トピックス 里親運動が開催あるいは
参加してきたイベントを紹介します
ホームへ
もどる
 











































































*-*-*-* 2011年 *-*-*-*

「グローバルフェスタ JAPAN 2010」 2011. 10. 1 - 10. 2

■10/1(土),10/2(日)「グローバルフェスタ JAPAN 2011」
■場所:日比谷公園

里親の集い@京都 2011. 09. 17

■9/17(土)「<パレスチナ>私たちに何ができるのか?」
■場所:京都大学

■3月7日
ソーシャルワーカからの手紙(第7回)
■3月3日
ソーシャルワーカからの手紙(第6回)
■2月21日
ソーシャルワーカからの手紙(第5回)
■2月14日
ソーシャルワーカからの手紙(第4回)
■2月9日
ソーシャルワーカからの手紙(第3回)
■1月30日
ソーシャルワーカからの手紙(第2回)
■1月24日
ソーシャルワーカからの手紙(第1回)


*-*-*-* 2010年 *-*-*-*

「グローバルフェスタ JAPAN 2010」 2010. 10. 2 - 10. 3

■10/2(土),10/3(日)「グローバルフェスタ JAPAN 2010」
■場所:日比谷公園

イスラエル軍によるガザ支援船攻撃に対する独立した国際調査団の派遣の支持及びガザ封鎖解除に向けてのイスラエル政府への働きかけの要請」 2010. 6. 11

「パレスチナ人権センター代表 ラジ・スラーニ氏来日講演」 2010. 5. 22

■日時:2010年5月22日(日) 14:00〜17:00
■場所:立教大学池袋キャンパス 8号館8101教室)
■プログラム
2008年12月から2009年1月にかけて、パレスチナのガザ地区は イスラエル軍によって空爆・攻撃を受け、1400人もの命が犠牲となりました。 その多くは子どもや女性を含む民間人でした。 )
また、その後もイスラエルがガザの経済封鎖を継続し、 復興や人々の日常生活もままならない状況が続いています。 )
ガザ空爆・攻撃から1年以上経った現在に於いて、 いま世界に求められているパレスチナの和平の行方を ラジ・スラーニ氏に語って頂きます。
・現地活動NGOよりガザ最新報告
(特活)日本国際ボランティアセンター(JVC)
(特活)パレスチナ子どものキャンペーン
・ラジ・スラーニ氏講演
〜ガザから世界へ 私たちの求める平和と人権〜
・対談
ラジ・スラーニ氏 × NHK解説委員 出川展恒氏
(コーディネーター:ヒューマンライツ・ナウ事務局長 伊藤和子)


「清末愛砂さん講演会」
 2010. 5. 16

■日時:2010年5月16日(日) 14:40〜16:30
■場所:豊島区立 勤労福祉会館6階(第7会議室)
■プログラム
2009年〜2010年にヨルダン川西岸地区内のヨルダン渓谷を訪れ、人々と会ってきた清末愛砂さんが、写真を交えて現地の状況と人々の生きる姿を伝え、イスラエルによる占領の実相を明らかにします。

ガザへの攻撃と封鎖問題について」 2010. 3. 29

レバノンにおいてクリスマスとは」  マルハバ195号

*-*-*-* 2009年 *-*-*-*


「ガザ攻撃から1年 パレスチナに生命の光を!」
 2009. 12 .26

■日時:2009年12月26日(土) 14:00〜16:30
■場所:築地本願寺 第二伝道会館「蓮華殿」
■プログラム
・ガザ攻撃から1年 映像を使った現地報告
   古居みずえさん(フリージャーナリスト)
・対談 パレスチナ人を生きさせろ! 
    雨宮処凛さん(作家、活動家)×古居みずえさん
・FREE GAZA人文字キャンドル

「グローバルフェスタJAPAN 2009」
 2009. 10 .3/ 10.4

■日時:2009年10月3日(土)/4日(日)
■場所:日比谷公園

パレスチナの人々の海外移住の現状について」  マルハバ190号

ナハル・エル=バーレド難民キャンプからの現地報告」  マルハバ189号

「切り刻まれるパレスチナ」
 2009. 4. 25

イスラエル人の人権活動家ジェフ・ハーバさんとパレスチナ人でキリスト教司祭のナイム・アティークさんの講演会
■日時:2009年4月25日(土)13:30〜17:00
■場所:立教大学


「ガザ封鎖解除を求める署名活動」
 2008.12.1〜2009.2.28

イスラエルにより封鎖されたままの「ガザ封鎖解除を求める署名」最終的には、52175筆が集まりました。
詳しくはこちら


【ガザ封鎖解除】を求める街頭署名活動
 2009 . 2. 1

イスラエルにより封鎖されたままの「ガザ地区の封鎖解除」を求める署名とイスラエルの攻撃により破壊されたガザ地区への「緊急募金」活動をしました。

■時間:13:00〜15:00
■場所:高田馬場


【緊急開催】「ガザに光を!即時停戦を求めるピースパレード&シンポジウム」
 2009 . 1. 10

■プレイベント
  12:30上映会『パレスチナ1948NAKBA』(監督 広河隆一)
       http://nakba.jp/
       場所:増上寺 慈雲閣(都営三田線「御成門」駅から徒歩3分)
       共催:浄土宗平和協会
■ピースパレード
  15:30「芝公園23号地」集合
  16:00出発、パレード開始
  17:10「六本木三河台公園」にて終了。キャンドルで祈りを捧げます。
      (日比谷線・大江戸線「六本木」駅6番出口から徒歩2分)
  ★パレードのテーマは「ガザに光を!」
■シンポジウム
  【時間】18:30〜20:30 
  【会場】聖アンデレ教会
  【アクセス】東京メトロ日比谷線「神谷町」駅1番出口から徒歩10分
        (神谷町駅はパレード終了地最寄の六本木駅から1駅)
  【住所】東京都港区芝公園3-6-18 TEL 03-3431-2822
  【地図】http://www.nskk.org/tokyo/church/map_html/andrew_m.htm
  【参加費】無料
  【内容】・リレートーク:
       池田 香代子さん
       (『世界がもし100人の村だったら』再話者)
       広河 隆一さん(ジャーナリスト) 
       パレスチナに関わるNGOのアピール 他
      ・現地ガザからの声(電話録音)
────────────────────────────────────
■主催:1・10 ガザに光を! ピースパレード実行委員会
■呼びかけ団体:
特定非営利活動法人 アーユス仏教国際協力ネットワーク
社団法人 アムネスティ・インターナショナル日本
特定非営利活動法人 日本国際ボランティアセンター(JVC)
日本山妙法寺
日本聖公会東京教区「エルサレム教区協働委員会」
日本パレスチナ医療協会
日本YWCA
特定非営利活動法人 パレスチナ子どものキャンペーン
パレスチナの子供の里親運動
ピースボート
平和をつくり出す宗教者ネット
『1コマ』サポーターズ
■賛同団体:
平和を実現するキリスト者ネット
在日本韓国YMCA
日本カトリック正義と平和協議会
平和を学び考え願う仏教者の集い
シェア=国際保健協力市民の会



*-*-*-* 2008年 *-*-*-*

「イスラエル大使館への要請行動」
 2008 . 12 . 30

ガザへの空爆に抗議し、人道支援を求めてNGO団体が共同で、中曽根外務大臣およびイスラエル大使に要請文を出しました。

参加団体:
アムネスティ・インターナショナル日本/アーユス仏教国際協力ネットワーク
日本国際ボランティアセンター/日本山妙法寺
日本YWCA/日本パレスチナ医療協会
パレスチナ子どものキャンペーン/パレスチナの子供の里親運動
ピースボート/生物多様性フォーラム
平和を作り出す宗教者ネット/「1コマ」サポーターズ
日本聖公会東京教区エルサレム協働委員会



「グローバルフェスタJAPAN2008」
●日  :2008年10月4日(土)、5日(日)
●場所 :日比谷公園


「現在のナハル・エル=バーレドと、ベイトの活動」
 2008 . 6. 29

報告者:中村哲也(「パレスチナ子どものキャンペーン」スタッフ)
日時:6月29日(日) 午後3時〜午後4時
場所:新宿リサイクル活動センター
交通:高田馬場駅、徒歩1分
主催:パレスチナの子供の里親運動


