『父を越えた日』

「…世話になったな、刀々斎」
巨大なその体をぬうっとそびえ立たせながら、彼は一刀の古ぼけた日本刀を前足でひょいとつまみあげた。
「傷が痛むのか? 大将」
飄々たる表情の中にも、そのぐりっとした眼の奥に、そこはかとなき哀しみを感じる。偏屈者で口が悪いが、刀を研がせたらこの世に並ぶ者はないといわれるこの刀鍛冶に、彼はいつしか全般の信頼を寄せていた。
「これしきで、か。癪だがわしにも、人間でいう”トシ”などというものがあったらしいわ」
彼の喉元には深い傷が刻まれていた。右の前足にはえた巨大な鋭い爪は四本。一本が根本からなくなっている。戦った相手の恐るべき強さを物語るものだった。もう長くはない…だがこの誇り高い犬の大妖は、決してそれを話そうとはすまい。刀々斎はおそらくこれが彼との最後の会話になるだろうことを予感した。

「大将、わしはその鉄砕牙を全霊を込めて研いだつもりだ。半端な奴ではとても使いこなせるもんじゃねえが、万一物騒な奴が使いこなしたらとんでもないもんになる。もしそんなことになったら、わしは迷わず叩き折る。それでいいな」
自分を見上げながら凛として言う刀々斎に、彼は大きな牙をにっ、と見せて返した。
「おまえらしいな。それでかまわん」
彼は牙の間にその日本刀を爪楊枝のようにすっとはさんで口を閉じた。彼の牙もまた一本が欠けている。それが今、姿を変えて戻ってきたのだ。
「あんたにゃ悪いが、殺生丸にはやれんぞ」
「奴には天生牙をやってくれ。もしその素質があるなら、いずれ鉄砕牙は犬夜叉が使うことになろう」
「…」
「さらばだ」
「元気でな」
彼の姿が疾風のように遠ざかっていく。刀々斎はじっとそれを見送った。
(犬の大将…その言葉、わしは忘れん)


次第に薄れていく意識の中で、彼は考えていた。

…殺生丸よ、天生牙を使いこなせ。それができれば、おまえは本当に強くなる。そして、いずれわしの考えがわかる時がくるだろう。

…犬夜叉よ、鉄砕牙を抜くことのできる人間の娘を探せ。その者がおまえの生涯にとって、途方もない力となるはずだ。

彼の最後に残ったすべての妖力が鉄砕牙を覆っていく。やがてその心臓が止まった時、古ぼけた日本刀は彼の腹の中に突き立った。

…そして時は流れていく。

  * * * * *


「そんな危ない刀をむやみに振り回すやつがあるかっ」
弥勒の教育指導の一撃を喰らった犬夜叉をみて、刀々斎は思わずつぶやく。
「うーん、やっぱまだチンピラか…」
(どうにもこいつはわからん奴だ。大物なのか考えなしのガキなのか。まあ一匹狼だったら危ねえが、周りにこれだけ見張り役がいりゃ、そう心配することもねえだろう)

「へへっ…」
犬夜叉が口元をほころばせている。鉄砕牙は鞘に収まっているが、時折両手でひゅん、ひゅんと縦に横に斜めに、空を薙いでいる。
「やれやれ、わかりやすい奴です」
弥勒は苦笑しながら歩いた。
「でも、風の傷が自在に出せるようになったってのはやっぱり凄いね。どんどん強くなってくのは、正直うらやましいよ」
傍らで珊瑚がそっと漏らした。弥勒はちらりと前を歩くかごめの後ろ姿に目をやりながらちょいと七宝をつまみあげた。
「何じゃ弥勒」
「まあ、もうちょっとゆっくり歩きましょう」
「どしたの? 法師さま」
「面白いものが見れるかもしれませんから」

