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ベイトの人々と子どもたちを訪ねて 猪股直子
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2005年11月22日から29日、里親5人(運営委員と事務局ボランティアスタッフ含む)がレバノンに行き、ベイトの本部や難民キャンプのセンターを訪ねて、スタッフと子ども達に会ってきました。
雨季といわれていたレバノンは暖かい好天続きで、短い滞在でしたが、ベイトの皆さまのお蔭で実り多い訪問となったことを感謝しています。
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11月24日(木) −バダウィ、ナハル・エル=バーレド− |
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今日はベイト本部でいつもJCCP(パレスチナの子供の里親運動)に対応して下さる渉外担当ハナンさんの案内。9時前、車で混みあったベイルートをぬけ、北に向かって海沿いにひた走る。
右手は白い岩肌に潅木の緑が縞になった不思議な山の連なり。
その山を削りアパート群がどんどん増えている。レバノンは温暖な気候に恵まれ、野菜、果物は実に豊富。
バナナ、さくらんぼう、リンゴ、みかん、デーツ、マルメロなど、年中新鮮な果物には事欠かない。
しかし、ヨルダンやシリアと作物は同じなので、競合して輸出は難しいとか。
ハナンさんによればレバノンの主な産業は観光と教育(!)。
トリポリ近くの石油精製工場は以前イラクから石油を引いていたが内戦の時破壊され、そのままになっていた。
内戦は北部でも戦われたが、ベイルートほど酷くはなかったとのこと。
[バダウィ]
工場跡地のような赤土がむきだしの、ちょっと雨が降ればタイヤがめり込んでしまいそうな場所を進んだ先がバダウィのセンター。
案内してくれたダラル・シャフルールさんはバダウィ育ち。
このセンターで大きくなり、今は結婚して子どももいると言う幼稚園の若い女性園長。
狭いが日当りのよい中庭で遊ぶ子どもたちの中に入ってゆき、早速持っていったシャボン玉や折り紙、あやとりで遊ぶ。
「アナァ、アナァ(私も、私も)」と子どもたちが目を輝かせて押し寄せてくる。
先生が順番に並ばせて、子ども達がシャボン玉を吹くと、虹色のシャボン玉がいくつも空に舞い上がり、それを追いかける子ども達の姿は楽しい。
館内を案内して頂く。幼稚園の教室、刺繍事業の部屋、コンピューター室、そして地下の部屋では幼稚園の母親達が集って話を聞いていた。
毎月一回集り、様々な問題を話し合っている。
また、音楽の練習室にはノルウェーから毎年来る音楽教師の指導で手作りしたと言う立派なタンバリンが置いてあった。
里親・野内さんの義姉でソーシャルワーカーをしているジュマーナさんに会えたのは嬉しかった。
[ナハル・エル=バーレド]
ナハル・エル=バーレドのセンターではセンター長のアブダッラー・バラケさんが迎えてくださる。
50歳前後(?) の背の高い男性。3階の講堂ではアブダッラーさんが職業訓練として電気技術を教えている。
彼は活動の為にもう1階フロア―を建て増したい希望があると言っていた。
2階の保存食を作る部屋にはいちごジャムやトマトペーストなどの瓶が黒いビニール袋に入れられ、陽の当たる床に置かれていた。
以前は此処で販売用にも作っていたが、販路の開拓が難しく、現在では主婦達に保存食作りを教えて、それぞれが家庭で作り、個人的に使うなり、売る形に方針転換した。
センターの自己資金の獲得、あるいは女性の自立の助けを目指しても、なかなか現実は厳しいことを思わされた。
幼稚園の園庭は本当に狭く、遊具は古いタイヤのトンネルやブランコぐらい。
でも子ども達は生き生きと駆けまわっている。プレゼントのサッカーボールに大喜びした男の子達は早速ボールを追って走りまわる。
一人の男の子はあまり急に駆けまわったので、苦しくなったのか、先生に背中をさすられていた。