エンドレス・フィルムに『ジ・エンド』を!」  マルハバ185号


ハーレド(里子)を訪ねて」  マルハバ182号


「岡真理さん講演会」 2008 . 6. 15
〜ナクバから60年、今、パレスチナ問題の根源を考える〜

講演者:岡真理(京都大学大学院准教授)
日時:6月15日(日) 午後2時半 開演
参加費:500円
場所:大阪市中央公会堂 地下1階の展示室(兼会議室)
交通:地下鉄御堂筋線・京阪電鉄「淀橋駅」下車徒歩5分
※広河隆一氏撮影のミニ写真展も開催
主催:パレスチナの子供の里親運動


*-*-*-* 2007年 *-*-*-*

「ナハル・エル=バーレド 緊急募金のお願い」 2007. 5. 30
 またも戦火に追われたパレスチナ難民とその子どもたちのために

「横浜国際フェスタ2007」
●日  :2007年10月27日(土)、28日(日)
●場所 :パシフィコ横浜

「グローバルフェスタJAPAN2007」
●日  :2007年10月6日(土)、7日(日)
●場所 :日比谷公園

「フォトジャーナリスト 古居みずえさんに聞く集い」
●2007年5月27日(日) 午後2時30分〜4時30分
●新宿消費生活センター(新宿区高田馬場 4-10-2)4F 第1会議室
●映像とトーク
古居みずえさんは、1988年に初めてパレスチナにわたって以来、頻繁にパレスチナを訪ね、 インティファーダ(抵抗運動)の様子や、子どもたち、女性たちを、写真と映像で記録してきました。 長年にわたる取材から生まれたのが、2006年の映画『ガータ パレスチナの詩』です。 過酷な状況の中で営々と暮らしを紡ぎつつ、自らの詩を謳いあげてゆくパレスチナの人々の姿を世に 知らしめた画期的な映画で、古居さんは「
石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞」を受賞しました。
映像を交えながら、古居さんのなまざしがとらえたパレスチナの人々の姿、そして2006年夏の爆撃後の レバノンの様子を語っていただきます。
●参加費 :500円


〜子どもと未来を考えるチャリティーラリーW〜
「パレスチナ難民の子どもたち…」

●2007年2月4日(日)
  開場:13:00
  開演:13:30
  終演:16:00
●城北市民学習センター講堂
  大阪市旭区高殿6−14−6 tel:06-6951-1324
  地下鉄谷町線「関目高殿」駅下車4号出口より徒歩3分
●講演
  白井佐智子(パレスチナの子供の里親運動 事務局スタッフ)
●音楽演奏
  シタール演奏と朗読、アコーディオンとオーボエ
●参加費
  一般2000円、学生1000円
●主催
  子どもと未来を考えるチャリティーラリー実行委員会
●お問合せ
  事務局 06−6685−5601(人形劇団クラルテ内)



*-*-*-* 2006年 *-*-*-*

「レバノンへの緊急募金のお願い −ベイトからのお礼−」 2006 .11 .27

「レバノンへの緊急募金のお願い −終了のお知らせとお礼−」  2006 .11

「レバノンへの緊急募金のお願い −継続のお願い−」  2006 .8

「レバノンへの緊急募金のお願い」  2006 .7 . 24

「緊急声明」
  − レバノンにおけるイスラエルの武力攻撃即時停止を訴えます  2006 .7 . 21

STOP THE WALL
    
パレスチナ・ガザ地区における人道の危機に関する緊急声明
 2006.7 .11

ハマスが勝利したパレスチナの選挙について  2006 .2 .23



*-*-*-* 2005年 *-*-*-*

「パレスチナ難民の生と死をみつめて」
  −パレスチナの子供の里親運動 二十周年記念誌 − 発行 2005. 9


*-*-*-* 2004年 *-*-*-*

「壁」に関するICJ勧告から一周年

STOP THE WALL  壁は乗り越えられる   2004. 11. 9

里親運動二十周年記念講演会 パレスチナ難民の生と死をみつめて 2004. 10. 17

一コマサポーター  森沢典子さんインタビュー  2004.10.25

土地の日声明文   2004. 3. 24



*-*-*-* 2003年 *-*-*-*

STOP THE WALL パレスチナ分離壁に反対する市民/NGO世界共同行動  2003.11.21

国際協力フェスティバル
  2003・10・4

緊急報告集会 パレスチナからの証言  2003. 5. 28
    ―――西岸のYWCAから来日した人の報告集会

WORLD PEACE NOW   2003. 3. 8

WORLD PEACE NOW   2003. 2. 15

WORLD PEACE NOW   2003. 1. 18



*-*-*-* 2002年 *-*-*-*

対イラク武力行使への反対と非協力への要請    2002. 12. 5


広河隆一氏講演会   2002. 9. 29
   ―――「今を生きるパレスチナの子どもたち」 〜ベイルート虐殺から20年〜

国連主催によるパレスチナの人々を支援する市民社会国際会議   2002. 9. 23, 24


難民虐殺の日、忘れられない   2002. 9. 20
   ―――朝日新聞 「声」の欄 投稿記事

「パレスチナに平和を」 ピースウォーク   2002. 4. 29


プロミスミーティング   2002. 5
   ―――映画「プロミス」上映とシンポジウム


*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
ハマスが勝利したパレスチナの選挙について   2006 .2 .23

 2006年1月に行われたパレスチナの選挙の結果、ハマスが大勝しました。このことをレバノンに住むパレスチナの人々はどう受け止めているのでしょうか。里親運動のパートナー団体であるベイト・アトファル・アッソムードのスタッフ、ハナン・マスリさんのご意見を伺いました。
(2006年2月23日メール受信)

 私達は選挙結果について非常に気をもんでいますが、その反面、あのような結果に至った理由も又、認識しています。今回のパレスチナの選挙ほど世界中の関心を集めた選挙は過去にはありませんでした。そして、このような選挙がキリスト教徒の側も含め、大多数の承認を得た上で、完全に民主的な環境で行われたのはアラブ世界で初めてのことでした。

 私達が選挙結果を歓迎するか否かにかかわらず、あるいは、この結果が自由主義者やその他のグループにとって失望であるかどうかにかかわらず、これは民主的に受け入れられなければならない人々の決定なのです。
パレスチナの状態を注意深く見守っている者にとってこの結果は驚きではありませんが、現時点で重要なのはこうなった理由を理解しようとすることです。与党ファタハが際限なく腐敗し、社会・経済状況が非常に悪化している中で、人々のニーズに対し何ら手を打つことができなかったことがひとつ。そして、もうひとつは、イスラエルの占領による抑圧とアメリカの偏った姿勢がパレスチナの人々の状況をもはや耐え難いものとしたことがあります。この状況は人々の生活状態に大きな損害を与えたばかりではありません。それは、いつかパレスチナ人民に正義が行われ、世界中の他の人々と同じく自由に生きられる母国建設を実現しようと、多くの犠牲を払った人々の尊厳を打ち砕くものでもありました。
つまりパレスチナの人々が完全に無視されるようなことが起こっていたのです。彼らは、より多くの入植地が作られ、自分達の土地がますます失われ、彼らの存在を無視した土地の没収や村の分割を伴って分離壁が長く伸びるのを目の当たりにしてきました。さらに、イスラエルが難民問題への取組みを完全に拒否したばかりか、最近ではゴア地域の接収を決定し、それがパレスチナ人にはたとえ国家ができたとしても、存続が不可能な国しか残さないであろう事も彼らは見てきたのです。

 そのような訳で、私達の同胞は長い必死の努力と甚大な犠牲の後、気がついてみると、単なる物乞いであり、テロリストとレッテルを貼られるだけの存在になっていたのです。この問題に対するパレスチナの人々の答は投票箱の中に表れました。それは、可能であれば事態を変えるチャンスをハマスに与えて、現状を拒否することでした。

 さて、ハマスはどうなのでしょうか。もしも私達が公正であろうと望むならば、ハマスが占領に対する継続的な抵抗に加えて、人々の実際のニーズに取り組む立場と心の広いイスラム教徒的手法で日常的に社会福祉事業を行い、長い間に彼らに対する信頼感を築き上げてきたことを認めなければなりません。ハマスの統治にはこれで十分でしょうか。ハマスは当初から自分達だけでは統治が不可能であることを認識し、人々の利益を最優先するための連合(政府)に参加するよう他のあらゆる勢力に呼びかけていました。しかし、ファタハが大部分の公的職務を握っている現状から見ればこのような連合は非常に難しいでしょう。また、主に教育と社会福祉に関する官公庁業務はパレスチナ人民の存続に関わることを考慮して、ファタハが協力してそのような業務をハマスに任せるかどうかも現在、明らかになっていません。
その上、障害となり始めた地域的および国際的要素があります。つまり、ある種の前提条件にこだわったり、経済援助を中止すると脅迫することで、パレスチナ人民の行った選択を罰しようとする動きです。このような態度をパレスチナの人々は、中東に民主主義を求め続けてきたのは彼らなのに欺瞞的だ、とみなしています。

