勝ったんだ。もう敵はいねえ」
ゆっくりと教え諭すように、犬夜叉は話した。やや赤みを帯びたかごめの目に、ようやく安堵の色が浮かんだ。犬夜叉の左手に自分の右手を重ねると、かごめは目尻を左手でこすりあげた。
「ごめん…そうよね。もう、終わったのにね」
はにかんだ小さな微笑みを見せて、かごめは上半身を起こそうとした。
「横になってろよ。無理するな」
犬夜叉は布を取ると、「ほれ」とかごめに突きつける。
「あ、ありがと」
かごめは布で目尻を押さえた。嫌な夢だった。自分の放った矢が犬夜叉の胸を射抜き、彼の目が怒りと哀しみにゆがむ。必死に駆け寄って矢を抜こうとする自分の前で、彼の目が次第に生気を失っていく…泣き叫ぶ自分。そこで目が覚めた。
「…まだ気にしてたのかよ」
目をそらしながら、犬夜叉が呆れたような口調で言った。
「だって…」
かごめは言葉を飲み込んだ。桔梗のことを思い出させたくはない。犬夜叉にとって、それは二重の辛さになる。この半妖の少年は、常に乱暴な口をきくが人一倍純粋で繊細だ。自分が矢を向けてしまったことは、嫌でもあの悲劇を連想させてしまったろう。なにより、かごめにはそれが辛かった。
腕組みをしていた犬夜叉が、不意に顔をこちらに向けて言った。
「だいたいなあ、おまえのヘナチョコな矢が、俺に当たると思ってたのか?」
(え…?)
一瞬きょとんとした後、かごめは少々むっとして頬をふくらませる。
「な、何よその言い方。あたしは犬夜叉が…」
犬夜叉は、今度はその前にすっと右手をかざした。
「悪い。言い直す」
目をぱちくりするかごめに、犬夜叉はさらりと言った。
「おまえの矢は、悪い奴にしか当たらないんだろ?」
うっすらとかごめの頬が赤らんだ。布団を引き寄せて口元を隠すと、ちらりと上目使いで犬夜叉を見上げる。
(聞いてたんだ、あの時…やだ、なんでいまさら)
「…まあ、俺もそれほどいい奴じゃあないけどな」
頭をかきながらぼそっとつぶやく犬夜叉に、かごめはすかさず
「あ、それ言えてる」
と返した。
「あのな」
再び顔を向けた犬夜叉の前で、かごめはぷっと吹き出した。
「えへへ。これでおあいこ」
「何だよ、そりゃ」
「…犬夜叉。ありがと」
「今度はちゃんと眠れよ」
「うん」
かごめは目を閉じた。なんとなく胸のつかえがとれた気がした。いつもの犬夜叉だ。
襖の向こう側で、弥勒が口元をにっとほころばせていた。
(おまえにしては、上出来だ)
−了−