子ども達に呼吸器の疾患が多いことを思い出した。
       <サッカーをする少年達>
1階の玄関ホールのスペースにテーブルをしつらえ、手作りの昼食をご馳走になった。
鶏の炊き込み御飯と野菜サラダ。心づくしのお料理は柔らかな味でおいしかった。
デザートは現地で取れたバナナとみかん。新鮮で日本のものより味が濃い。
アブダッラーさんはスウェーデンに15年住んだ後、レバノンに戻り、5年前からセンター長をしている。
戻って来たのは家族や仲間と離れての暮らしが長過ぎたこと、スウェーデンの気候が寒く、また、子どもたちを自分の育った文化の中で育てたいと思ったからだとのことであった。
スウェーデンでは人々との交わりのある暮らしではなかったとも言われた。
アブダッラーさんはスウェーデンにいる間、送金を続け、二人の弟を大学にやった。
一人は外科医となり外国で働き、一人はレバノンで腎臓の専門医をしている。
ハナンさんも結婚前イエメンに働きに行き、妹と弟を大学に行かせた。
こうしてパレスチナ人は家族やコミュニティで支えあってきたが、そうしなければ生き延びてくることが出来なかったからだと言われた。
<里子のサブリーンちゃんと権藤さん>
一方、レバノン内の厳しい状況から外国で暮らすパレスチナ人も増えている。ハナンさんの妹4人と息子も海外に住んでいる。
現在、西岸とガザ地区に360万人、イスラエル国内に110万人、そして海外に散らばったパレスチナ人が490万人いるとか。
離散の民となって暮らさざるをえないパレスチナ人の苦境を思った。
権藤さんの里子、サブリーンちゃんがセンターに来て、権藤さんとご対面。ちょっとはにかんだサブリーンちゃんと嬉しそうな権藤さん。
玄関で2人の記念撮影。
帰るため、センターの入口に集っていると、電気技術の講習を受けに若者達がぞくぞくとやってきてひとり一人が私達と握手をしていく。
持っていたクッキーを進めてくれる者もいた。海外からの訪問者に馴れているのかもしれないが、知らない顔で通り過ぎるのではなく、笑顔と握手で挨拶をしてくれたのは嬉しかった。
ベイルートへの帰途、イスラエル空軍機が二機、海の上を北に向かって飛んでいった。
偵察だそうだ。こんな北まで入ってくるのかと驚いた。先週は南の方で4人が爆撃で殺された。
レバノンはますます不安定になって行くだろうとのことだった。
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11月25日(金) −ベイト本部、シャティーラ、ブルジュ・バラージネ− |
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[ベイト本部]
ベイト本部は古いビルの2階にある。事務局長カセムさん、渉外担当ハナンさんのそれぞれの部屋や、会計室、秘書室、機材室、台所を拝見。里親運動の事務局とは比べものにならないくらいスペースがある。
カセムさん、ハナンさんお二人からお話を伺う。
ベイトは若者たちの就労を助けるため各センターでコンピュータ技術を教えているが、若者たちは仕事に就けているのかと質問したところ、労働力の闇市場があるとのことだった。
しかしそこで働く者は低い賃金しか得られず、いかなる社会保障もなく、搾取されているという。
EUは最終的にレバノンのパレスチナ人がレバノン社会に同化することを目的として、パレスチナ人に市民権を与えるようレバノン政府に圧力をかけている。しかし、このことはレバノンの政治的、社会的変化を必要とし、レバノン人が納得するには時間がかかる。
また、湾岸諸国ではパレスチナ人は高い給料、賃金を得られるため、EUは湾岸諸国にもパレスチナ人に一定の割合で仕事を与えるように圧力をかけている。
毎月の家賃は、キャンプ内でも100ドル、キャンプ外では最低でも300ドルかかるので、毎月200や300ドルの収入では暮らしていけない。
キャンプ内で暮らす平均的家族で、最低500ドルは必要。現在、里親からの支援金のうち1人の子どもが直接受け取る20ドルは、子どものパン代くらいとなる。