 私達はレバノンに住むパレスチナ難民として、他の全ての人々と同様に、難民問題についてどのような政治的プログラムが発表されるのか、又、この国におけるパレスチナ問題に対処することになっているPLOの事務局がレバノンに再開されるのかどうかを見守っています。

 欧米諸国は中東の人々に民主主義と表現の自由を教えるために資金を提供してきたのですから、人々の選択の結果を受け入れるのは当然のことです。なしうることはパレスチナ内部の非宗教的NGOに権限を持たせ、彼らが政府の行動を監督し、必要に応じて介入する機会を与えることです。そして、地域全体に平和をもたらす唯一の道となる社会的正義を実現するために、貧困と失業の解消に、多大の努力を払うことです。確信すべきことは、結局、貧困と不正とが私達全員が力を合わせて戦うべき真のテロリストなのだということです。

↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
「壁」に関するICJ勧告から一周年
  私たちは「壁」建設の即時中止と原状回復を求めます

 2004年7月9日、国際司法裁判所(ICJ)は、イスラエル政府によるパレスチナ占領地域・ヨルダン川西岸地区における「壁」建設に関する勧告的意見を出しました。一周年を迎える今日、私たちは、イスラエル政府、日本を含む各国政府、国連機関、世界銀行などの諸機関がこの勧告を尊重し、その内容を実行に移すことを求めます。

 ICJは、2003年12月8日の国連総会(総会決議ES-10/14)に応じ、東エルサレムを含むパレスチナ占領地域におけるイスラエル政府の「壁」建設の法的な影響について、一年前の7月9日に以下のような勧告的意見を出しています。

 「壁」の建設は、パレスチナ占領地域での財産の破壊あるいは接収を伴っており、1907年ハーグ規則やジュネーブ第4条約(文民条約)などの国際人道法に違反する。
 「壁」の建設は、占領地域の住民の移動の自由を実質的に制限するものである。これは農業などの生産活動、医療、教育、水などの資源へのアクセスなどに深刻な影響を与えており、ジュネーブ第4条約などの国際人道法、国際人権規約、および関連する国連安保理決議に違反する。
 「壁」は、「グリーンライン 」と「壁」との間の区域に、イスラエル人入植地の大多数が含まれるよう湾曲した経路で建設されており、事実上の領土併合である。これは武力による領土の取得を禁じる原則に反しており、パレスチナ人の領土的主権と自決権を侵害している。
 イスラエルは、現在進行中の「壁」の建設作業を即時中止しなければならない。 また、イスラエルは「壁」建設のために接収した不動産を返還し、それらの原状回復が不可能な場合は当該被害者に賠償する義務を有する。
 この問題は、イスラエル・パレスチナだけでなく、国際社会全体の平和と安全に関わるものである。すべての国には、これら「壁」建設とそれにより引き起こされた事態の維持につながる援助をしない義務があり、これらの違法状態を終らせる努力をしなければいけない。

 同年7月20日には、国連総会が決議を採択し(ES-10/15)、これらのICJの勧告的意見を支持しています。
 また日本の原口国連大使は同年7月16日の国連緊急特別総会において、「壁」建設の継続を遺憾であるとして、イスラエルに適切な行動をするよう呼びかけています。

 しかし、過去一年間、「壁」の建設は中止されることなく続いています。さらにこの「壁」以外にも、イスラエル人入植者や軍のための道路が建設され、占領地域の人々の居住地域は分断され、互いから隔絶されています。これは、農民が彼らの土地や水源から切り離され、家族と家族が切り離され、子どもが学校から、また病人が医療施設から切り離されることを意味しています。私たちは、これらの政策がパレスチナ自治区の住民にさらなる困窮を強いていること、そして和平プロセスを形骸化させていることを憂慮します。
 
 私たちは、イスラエルとパレスチナが対等な立場での交渉に基づき問題を解決し、両者、および各国政府、諸国際機関がこの地域の公正と平和のために行動を起こすことを求めます。そして、占領地のヨルダン川西岸地区における「壁」建設の即時中止と解体、および国際人道法、人権諸条約、国連決議に違反し、パレスチナ人の自由を奪っている占領の終了を要請します。

                                              以上

          2005年7月9日 Stop the Wall!! 実行委員会

賛同団体
(特活)アーユス仏教国際協力ネットワーク
(社)アムネスティ・インターナショナル日本
 日本キリスト教協議会・国際関係委員会
(特活)日本国際ボランティアセンター
(特活)パレスチナ子どものキャンペーン
 パレスチナの子供の里親運動


↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
STOP THE WALL!!  「壁」は乗り越えられる   2004. 11. 9

 11月9日は今から15年前、ベルリンを東西に分断していた壁が壊された日です。今年もこの日にパレスチナで建設されている隔離壁に対する抗議の行動として、 Stop the Wall実行委員会主催によるビデオ上映と講演の会が東京・御茶ノ水の在日本韓国YMCAで開かれました。

 フォトジャーナリスト古居みずえさんのビデオは「壁」によって学校へ行くことから、給水を受けることまで、日々の生活が困難極まりないものにされた西岸地区に住むパレスチナ人家族の姿をまざまざと映し出しました。 そこからは理不尽な仕打ちを受ける人々の胸の内の思いが静かに伝わってきました。 今回の講演会はパレスチナの「壁」だけではなく、対立と分断を形作る様々な目に見える「壁」、目に見えない「壁」をどうやって乗り越えて行くのかがテーマでしたが、フォトジャーナリスト豊田直巳さんは非暴力的なNGOや市民の力への期待を語られ、映画監督でドキュメンタリー作家の森達也さんは明快に、「相手を知ることです」と述べられました。 しかし、危機管理、セキュリティ優先などのスローガンが声高に叫ばれる昨今、よく分からないまま、私たちは簡単に「他者」を排除する気持ちになっていないでしょうか。改めて私たちの内なる「壁」をも考えさせられた集いでした。

↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
「パレスチナの子供の里親運動」 
   二十周年記念講演会
 2004. 10. 17


 里親運動発足二十周年を記念する講演会が、10月17日(日)、東京都港区南青山の梅窓院祖師堂ホールで開催されました。 好天に恵まれ、地の利も幸いし、また何よりも里親の皆さまを始め多くの方々のご協力のお陰で沢山の参加者(180名余)がホールを埋めました。 そのうち里親の方々は北海道や九州、京都、長野などから来られた方々も含め、50名にのぼりました。
 広河隆一さんには「中東の戦争と日本のメディア」と題しご講演をいただきました。 また、広河さんが身の危険を冒しながら撮影して来たスライドの数々は、里親運動発足当時から最近にいたるまで、パレスチナの人々が通ってきた苦難の道のりを証しするものでした。岡 真理さんからは「パレスチナが私たちに問いかける歴史と現在」との題で、パレスチナ難民の子どもたちを支援することから見えてくる歴史の実相と私たちを取り囲む問題の所在についてお話をいただきました。 長い間パレスチナの人々と真摯に関わってこられたお二人の言葉は熱く、重く、聞くものの胸にずしりとくるものでした。 今回のお二人の講演は発行を予定している二十周年記念誌に収録し、皆さまにご紹介させていただくつもりです。


広河隆一氏  フォト・ジャーナリスト「DAYS JAPAN」編集長

 1982年イスラエル軍による包囲下、レバノン民兵によるパレスチナ難民キャンプでの虐殺事件が起きた。 ジャーナリストはもとより,国連さえもキャンプ内に入ることを阻止され完全に外界とは遮断された中での虐殺事件であった。

 事件後の難民キャンプに最初に足を踏み入れたのは広河氏である。 他のジャーナリストを誘ったが拒否され、恐怖と戦い、まさかの時のために自分の痕跡を残すためテープに声を吹き込みながら、一人でキャンプ内に足を踏み入れ進んで行った。