かごめは両手を後ろに回して歩きながら、じっと犬夜叉を見つめていた。時々鉄砕牙の束に手をやり、空を見上げて立ち止まると、なんともいえない目をして右手をひゅっ、と横に薙ぐ。人差し指の腹を鼻の下に当ててにっ、と牙を見せる。銀髪を風が撫で、その横顔がまぶしく見えた。
(…こんなに嬉しそうな犬夜叉、いつ以来だっけ)
思えばこの男はケンカっ早くて、口と手が同時に出るほど血の気が多いし、普段から不機嫌な顔をしているのが普通だ。時折優しげな表情や寂しげな視線を見せてくれることがあったが、自分と二人きりになっている時でもなぜか怒っている顔の印象がやたらに大きい。楽しそうな顔をもっと見たい。笑ったところを見てみたい。時々そう思うかごめには、今の犬夜叉は新鮮だった。
(ああそうだ。あの時…)
かなり昔のことのように感じてしまうが、初めて出逢った時がそうだったように思えた。百足上臈に封印されている犬夜叉ごと締め付けられ、こんなところで死ねないとかごめは彼の封印の矢を消した。自由になった彼は自信満々の顔で飛び出すと、散魂鉄爪の一撃で百足上臈を粉々にしたのだった。あの時の顔以来ではないだろうか。
「ん…?」
ちらりと振り向いてかごめの顔を見た犬夜叉は、どきんとして前を向き直す。
「何? 犬夜叉」
「あ、いや…何でもねえよ」
鼻の頭に赤みがさす。どんな妖怪に出くわそうがびくともしない心臓が、音を立てるのがわかった。ちょっと首を右に傾けた少女の表情は、これまで見たこともなく優しげだった。
(こいつの笑顔はいつものことじゃねえか。なに熱くなってんだ、おれは…)
「あのね」
不意に真横から話しかけられて、犬夜叉はびくっとなった。
「な、なんでい」
くす、と小さく微笑んでかごめは口を開く。
「あたし、嬉しいよ」
「あ…?」
「犬夜叉が嬉しい時は、あたしもおんなじ」
「…」
「今日はかっこよかったよ。すっごく」
「お、おう。まあどうってことねえけどよ」
視線を斜めにそらして鼻の頭をかくこの仕草は、あれだけの破壊力を見せた奴と同一人物にはちょっと見えない。
「あたしね、思ったんだ。犬夜叉、もう一回鉄砕牙を握った時言ったでしょ。鉄砕牙で闘わなくちゃ意味がないって」
「…ああ。そういやあの後から、鉄砕牙が軽くなったんだ。風の傷が巻き付いてくるようになってよ。キナ臭えところを斬ってみたら爆流破ってオマケつきだ。おかげで竜骨精に勝てた」
かごめはうん、と頷いて続ける。
「犬夜叉のお父さん、それを望んでたんじゃないかな」
「おやじが…?」
犬夜叉は、かごめを正面から改めて見つめた。
「鉄砕牙は人助けの時に牙になるでしょ。そして犬夜叉がその心でいられるように守ってくれる…犬夜叉が鉄砕牙で闘うんだって強く思ったから、お父さんの力と犬夜叉の力が一つになったんじゃないか、って」
(竜骨精に鉄砕牙をはじき飛ばされた時、おれはまた変化してた。またかって、思った。でもその時…)
「…あの時、かごめの声が、聞こえた」
「え…聞こえたの?」
「なぜかわからねえけど…鉄砕牙からも聞こえたような…気がした」
今度はかごめの頬がうっすらと赤らんだ。
「こいつを最初に抜いたのは、おまえだったよな」
「う、うん…結界で守ってくれたし」
「顔も覚えちゃいねえおやじだけどよ。今日、おれはおやじを越えた。…けど」
「…けど?」
犬夜叉はもう一度鉄砕牙の束に手をやると、空を見上げる。
「ま、まあとにかくだ。これで奈落の息の根を止めてやるぜ。絶対になっ」
すたすたと再び歩き出す犬夜叉を、かごめはぽかんとして見つめた。
「ちょっと…まだ話の途中じゃないの?」
「続きはまた今度だ」

「詰めの甘い奴だ…ったく」
「面白いものってこーゆーことなの? 法師さま」
「おらにはマジメな話に聞こえたぞ」
さりげなく二人から離れ、ひそかに木陰に隠れて近づいていた弥勒、珊瑚、七宝の三人が例によってひそひそ話をしていたその鼻先に、犬夜叉がすっと立つ。
「おまえらいつもいつも…」
その様子を見たかごめは思った。
(またいつもの犬夜叉に戻っちゃったな…でも、またあんな嬉しい顔を見てみたい)

犬夜叉は胸の奥にその言葉をしまい込む。いつか言わなければならない、かごめのおかげだ…という言葉を。

−了−

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