しかし、この20ドルはパン代だけに終わるのではなく、ベイトが提供するさまざまなサービス、福祉、カウンセリング、職業訓練への入口として子どもたちを支えている。
1948年にパレスチナ人が難民となってレバノンに来てから、すでに4世代目が生まれている。
人口は増えるが、UNRWAはレバノン政府の許可がなければ土地が買えないため、キャンプ内の建物は上へ上へと伸び、とても危険な状態になっている。住宅問題は深刻である。
さらに2000年にレバノン政府はパレスチナ人が不動産を所有できず、相続も出来ないという法律を作った。
お金が出来てキャンプの外に家を買いたいパレスチナ人がいても、借りるだけで、買うことはできない。パレスチナ人はこの法律をなんとか撤回させようとしているが、難しい。
この他、ベイトは大学、高校、職業訓練レベルで36の奨学金を提供し、UNRWAもまた奨学金を出しているが、全体として十分ではない。
もし、日本で奨学金を考えている方がいるなら、里親事務局をとおし、ベイトに連絡してもらいたい。奨学金に関して子どもと直接交渉することは避けてもらいたい、という希望が出された。
[シャティーラ]
ベイトの本部から歩いてシャティーラ・キャンプに向かう。この辺りは貧しい地域なのだろうか。
人々でごった返す市場、ゴミが散乱し、様々な匂いの立ち込めるあたりを通り抜けて行く。
シャティーラのセンターは暗く、小さい。アラブ珈琲をご馳走になり、館内をセンター長のジャミーラさんに案内していただく。
補習クラス、ドロップアウトした女生徒のための特別クラス、幼稚園3学年の部屋と3歳児の保育室。
狭い教室だが、先生たちの創意工夫でほとんどのものが手作りされているという。
3階の講堂ではリナさんが小学生の子どもたち50人にスカウト(ボーイスカウト、ガールスカウト)の訓練をしている真っ最中だった。
リナさんはJCCPに手紙を書いてくれる女学生。
張りのある声で号令をかけ、きびきびとした身のこなしで子どもたちを指導する姿はとても頼もしかった。
子どもたちも元気一杯、リナさんの声に従う。ここでおいしいデーツ(なつめ椰子の実)のジュースをご馳走になった。
ジャミーラさん、リナさん、そしてやはりJCCPに手紙を定期的にくれるソーシャルワーカーのアシュワクさんと、シャティーラキャンプの中を歩いてアシュワクさんの家を訪ねる。
家々の壁にはさまれた、人一人通るのがやっとの路地は暗く、迷路のように曲がりくねって風も通らない。
<シャティーラキャンプ>               
頭上にはクモの巣のように電線が張り巡らされ、足元には細い水道管が何本も引かれたそばに汚水が溜まっている。
飲み水は買わなければならないわけだ。
下水道管は両手の親指と中指で作る輪ぐらいの大きさしかないので、雨が降るとすぐ溢れ、路地は膝くらいまで浸水。
出歩くのもままならないと言う。ところどころに駄菓子屋や小間物屋のような店をみかけた。
ジャミーラさんによると、仕事がないためキャンプ内に店を出す人が増え、今では何でもキャンプの中で揃うようになった。
アシュワクさんは妹さんや両親、義理の息子と同居の大所帯。彼女が働いている間は妹や両親に娘ラニーム(2歳)を見てもらっている。
幼稚園生の息子タレク(5歳)は恥ずかしがり屋。なかなか顔を見せてくれなかった。みかんやマルメロ、クッキーをご馳走になる。
もう立派な若者の義理の息子が同じ居間にいて、昼間にもかかわらず、ずっとテレビを見ているのが気にかかった。
仕事がないのだろう。彼とは何も話しができなかったのが心残りだ。
2時半、シャティーラのセンターに戻ったら停電だった。
電気が通じるのは午前9時から12時までと、午後4時から夜の11時まで。
発電機の借り賃も安くなく、また、オイルも値上がりしているので大変とのこと。
ジャミーラさんは携帯用の電灯を手に何事もないかのように真っ暗な事務所の中を行き来していた。
[ブルジュ・バラージネ]
ブルジュ・バラージネのキャンプではセンター訪問の後、センター長、ファディアさんの案内で里子の2家族を訪ねた。
キャンプの道はやはり狭く、迷路のよう。