 そこで目にしたものは、ほんの数時間前に殺された死体であった。死体しか撮影できない口惜しさを感じた。

 1984年に1982年の虐殺現場に入ることができた。そこで残された家族(主に子ども達)の世話をしていた一人の女性に、「生き残っている人達の支援をすべきだ」と言われ、1984年9月に21名から里親運動が発足した。

 ある時、パレスチナ人の負傷者が入院しているシリアの病院を訪れた際、一人の患者が「広河」と声を掛けた。彼は広河氏を知っており、1982年にシャティーラの虐殺現場に入った広河氏の行動を正確に言い当てた。 「この事件を人々に知らせるジャーナリストの安全を保障するために陰で広河を護衛していた」と彼は言った。

 2002年パレスチナのジェニンにおける事件も,ジャーナリストは外へ追いやられ完全に封鎖された中で起きている。ジェニンでも現場への進入を何度も妨害された。 その後中央の通りから難民キャンプに向かったが、発見され、戦車に追われ,路地に逃げ込んだ。その時家の木戸が開き広河氏を内に逃げ込ませてくれた。 パレスチナ人がジャーナリストを匿うと,殺される危険性を意味しているが、ジャーナリストを助けて、難民キャンプで何が起きているか外部に知らせてもらうことが,唯一自分たちパレスチナ人を助けることにも繋がると彼は判断したのだ。

「加害者は被害(者)を隠そうとする」のであり、被害者の姿を伝えることが出来るのがジャーナリストである。現在日本のマスコミは悲惨な状況を報道しない。被害者の姿を報道しない。 また、そのような状況を取材しても伝える手段が無いのが日本の現状である。


岡真理氏  現代アラブ文学専攻の京都大学助教授

 「パレスチナの子供の里親運動」が20年の間続けてこられたのは、スタッフとボランティアの里親の熱意と努力の賜物である。 だが、パレスチナでは、今もパレスチナ人が殺されている。

 パレスチナは1947年に国連主導で分割されたものであり、その結果、難民となった者たちに対し国連は責任を負っている。 だが,国連で決議された難民の帰還の権利は現在まで実現していない。 ここ4年間で50人もが自爆という形で破壊的な攻撃を行っているが,明日への希望があったなら、決してこのようなことは起きえない。占領下でパレスチナ人は人間としての尊厳を破壊され、殺されている。 「世界から見捨てられている」と彼らが感じても不思議ではない。彼らを絶望の際に追い詰めているものは何か。 私達に無関係な事ではない。

 ホロコーストがユダヤ人だけではなく、全ての人々の身の上に起きてはならないことであるように、パレスチナ人に対する不正や犯罪も人間にとって決して起きてはならない不正や犯罪である。 この点が問われなければ、私達の行為は単なるチャリティー(施し)である。
 大阪の講演会での質疑応答で70代の在日女性が、自分は朝鮮籍であるため故郷の済州島に行くことができないが、祖国の分断と離散の原因を作った日本人はそこへ行くことができると語った。 これは故郷を追われたパレスチナ人が故郷を訪ねることが出来ないのと同じである。 パレスチナ人の苦難はパレスチナ人のみの出来事ではなく、日本人の隣人が被っている不正と同じである。レバノン社会ではパレスチナ人は70種以上もの職に関して就労が禁じられている。 日本社会でも在日の人々は就職差別があり、また、朝鮮民族学校出身者は近年まで国立大学への入学試験資格が認められていなかった。

 1982年のイスラエル軍包囲下でのレバノン民兵による難民キャンプでの虐殺を難民達は20年もの間公言できずその犠牲者を追悼することができなかったが、80年前(1923年)の関東大震災で犠牲となった朝鮮人への犯罪者は裁かれたであろうか。 公の場で記憶しなければならない事柄として扱われているであろうか。現在9月1日は防災記念日となっているが,朝鮮人犠牲者の死は忘却されている。

 2年前に来日したパレスチナ人の青年が、「パレスチナに正義がないとしたら、それは日本に正義がないということだ」と言った。その言葉が心の中に残っている。

 中東の問題が遠いと言う時,それは距離の問題ではない。その人にとって、日本社会の問題が近い存在なら、パレスチナの問題もまた,決して、遠くはないはずである。


↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
一コマサポーター   森沢典子さんインタビュー

☆一コマサポーターを始めようと思ったきっかけを教えてください。

 2002年にわたし(森沢氏)が初めてパレスチナに行き、その後広河事務所に出入するようになった時のことです。事務所には山のように(パレスチナなどの取材の)資料があり、番組になったものを見せてもらっていたのですが、その感想を求められました。その番組とは、40分くらいの番組で、あるジャーナリストが撮影し構成は某大手テレビ局。映像の所々でそこの解説委員がコメントを述べていました。それはアラファト氏が自治政府としてきちんとやっていなかったので、ジェニンのこと(2002年3月末から4月始めにかけてイスラエル軍が西岸のパレスチナ自治区の町、ジェニンの難民キャンプに大規模な侵攻を繰り広げ、多くの家屋を破壊し、多くの犠牲者がでた事件)は仕方がなかったことだったと、その番組を見ている人がそう思ってしまうような番組構成になっていました。それを広河氏はひどく怒っていました。
そして広河さんの番組は同じテレビ局で構成が広河さんだったのですが、時間は20分間でした。一人のジャーナリストが自分で構成してテレビ番組を作ると、今は20分が限界だというのです。ちゃんとドキュメンタリーを作る場がもうなくなってしまった。そのことをひどく嘆いていました。


☆20分が限界なんですか。

 今はNHKのETVもなくなってしまったじゃないですか(4月からETV特集とかたちをかえて放送)。BBCなどを見ていると一人のジャーナリストが一時間番組をしっかり作っていたりするのですが、日本ではこれだけチャンネルが増えているのにもかかわらず、大手メディアで(ドキュメンタリーを作る)機会が少なくなって、それを広河氏は嘆いていました。
ですがわたしはもっとパレスチナの番組を見たいし、一人の視聴者としてパレスチナの情報をもっと知りたかったのです。
ここに情報を出したい人がいる。ここに情報を知りたい人がいる。で、ふと周りを見渡すと膨大な量の資料が事務所の中にあるのです。その資料はほとんどがどこにも行き場がなくてただ眠っているだけなんです。
その時思ったのが、わたしたちってテレビを無料で見ているような気がしますよね、NHKなどはお金を払っているのですが。でも本当にただだろうか。例えば(目の前の食品を取り上げ)この商品を買ったとして、三分の一は宣伝費なんですね。三分の一はゴミ代(包装紙など)で、実際に食べられるのは払ったうちのほんの一部だけなんだと気がつきました。だからわたしたちは別にただでテレビを見てはいないと思ったんです。知らないうちにお金を払っているけど、本当にほしい情報が入っているのかなと思って、だったらわたしたちがお金の使い方をもう少し気をつけて、ほしい情報のために直接お金を払って、見たいものを自分達で確保していくという運動をはじめてもいいんじゃないかと思って始めたのが、この一コマサポーター運動なんです。


☆そう思い立ったのは何時頃ですか。

 2002年の6月頃です。それでその話を広河さんにしたのですが、最初彼はあまり本気にしていませんでした。でも何度も何度も話をして11月頃に、「ちゃんとお金が集まったら作ります」と、約束してくれました。それでいくらくらい必要ですかと聞いたら、「一千万円だ」と、言われました!
とりあえず半分の五百万円から始めようと思いました。だから(思い立ってから)呼びかけ文ができるまでに半年かかってしまいました。
十二月に呼びかけ文ができて、年明け(2003年)から一コマサポーターやりますと、メールで呼びかけ始め、一月二十五日にお披露目会をやったんです。それから一年経たないうちに五百万円集まったんです。一人の方から二百万円も入れてくださったんです。それで広河さんもやる気になって、2003年は二度取材に出掛け、今はその膨大な量の資料を一つ一つ翻訳など整理しているところです。それがとても細かい作業で、アルバイトを雇ってやっています。
広河さんは今DAYSJAPANに深く関わっていますが、一年、長くて二年のうちにはそれを何とかかたちにして、そこからは一線を退き、また現場にもどりたいと言っています。だから一コマサポーターは一、二年のうちにあと四百万円貯めなければいけないんです。


☆一月二十五日の報告会にはわたしもいきましたが、広河さんからはやる気に満ちたエネルギーみたいなものを感じました。それで聞くところによると、直接パレスチナ人を取材したものはメディアに取り上げられないということを聞いたことがあるのですが、大手メディアに出てくるものは必ずしも厳選されたものではないのでしょうか。

 厳選されたというよりも、その時にニュースになるものが取り上げられていく。ニュース性だけで取り上げられていくので、中々その歴史的背景などは取り上げられませんよね。だからこの問題(の本質)はなんなのかわからないまま、自爆があったとか侵攻があったとか、その繰り返しだけが延々とテレビに流れていきます。だから暴力の連鎖とかみんな平気でいいますよね。「でもこれは連鎖なのだろうか」と、いうところは丁寧に歴史を立ち返っていかない限りわからないのです。
それで一コマサポーターのモデル・・・というかライバルというかは、「シェアー」(第二次大戦下、ナチスドイツによるユダヤ人などの迫害を、主に迫害にあったユダヤ人の証言を元に構成されたドキュメンタリー映画)なんです。一月二十五日のお披露目会でみなさんに観ていただいたのですが、それがすごい内容なんです。スピルバーグが中心になって、二十四時間体制で世界中からそのホロコーストの被害にあった人たちの証言を延々集めているんです。それを映像ごとコンピューターに取り込んで、いつでも取り出せるようにしているんです、未だに。
ああやって記録に残していくということが、どれだけ大事なことかというのは、そのホロコーストのことを考えても証明されていると思うのですが、逆に言うとパレスチナのことを記録に残していくということが、映像として残していくものが、あるかもしれないけれど埋もれていると思うんです。メディアの体制が整っていないので、イスラエル側はアメリカともつながっているし、シャロン首相が一言メディアに言えば、パーッとわたしたちのところまで伝わるのだけれども、パレスチナ側が直接だすものというのは今はないですよね、テレビ局全部壊されていますから。だからこうして地道にかき集めていくしかないですね。
広河さんは自分で撮った映像のほかは、大事なものは買うつもりなんです。それで記録フィルムとして映画を作る。(記録としての)長時間物と映画館でもできるように二時間くらいのもの。それとライブラリーとしてとっておくものです。


☆なにか因果なものですね。こういうことをアラブ人ではなく、遠く離れた極東の日本人がやろうとしているなんて。

 最初英語でもチラシを作ろうとしていたんです。でももしこういう映画を作っていることがイスラエル側にわかってしまったら、取材が続けられなくなってしまうので、日本語だけでやっています。映画を作ってしまってからそれを広めるために英語の宣伝も作ろうと話しています。だから日本人だけが頼りなんです。
でもこれが完成すれば今までにないものであると、広河さんは話していました。


☆あの写真集(写真記録 パレスチナ 日本図書センター発行)も記録としてすごいものでしたね。

 今回はそれの映像版ですね。


☆企業のスポンサーを募ったりしなかったのは、やはり自由にやりたいからなのでしょうか。

 もっと大変そうだったら、財団などにも頼もうと思ったのですが、まずは千円でもいいからひとりでも多くの人に参加しておいてもらおうと考えたんです。そして映画が完成した時にものすごく多くの人が待っていた状態にしておきたかったんです。どこか一企業がポーンとお金をだしてくれれば済む話かもしれないんですが、できるだけ苦労してもっていきたいんです、お金とか上映運動に関しては。それをどこまで広げられるかぜんぜん自信はないのですが、そういう上映運動のうねりの広がり方というのがあるというのも、パレスチナらしいという気がします。
「映画ができたら、アメリカとイギリスと日本とイスラエルで同時に上映したいね」と、話しています。


☆形態としては二時間くらいの映画とデータベースとレンタルというか自主上映できようなものとになるのですか。

 上映運動中はプロジェクターで上映できるようなもので、例えば一回五万円で貸し出して、売上げの一部を返していただくというようなもので、単館上映というほどでもなく、市民上映会のようなものを想定していて、それがおさまったらDVDなどにして貸し出しをしようかと考えています。


☆ガイアシンフォニー(龍村仁監督の自主上映スタイルで環境をテーマにした映画)のやり方を彷彿させますね。

 映画の製作の過程は色々ありますが、最近の上映運動に関しては市民の力に支えられているものが多いと思います。だからこそ今だからできるんじゃないかと思うんです、映画さえきちんとできていれば。


☆映画の内容は、パレスチナ人の記録と共に、わたしたちがこれからどうしなければならないのかなどを問うような示唆を含んだものになるのでしょうか。

 制作内容については広河さんに任せてあるのでよくはわからないのですが、わたしたち(事務局スタッフたち)はこれを通して何かを悟ってみたいという期待はないんです。だから淡々と記録をそのまま事実として伝えるまでで、そこからは各自の問題なので、でも観た人はそれで充分じゃないかと思うんです。


☆パレスチナの事実にはそれ自体に観た人を圧倒させるものを含んでいるのでしょうね。呼びかけてから一年くらい経ちましたが、現在の状況はどうなのでしょうか。例えばスタッフが充実してきたとか・・・。

 いえいえ今まで二人くらいで、今年やっとこの人数(四名)がそろったばかりです。ただ事務局としてはそんなにルーティングワークがないので、スタッフというより今は呼びかけてくれる人がたくさんいることが大事なので、チラシを配ってくれたり、お店に置いてくれたり、あるいはお金を振り込んでくれたりすることが一番助かります。



(このあと事務局長を努める山田さんから事務局の仕事についてお話を伺いました。)


☆先程森沢さんから、事実を淡々と記録していくだけです、というお話があったんですが・・・。

 山田:そうですよ。広河さんが、「映画を作らないと何も始まらない」と、いうからそれをお手伝いしているのであって・・・。

森沢:・・・これを通して平和活動しましょうとか呼びかけないし、本当にわたしたちが知りたい情報をわたしたちの手で確保しようということで、それを持ってきてくれるジャーナリストを支えようということです。


わたしが最初想像していたものとはちょっと違うようです。わたしはもっと(平和運動の)活動の素材になるような、例えば「憎悪の連鎖」という言葉に象徴されるような認識の違いを正すような示唆にとんだものになるのかと・・・。

 森沢:結果的に観た人がそこにたどり着くことは大事ですけど、わたしたちがそれを掲げると広がらないと思うんです。単純にパレスチナのことが知りたいと思う人が参加できるようにして、広河さんが撮ってきた映像を実際に観て、結果的に何が原因なのかわかったというのがドキュメンタリーだと思うんです。わたしたちが、「イスラエルっておかしいんだよ」とかって言いながらこれをやっていくのって間違っていると思うんです。

山田:言いたいことは広河さんの映像で聞き取ってくださいということです。


☆今日はお忙しい中どうもありがとうございました。


※インタビュー:2004年2月  聞き手:運営委員  (  )内、事務局加筆

↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
3・30 土地の日声明文


 3月30日 「土地の日」の声明

 土地の日は1976年3月に起きた事件に由来しています。その日、ラビン首相に率いられたイスラエルの労働党政府は1948年に占領したグリーン・ライン内、アラブ人の町サフニーンの町営農場を数百平方キロにわたって没収することを決断しました。 イスラエルの国防大臣シモン・ペレスはその地をイスラエル軍の軍事基地及び軍の訓練場とする事で没収を正当化しました。 アラブ人地域社会の政治指導者達はその決定の履行を阻止するため、イスラエル政府と協議すべくイスラエル国会内でペレス次いでラビン首相と会談しました。

 3月30日、サフニーンの住民達が農作業をしていた時、膨大な数のイスラエル警察と国境警備隊がやってきて、農地に押し入り、住民達をそこから追い出し、周囲に柵を作って彼らの土地を没収しました。 土地没収のニュースはまたたく間に近隣の町や村に拡がり、イスラエル領内の全ての町、村々から来た数千のアラブ人達が抗議のデモ行進をして、イスラエル警察の犯罪に対する怒り、拒否、避難を表明しました。 土地を没収されたイスラエル領内のアラブ人達と連帯するための抗議のデモはヨルダン川西岸やガザのあらゆる場所で行われました。

これらの抗議行動によって、相対的に高い数の殉教者を出すことになりましたが、イスラエル領内のアラブ人達はパレスチナ人としてのアイデンティティを堅持し続けることに成功し、イスラエル政府に二度と再びパレスチナ人の土地を取り上げない事を約束させました。