シャティーラ・キャンプにも増して、多くの小さな店が目に付いたが、暗い店の奥からこちらを見ている目にいささかたじろぐ。
路地の裏窓から顔を覗かせた小さい三つ子の女の子。愛くるしい子どもたちだったが、3人とも病気をもっているため、ファディアさんは注意して見守っているのだそうだ。
最初に訪れたのはアフマド・アル=メリジ君の家。
両親と妹2人の家族5人で迎えてくれた。父親と子どもたち3人とも目が良く見えない。
遺伝的要素が考えられるという。
アフマドは心臓にも問題があり、18歳になったら手術を受けたいらしい。
現在10年生(高校1年生)。
優秀な成績で将来は大学進学を希望。詩を書くというので、自分の詩を朗誦してもらった。
妹のサブリーンは正義を実現するために弁護士になりたい、と言う。
もう1人の妹ガーダは、英語が好きだから英語の先生になりたい。しかし2人とも、それぞれ厄介な病気をかかえている。
ファディアさんはアフマドも含め、何組かの里親と里子の関係はとても良好だと語った。
子どもたちが何とか夢を実現できるようにと祈らずにはいられなかった。次はルバーニ家を訪ねる。
天井の高い家は綺麗に整えられているが、高い窓にガラスはなく、雨が吹き込み、寒さは防ぎようもない。
窓以外からも雨は容赦なく漏るとのことだった。すでによい年であろう父親は失明している。
前夫人との間の息子は戦死したとかで若々しい姿の写真が飾ってあった。痛ましい限りだ。
現夫人との間に4人の子どもたちがいる。16歳の娘サファーと15歳の息子ともども学校をやめて家を助けるために働きたいと言っているが、センターでは学校をやめないようにと説得している。9歳の娘アラーはとびきり優秀な生徒で学校1番の成績。
末っ子の7歳の女の子はどういう衝動からか、いつも自分の前髪を切ってしまうのだそうだ。
ファディアさんは2人の幼い子どもたちが可愛くてならないようで、話している間中、どちらかを膝に抱いていた。
夫人は手作りのおいしい肉詰め揚げパンをふるまってくれた。
突然の闖入者のような私たちに特別のもてなしをしてくれる心遣い。
有り難くも申し訳ない気持ちで一杯だった。
それぞれの家族とも、短い訪問で、あまり言葉も交わせず、訪ねたことが却って負担になっただけではないかと心配だった。
だが、彼らにとっては訪問を受けたということが、彼らのことを憶えている人がいるということが、少なからず意味のあることなのだと教えられた。
キャンプの路地を案内しながら、若いソーシャルワーカーのサマーさんがキャンプ内の人々の困難な状況を熱心に伝えてくれたが、ひとりひとりの状況を良く把握しているのには感心した。
しかし、UNRWAが最貧困家庭へ1人当て月3ドルずつ支給する援助は、その家の男の子が1人でも18歳になると家族全員分の支援金が打ち切られるというのには驚いた。
サマーさんの場合、姉妹しかいないので支援金は打ち切られないとか。
仕事がなく、大家族を抱えた一家の長男のくびき…その重さを思わずにいられなかった。
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11月26日(土) −ラシディーエ、ブルジュ・シャマーリ− |
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[ラシディーエ]
海沿いの高速道路を今日はカセムさん(ベイト事務局長)と南下する。
バナナ畑、オレンジ畑が続く。
これらの美しく耕作された農地は1948年にパレスチナ人が入ってきて、それまで荒地だった所を開墾したものだそうだ。
しかし、土地の持ち主はレバノン人で、パレスチナ人は労働者として雇われているだけ。
途中、キャンプではないパレスチナ人の集落のそばも通る。
2年前に高速道路ができたので、1時間半ほどでラシディーエに着く。
検問所では銃をもったレバノン兵が私たちのパスポートをチェックする。
ラシディーエ・キャンプの入口はここだけ。
昨日軍の事務所で許可を得てあったので、難なくパス。
南部らしい日差しの強さと道幅があるせいか、キャンプは明るい雰囲気。