 3月30日はイスラエル領内のアラブ人達がイスラエルに帰するところのイスラエル主義から自分達を解放し、パレスチナ人としてのアイデンティティを改めて確認した日として記念されています。

 1976年の出来事はいまだに大きく現在の状況に影響を与えています。1967年に占領されたパレスチナの領土では、それ以来イスラエルの入植地が拡張し続け、分離壁の建設工事が進んだが、被占領地西岸ではおよそ56.6%をパレスチナ人に残すだけとなるでしょう。 (それすらも本来パレスチナと呼ばれていた土地の12%でしかないのです。)土地を没収し、樹木を根こそぎにし、パレスチナ人の生計を、未来を破壊するイスラエルの行為は占領地で日々続けられています。
全分離壁のたった6%だけが、1967年のグリーン・ライン内100m以下の場所で建造されており、今までのところ32,000ドナム(1ドナム=!平方キロメートル)が分離壁建設のため没収され、その直接的結果として10万本以上の樹木が根こそぎにされました。 今日までに壁の124km以上がグリーン・ラインの東側1km以上離れた場所に建てられ、10万ドナムよりも多くの土地が壁とグリーン・ラインとの間に隔離され、残されることになるでしょう。

 3月30日、若者、パレスチナ人、そして海外からの人々がベイト・サフールのYMCAで集い、共に働き、木を植え、28年前に起こり、今現在もなお続いている不正な行為を記憶し、それに抗議します。


*文はエルサレムのYMCAとパレスチナのYWCAの共同声明。



―――――以下、原文―――――――――――――――――――――――――――

 Statement on the Land Day 30th of March

The Land Day refers to the beginning of March 1976 when the Israeli Labor party government, with its president Isaac Rabin, took the decision of confiscating hundreds of square kilometers of 'Sakhnin' city farms, an Arabic city inside the green line, occupied in 1948. Shimon Peres, the Israeli minister of defense, took the decision and justified it with the need of the Israeli army for building military bases and training centers in the area. The Arab community political leaders tried to negotiate with the government in order to prevent it from implementing such a decision, they met in the Israeli Knesset with Peres and then with the Prime Minister Rabin.

On the 30th of March, while 'Sakhnin' residents were in their farms, a huge number of Israeli Police and border guards forced themselves into the farmers’ land and threw them out, putting fences around and confiscating the land. The confiscation news spread fast to nearby cities and villages and thousands of Arab people from all cities and villages inside Israel marched into the streets, expressing their anger, rejection and condemnation of the Israeli police crime. Demonstrations took place everywhere in West Bank and Gaza strip in solidarity with the Arabs inside Israel and to act against the confiscation of their lands.

Despite the relatively high number of martyrs amongst them, the Arabs inside Israel succeeded in holding on to their Palestinian identity and in making the Israeli government promise never to confiscate their land again.

The 30th of March is considered the day when Arabs inside Israel released themselves from 'Israelism', referred to Israel, and reproved their Palestinian Identity.

The history of 1976 still has great relevance to the current situation. In the Palestinian territories occupied in 1967, the ever increasing settlement growth and the building of the Apartheid Wall will leave the Palestinians with about 56, 5 % of the occupied West Bank (no more than 12% of Historic Palestine). Israeli actions of land confiscation, uprooting of trees and the destruction of the Palestinian livelihood and future continues every day in the occupied territories.

Only 6% of the Apartheid Wall is being built less than 100 meters away from the 1967 green line, and so far 32,000 dunums (1 dunum equals 1 sq. km.) have been confiscated for the building of the Wall and over 100,000 trees have been uprooted as a direct effect of it. To date, more than 124 km of the Wall is more than 1 km east of the Green Line and over 100,000 dunums of land will be isolated between the Wall and the Green Line.

On the 30th of March young people, Palestinians and internationals gather at the Beit Sahour YMCA to work in the land of the organization and plant trees, to remember and object to the injustice that took place 28 years ago and that has continued to this very day.



Joint Advocacy Initiative of East Jerusalem YMCA and YWCA of Palestine


↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
STOP THE WALL!!   パレスチナ分離壁に反対する市民/NGO世界共同行動
2003・11・21

※ タイトルはイベントのタイトルを持ってきたので「分離壁」と言う言葉を使っていますが,本文では壁の実態をより的確に表現する言葉として「隔離壁」と言う言葉を用いました。

イスラエルがパレスチナ占領地、ヨルダン川西岸に建設している隔離壁をご存知ですか? 西岸地区に深く食い込んで建設されているのは電流の流れるフェンスや、所によっては8メートルの高さのコンクリート壁で、すでに180キロメートルの長さに達しています。壁の建設はパレスチナの人々の土地を奪い、家、畑を押し潰し、オリーブの木々を引き抜いて生活を破壊しています。それはパレスチナを分断し、将来のパレスチナ国家も恒久的平和の樹立も危うくするものです。

このような壁の建設に抗議の声を、というパレスチナからの呼びかけに応えて、ベルリンの壁が崩壊した11月9日を中心に、世界各地で行動が起こされました。
日本では9日は衆議院選挙の投票日でしたので、メディアの注目度を考え、11月21日(金)に日程をずらし、池袋西口公園で午後6時から“ Stop the Wall !! "と名づけたイベントを開催しました。「パレスチナの子供の里親運動」も呼びかけ団体になり,参加しました。

あたりがすっかり暗くなった中、大きなスクリーンに映し出された巨大でグロテスクな壁。それは,パレスチナをあたかも一つの収容所に変えてしまったかのように見えました。みずみずしいオリーブの木々をつぎつぎと根こそぎにしてゆくショベルカー。それは、日頃私たちが工事現場で目にするものの何倍も大きいものと聞き、身の毛のよだつ思いがしました。Stop the WALL 11・21
パレスチナを肌で感じさせてくれたのは“寸劇”です。検問に当たった2人のイスラエル兵が周りのパレスチナ人の抗議にもかかわらず、有無を言わさずパレスチナ人の若者を引き立ててゆく迫真の演技は、パレスチナの人々の日常こうむっている非人間的な扱いを実感させるものでした。また,音楽のないダンスパーフォーマンスは内に秘めた悲しみや憤りをしなやかな動きに託し、観衆はしばし静寂のなかに包み込まれました。

また,西岸のラーマッラーとベツレヘム、そして、テル・アヴィヴから携帯電話を使って会場に寄せられたメッセージが読み上げられ、現地で隔離壁に反対する人々との連帯の気持ちを新たにさせられました。

シャロン首相やブッシュ大統領等にあてた壁の建設中止を求める葉書も販売され、その場で署名をして投函する人もたくさんいました。

最初に “ Stop the Wall !! ”の呼びかけがあってから2ヶ月足らず。短い準備期間でしたが,毎週木曜日の話し合いを重ね、様々な人々が、それぞれの力を出し合って池袋西口公園での開催にこぎつけました。残念ながら、当初計画に出た8メートルの壁のオブジェを建設することは制約があってできませんでしたが、多くの方々にパレスチナの隔離壁の現状と、それによって破壊されてゆく人々の暮らしについて訴えることができ、少しでもパレスチナからの呼びかけに応えることが出来たのではないかと思います。これからもパレスチナに関わるNGOが協力し合っていけることを願いました。


* 呼びかけ団体
(特活)アーユス仏教国際協力ネットワーク
(社)アムネスティインターナショナル日本
(特活)シェア=国際保健協力市民の会
CHANCE!pono2
日本キリスト教協議会(NCC)国際関係委員会
日本パレスチナ医療協会
(財)日本YMCA同盟
ピースボート
(特活)パレスチナ子どものキャンペーン
パレスチナの子供の里親運動

(主催:Stop the Wall !!実行委員会 http://www.stopthewall.jp

↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
国際協力フェスティバル2003

  2003・10・4

さる10月4日(土)、5日(日)の2日間にわたり国際協力に関わるNGOが集って、東京の日比谷公園で国際協力を広めるためのお祭りがありました。里親運動にとっては初めての参加です。割り当てられたテント一張りの中に子どもたちの大きな写真や説明文のパネル、そして子どもたちからのカードなどを展示し、机には本やオリーブ油、オリーブ石鹸を並べて販売しました。
好天に恵まれ、会場は多くの来場者で賑わいました。私たちのテントにも沢山の人々が立ち寄り、子どもたちの写真をまとめたアルバムに見入ったり、里親と熱心に話をしていました。会場へ足を運んでくださった会員の皆様にこの場を借りてお礼申し上げます。

*参加した里親の方から国際協力フェスティバル2003
思っていたよりずっと多くの人が里親運動の前で立ち止まってくれました。また立ち寄って、熱心にアルバムを見て、いろいろ質問もして下さいました。かなり長い時間お話した人も多かったです。いい質問、鋭い質問、考えさられる質問、ご意見もあり、いい勉強にもなりました。リーフレットの手渡しも好意的に受け取って下さる方が多かったです。冷たく無視されるかも…と覚悟をしていたので嬉しかったです。
シリアの方やアラビア語を学習中の学生さんも来られました。若いカップルも結構多く、確実に若い人たちに、この問題に関心を持っている人が増えているのだ、と実感することが出来ました。
いいイベントでした。参加させていただいて感謝しています。

↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
緊急報告集会 −パレスチナからの証言−

 2003年5月28日(水)日本YWCAの主催により、パレスチナYWCAからナシヤさんとバラムキーさんを招いたパレスチナの現況報告会が御茶ノ水の東京YWCAで開かれました。

 パレスチナにおけるイスラエル占領下の暮らしは36年間続いています。とくにこの2年半は状況が酷く悪化しました。パレスチナの人々は西岸に120、ガザ地区に21設けられている道路の検問所のために行き来が自由に出来ません。また、封鎖によっても町や村は孤立させられます。さらに外出禁止令は人々の生活を予測のたたない、極めて不安定なものにしています。突如外出禁止令がでると、それがどれくらい続くのか、いつ解除されるのかも分からず、その間1歩も家から出られません。この地域のパレスチナ人の75パーセントが一日2ドル以下で暮す貧困層です。そうした貧しい家では普段から食料のストックを置いておく余裕はありませんから、射殺される危険を覚悟で、食料を調達しなければならないこともあります。家屋破壊も続いています。この2年半に5,500戸の家が破壊され、50万人が家を失いました。また、同じ期間に2,350人のパレスチナ人が殺され、22,000人が負傷しました。占領下の暮らしとはこのように自由のない、不安定な、苦しみに満ちたものです。

 このたび、新しい和平プロセスの枠組みとして浮上した「ロードマップ」には沢山の欠陥があり、多くのパレスチナ人が疑念を抱いています。しかし、他に選択肢はありません。パレスチナ人が国際社会、日本に望むのはパレスチナ人の側の話を聞いて欲しいということです。そして正義が実現されるために精神的な支援をしていただきたい。パレスチナ人は保護と連帯を必要としています。広島の惨禍を通して戦争が人間にもたらすものを知っている国民として、日本の皆様にはパレスチナの人々の思いをくみとり、連帯していただきたいと思います。


(事務局注)里親運動の支援している子どもたちはレバノンに住んでいますので、上記のような状況の中にいるわけではありません。しかし、彼らにとってパレスチナの出来事はひとごとではなく身内のことです。そしてレバノンのパレスチナの人々も多くの自由、権利を奪われ、先の見えない閉塞状況の中で日々、様々な困難と戦っていることを忘れてはならないと思います。



↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
WORLD PEACE NOW 2003.3.8 
〜もう戦争はいらない〜 報告


 1月18日、2月15日、そして3月8日へと続いた反戦運動。世界では数万人規模で行われてきたなかで、日本では東京で7000人、5000人(全国で11000人)の動員で行われてきました。
そのことを揶揄してきたのですが、今回は4万人もの人が東京の日比谷公園に集まってきました。

 参加者は若い人を中心にお年をめした方まで色々な世代の人がいて、中にはベビーカーで子どもを連れていたり、車椅子で参加していたりする人もいました。そして楽器を演奏したり個性的なプラカードを作ってきていたりと思い思いのアピールをしていました。

 政府はより一層アメリカに追随する意向を示し、反戦ムードが高まる世論に批判さえ投げかけています。
しかし確実に反戦ムードは高まっていると思います。政府の意向とはうらはら、この世論の流れはもう止めることはできないでしょう。世論を批判した発言でさえ、今回のイベントへの動員アップへと結びついてしまうのです。

 5000人から一気に4万人へと記録的な動員を示した今回のイベントは一線を越えたと思います。これからは全国各地でさまざまな“動き”が起こるでしょう。そして起こすよう私たちはより一層声をあげなければいけないと思います。

 昨年、世間の目がアフガニスタンに向けられていた時、イスラエルはジェニンへと大規模な侵攻を行いました。そしてそれはいつもとられてきた手法なのだそうです。

 現在、西岸やガザにおいてはなかば公認の非合法的なイスラエルによるパレスチナへの家屋破壊や実弾を伴った“討伐”が行われています。そしてそれを伝えるメディアはこの日本では激減してしまいました。私たちは気付かなければいけません。ひとつのニュースが隠す多くのニュースについて。

 3月8日は様々なことを考えさせられる一日になりました。


↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
WORLD PEACE NOW2003.2.15 
〜もう戦争はいらない〜


1月18日に続いて、2月15日世界同時反戦行動が文字通り世界のあちらこちらで行われました。
以下にその模様を、パレスチナ医療協会発行のメールマガジンの記事よりお伝えいたします。

       *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

国際イラク反戦統一行動、600都市で1000万人
国際的な反戦世論の盛り上がるなか、ロンドンの反戦団体「Stop the War Coalition」が呼びかけた、15日のイラク反戦統一行動は、世界各地で1万から100万人規模の集会やデモが行われ、30年前のベトナム反戦運動絶頂期を上回る世界史上最大の高揚を見せた。反戦行動は、英米や西ヨーロッパのほか、南東欧、アジア、中東、中南米などを含む全世界に及び、数百から数千人規模の集会を含めると、600都市で計1000万人が参加したと推定される。14日の国連安保理では、UNMOVICの中間報告を受けて行われた非公式協議で、対イラク武力行使を急ごうとする米英が孤立。しかし、沸き上がる世界世論に抗して戦争政策を推し進める方針は変えていない。

15日の統一行動は、アメリカの反戦団体連合「ANSWER」の呼びかける、イラク国際反戦週間(2月13日―21日)の一環。日本を含む各地でデモ・集会、ティーチイン、英米大使館、軍事基地への抗議行動などが繰り広げられる。


◆□◆ ロンドンで史上最大の反戦デモ ◆□◆
ロンドンでは、「Stop the War Coalition」など3組織が共催、主催者発表で約200万人、警察推定で75万人以上が市街地を埋め尽くした。イギリス各地250市から集まった。トニー・ベン元首相も参加、アメリカの黒人運動指導者ジェシー・ジャクソン牧師は、ハイド・パークで大聴衆を前に「まだ戦争は止められる」と演説した。


◆◆ ニューヨーク市で数十万 ◆◆
ニューヨーク市当局と連邦裁判所の反戦デモ禁止、凍りつくような寒風にもかかわらず、同市中心のマンハッタンでは、南北数キロにわたり5番街を埋めた参加者は、歩道や隣の街路まで溢れた。9・11事件被害者の遺族も含め、主催者発表で40万人、警察発表で10万人が参加。当局は制服5000人、私服数千人の警官を動員、バリケードを築き、狙撃手まで配置して厳しい警備を行った。一部で、デモ禁止に抗議する参加者数十人が当局に逮捕された。

ANSWERは、デモ禁止の本当の理由は、ブッシュ政権が反戦運動の政治的影響を恐れていることだとして、「断固とした決意をもって、反戦の意思を伝えよう」と呼びかけていた。

集会には、アパルトヘイトと闘った南アフリカのデズモンド・トゥトゥ司教、M.L.キング(3世)、歌手のピート・シーガー、ハリー・ベラフォンテら多彩な顔ぶれが姿を見せた。
ある参加者は、「パウエルまで、ブッシュやチェイニイの側に行ってしまってがっかりだ」と話していた。
イラク反戦のほか、「パレスチナに自由を」のプラカードも掲げられた。


◆◆ ローマでは100万人以上 ◆◆
政府が米英のイラク攻撃支持に傾いているイタリアのローマでは、主催者発表で300万人、警察推定でも100万人という、世界最大のマンモス集会・デモが行われた。
このほか、政府が米英の性急なイラク攻撃に反対している独仏では、ベルリンで30万―50万人(警察推定)が、パリでは、右翼から左翼まで数十万人が反戦集会・デモに参加。
さらに、北欧や中小国でも、オスロ6万人、ブリュッセル5万人、ストックホルム3.5万人、アムステルダム1万人が、イラク攻撃反対を叫んだ。ボスニアでは、内戦後初めて、ムスリム人とクロアチア人がイラク反戦のスクラムを組んだ。