ドイツ、ノルウェーそして里親運動からの支援で新しく建ったセンターは写真で見たとおり、きれいで立派な建物。
1階の幼稚園の3クラスには、可愛い子どもたちが土曜日にだけ提供される特別食を待っていた。
ここはダウン症の子どもたちを何人か園児として受け入れ、一緒に教育をしている。
1人が権藤さんからカメラを貸してもらい、嬉しそうに写真を撮っていた。
障害のある子どももない子どもも共に教育する統合教育は、先生の研修など、人手も費用もかかって大変らしいが、厳しい状況の中でも教育の本来のありかたを追求している姿には強い印象を受けた。
屋内運動場は玄関ホールと共用で、雨の時に遊具を持ち込んで利用するが、普段、遊具は外に積み上げてある。
センターは広々として明るく、気持ちがよい。窓からは見下ろすと白い砂浜と海がみえる。
2階はセンター長室や、補習クラス、写真技術や理容、コンピュータを学ぶ部屋など。
しかし理容を学ぶ部屋には設備らしきものはまだ何も整っていなかった。
コンピュータ室ではインストラクターのアッジャウィ先生と権藤さんが並んで座り、JCCPのホームページを開いて一緒に見る。
センター長室で日本から持参した竣工記念の品、わらべの押し絵の額を贈呈する。
まだ若い女性のセンター長、マリアムさんは取り組んできた様々な活動について熱っぽく語ってくれた。
● 2年前からノルウェーの音楽家が年に数回来て、子どもたちに音楽の指導をしている。
この9月にはマリアムさん自身パレスチナ人の音楽指導者を研修のためノルウェーに連れて行った。
このプロジェクトはノルワック(NORWAC)というNGOの支援。
● 学校をドロップアウトした子どもたちの教材としてマリアムさんが中心となって教科書とワークブックを作成した。
ドロップアウトした子どもたちは自信をなくし、自分を無益な存在と感じている。
学校の教材は彼らには荷が重過ぎるが、この新しい教科書はパレスチナのこと、家族や母親、キャンプ、歴史、職業訓練、水資源、農業、栄養、エルサレム、殉教者のことなど、彼ら自身に関わりのあることをやさしく、わかりやすく解説してあり、興味をもって学べるようになっている。
子どもたちは教科書とワークブックを通じて読み書きを習得し、考える力を培うとともに自信を取り戻すようになってきた。
● キャンプの老人は多くが病気をもち、様々な問題を抱えている。このような老人たちを対象としたプロジェクトも始めた。
若いソーシャルワーカーのモハマドはスカウト(ボーイスカウト、ガールスカウト)の子どもたちをつれてキャンプ内で募金し、センターで老人たちのためにパーティを開き、ブルジュ・シャマーリーの老人たちも招待して交流した。
● ソーシャルワーカーのモハマドは若者たちが作る機関紙の編集をしている。
週に2回ほど集まり、編集会議をしているが、資金の関係で定期的に発行できない。
● 写真技術を若者たちに教えているが、将来はこのスタジオを写真館としても利用し、収益をあげたい。
しかし資金の関係で設備がまだ整えられない。
● マリアムさんの言葉:「私たちの活動は子どもたち一人ひとりに希望の種を植え、光を育むためにあります。
何故なら、希望のないところに命はないから。そして私たちの活動は子どもや老人が何を必要としているか…ということから出発しているのです。
私にできるのは労力と時間を捧げることだけ」。
子どもたちの為に休むことなくセンターを開け、活動を続けるマリアムさん始めスタッフの献身的な姿に、自立自助の精神で困難な状況と闘ってきたパレスチナの人々の底力を見る思いがした。
屋上に上がり、キャンプを眺める。「ここから17キロ南はもうパレスチナとの国境です(――越える事の出来ない国境)。
ラシディーエから外への出口はたった1箇所の検問所があるだけ。そして背後は海です」と語るマリアムさん。……明るく、広々と拡がる景色とは裏腹に、パレスチナの人々は1.5kuのキャンプに24,000人が閉じ込められている。
それも57年を超える歳月。
このとき、『捕囚』という言葉に思い至った。
[ブルジュ・シャマーリー]
ブルジュ・シャマーリーはレバノンのなかでも一番貧しいキャンプだそうだ。産業と言えば農業しかなく、仕事がない。
ほんの少し歩いただけだが、通りもゴミが散乱し、なんとなくすさんだ感じがした。
センターも新しいラシディーエ・センターを見たばかりのせいか、余計にギャップを感じる。
センター長マフムード・エル=ジューマーさんに案内していただき、館内を見学。
3階の講堂でメンバーの2人が里子たちと対面する。
サーハンとサマーは同じ16歳の従兄妹。
はにかむ年頃なのか、なかなか打ち解けるまでにはいかなかったが、言葉を交わし、手を握り、お互いをみつめあえたひとときは、温かいもので心を一杯にしてくれた。
<バグパイプの練習をする青年達>              
センターを去る頃になって大きなバグパイプの音が響いてきた。
さっきまで里子たちと会っていた講堂で若者のグループがバグパイプの練習を始めたのだ。
このグループはベイトのバグパイプグループのなかでも年長で、その演奏は素晴らしく、外国にも演奏旅行に行ったことがあるという。
息の合った力強い響きがブルジュ・シャマーリーキャンプの困難な状況を打ち破ろうとするかのように鳴り渡り、胸を打った。
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[バールベック]
8時、シャティーラセンターのセンター長ジャミーラさんとともにバールベックヘ出発。
ベイルートを抜けると道は一気に急坂を登る。
途中、ダマスカス街道のキリスト教地区では、内戦の折に多くのパレスチナ人が殺されたことを聞く。
左手に雪をいただくレバノン山脈、右手にアンチレバノン山脈を望むベカー高原はブドウ畑やジャガイモ畑が広がりいかにも肥沃な大地。
2時間ほどでバールベックセンターへ到着。ここの難民キャンプは500m四方と小さく、人口約3000人。
以前は5000人程いたが、狭く、仕事のないキャンプに見切りをつけ、2000人がヨーロッパ、特にスカンジナビアへ出たと言う。
センターはスイスの協力で完成したばかりの白くきれいな建物。
しかし、中は冷え切って寒い。石油ストーブが各室に備えてあった。
クッキーと熱いお茶をいただきながら、話を聞く。
ソーシャルワーカーのリナさんはまだ若いが、学校をドロップアウトした18歳から27歳の女子のクラスを持ち、読み書きを教える他、工作、手芸、パーティやピクニックなどのプログラムをともにしている。
今まで家に閉じこもり、自分を無価値のように思ってきた彼女たちを励まし、自身の尊厳を取り戻すよう働きかけている。
このような活動のお蔭で、ジャミーラさんによれば、若年齢で結婚する女子が少しずつ減ってきているという。
巨大な神殿、列柱、階段の列なる壮大なバールベックの遺跡。
暑いほどの日差しと静けさのなかで石畳をたどりながら、古代の人々の計り知れない知恵と力を思うとともに、この間のあまたの破壊と殺戮の歴史をも思わずにいられなかった。
石垣の間に咲いていたげんのしょうこの小さな赤い花や野生の無花果の木を吹きすぎて行く風だけが今も昔も変らないのだろう。
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[最後に]
1997年広河隆一さんが里親7名の方々とベイトを訪れて以来、事務局スタッフを含めた里親運動のグループとしては実に8年ぶりの訪問であった。
実質4日間の短い日程だったが、ベイトのスタッフや子どもたちに会い、里子の家を訪問したりセンターを見学し、キャンプを歩いたことで得たものは大きい。
もっとあの時いろいろな事を尋ねて話をできればよかったと帰ってから思うことも多々あるが、なによりも、ともに手をつないで歩いている仲間と初めて顔を合わせ、交わりを持てたことが嬉しかった。
私たちを心から歓迎してくれたベイトの方々に、子どもたちに心から感謝している。
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※「マルハバ」146号、147号、148号に掲載
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