◆◆ イスラエルでは、ユダヤ系アラブ系市民が共同で集会とデモ ◆◆
イスラエルでは、テル・アヴィヴで、ユダヤ系とアラブ系の平和運動組織約20団体の共同呼びかけで、反戦デモが行われ、主催者発表で3000人以上(新聞では、1500-2000人)が参加。「イラク反戦、イスラエルの占領終結」を訴える宣言を採択した。
91年のマドリード会議後、パレスチナ交渉団長を務めたアブドゥル・シャーフィ医師がガザから電話で挨拶、また、兵役拒否で投獄されているダン・タミール予備役大尉のメッセージが読み上げられ、大きな拍手を浴びた。
「イスラエル人とパレスチナ人は戦争に反対する」「ブッシュ、ブレア、シャロンこそ悪の枢軸」などのスローガンが掲げられた。
西岸のラーマッラーでも600人がイラク反戦デモを行った。


◆◆ 東京では渋谷に5000人 ◆◆
午後6時半から東京・渋谷で「ピース・アクション・イン東京」が、ピースボート、日本消費者連盟、グリーン・ピース・ジャパン、NGO非戦ネットなどの呼びかけで行われ、当協会も参加した。
細長い宮下公園はスシ詰め、ロウソクやペンライト、平和を訴えるハート型のプラカードなどを手に渋谷一帯を一周。デモの先頭が戻った後に後続が出発するほどで、主催者発表では5000人が参加。外国人の参加も目立った。
攻撃から市民を守る「人間の楯」としてイラクへ向かう日本人へのカンパ集めも行われた。
この日、午後、都内のアメリカ大使館前では、約300人が抗議行動を行った。
前日には、明治公園で労組、市民団体など2万5千人(主催者発表)がイラク反戦集会を開いた。演壇に立った、アメリカの元海兵隊員ネルソン氏は、「私は自分たちが"自由の戦士"だと信じてベトナムに行った。しかしそこで私たちがやったことは村を焼き、罪のない人々を殺す、まさにテロ行為だった」と述べた。
日本政府は、アメリカの戦争政策支持の方向を次第に明確化。国連安保理理事国に対し、武力行使容認の決議に賛成するよう、外交工作を始めていることを明らかにした。


◆◆ キャンベラで15万人 ◆

米英と並んで湾岸に派兵しているオーストラリアのメルボルンでは、14日、ベトナム反戦集会以来最大の15万人が、対イラク戦争計画に協力するハワード政権に抗議した。


◆◆ スペインで300万人 ◆◆
スペインのマドリードでは200万人、バルセロナで100万人が集会・デモに参加したと、現地の新聞などは伝えています。スペイン政府は、イタリア政府とともにイギリスの誘いに乗り、イラク攻撃支持を打ち出しています。ヨーロッパ諸国で、政府と世論の裂け目が拡大しています。分裂しているのは、EUやNATOばかりではありません。


(以上、16日のHaaretz、New York Times、BBC、Washington Post、邦字各紙、Gush
Shalomなど平和団体、市民団体のウェブサイトから)


↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
WORLD PEACE NOW
〜もう戦争はいらない〜

1月18日(土)運営委員会終了後、ピースパレード(デモ)開始の午後2時半に日比谷公園に着きました。私の予想を超えた7000もの人が思い思いのプラカードを手に集まり、平和へのパレード(デモ)をしました。

過去の悲惨な戦争体験から平和的に紛争を解決する手段として生まれた国際連合が、今戦争許可書発行所となろうとしています。

7000もの人が集まった今回の集会はNHKや毎日新聞等でも初めて報道されていました。またその後の報道でも日本を含めた各国での1.18の集会がイラク攻撃に反対する市民の大きな声として引用されています。「戦争反対」と同じ気持ちを持つ人たちが大勢集まるだけでも一つの力になるのだと実感しました。
決して状況は予断を許しませんが、平和裡への解決のために努力している人々への大きな応援になったのではと思うとともに、決して一回限りに終わらすことなく、不断に意思表示してゆくことの大事さを思いました。

最後に一言:外国人の参加が多く、今の状況に多くの人たちが危機感を持っているのだと思いました。  


  http://www.worldpeacenow.jp/









↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
   2002.12.5


米国の対イラク武力行使に対する日本政府の対応について、武力行使への反対と非協力を要請する意見書(『対イラク武力行使への反対と非協力を要請します』2002年12月5日付、内閣総理大臣 小泉純一郎殿・外務大臣 川口順子殿 あて)が、NGO有志によるネットワーク「NGO非戦ネット」より出されることになりました。

「NGO非戦ネット」は、武力によらない紛争解決を求めるNGO有志のネットワークです。賛同団体には以下のようなグループが含まれています。

特定非営利活動法人アジア太平洋資料センター
特定非営利活動法人 アーユス仏教国際協力ネットワーク
カラバオの会 (寿・外国人出稼ぎ労働者と連帯する会)
「自然と人間」編集部
特定非営利活動法人 シェア=国際保健協力市民の会
特定非営利活動法人 地球の木
特定非営利活動法人日本国際ボランティアセンター
日本ネグロス・キャンペーン委員会(JCNC)
日本ラテンアメリカ協力ネットワーク
インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)
命どぅ宝(ぬちどぅたから)ネットワーク
特定非営利活動法人 パレスチナ子どものキャンペーン
国際交流NGOピースボート
ピープルズ・プラン研究所
非暴力平和隊日本グループ
ヒューメイン・インターナショナル・ネットワーク(HINT)
るしな・こみゅにけーしょん・やぽねしあ(LEUCAENA)

NGO非戦ネット事務局
 http://www.ngo-nowarnet-jp.org
 Tel : 03-3834-2388
 Fax:03-3835-0519

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

           対イラク武力行使への反対と非協力を要請します


                                                2002年12月5日

内閣総理大臣 小泉純一郎殿
外務大臣 川口順子殿

 イラク政府は、国連安保理決議1441号に基づき、現在国連の大量破壊兵器査察団を受け入れています。米国政府は、イラク政府が同決議に対する「重大な違反」を犯したと判断すれば先制攻撃も辞さないと主張し、大規模な軍事攻撃の準備を進め、既に英国など各国に参戦や協力を要請しています。しかし、国連憲章は第2条4項で加盟国の武力行使を原則として禁止し、第33条で加盟国に紛争の平和的解決を義務づけており、米国政府などによる先制攻撃が国際法に対する重大な違反となることは明らかです。
 
 湾岸戦争では、イラクの民間人を含む多くの人命が犠牲になり、劣化ウラン弾が使用された地域では癌、白血病、免疫不全、先天障害など深刻な健康被害が広がっていると報告されています。また1991年以来続く国連による経済制裁は、食料や医薬品などを不足させ、経済を停滞させることで、深刻な栄養失調や衛生環境の劣化をもたらしてきました。国連児童基金(ユニセフ)は、国連による経済制裁が100万人を越えるイラクの人々の死を招いてきたと報告しています。さらに米英国軍は、継続的にイラク領内に爆撃を加えており、民間人の死傷者も報告されています。既に存在するこのような人道危機に加え、米英国軍などが大規模な武力行使を行えば、爆撃や戦闘の直接被害、食料配給の停止、国内避難民の増加や難民の近隣諸国への流出などが予想され、イラク及び周辺地域に住む人々の安全と平和を脅かすことになります。

 私たちは、世界各地で紛争後の市民生活の再建などに協力してきたNGOとして、また国内外で平和な社会づくりを目指し多様な活動を行ってきたものとして、多くの命を奪い人々の生活をさらに困難なものにする、いかなる武力行使も容認することはできません。また、核、生物、化学兵器などの大量破壊兵器問題に関しては、開発疑惑が持たれる国に対し国連の枠組みの中で公正な査察と適切な武器削減を行い、これらの兵器を既に公式、非公式に保有している国に対しても国際条約の遵守を徹底させることが不可欠だと考えます。


 私たちは、以上の視点を踏まえ、日本政府に以下のことを要請します。

・ 米国、英国政府などに武力行使への反対を表明すること
・ 武力行使に対する軍事、財政面を含むいかなる協力もしないこと
・ 問題の平和的解決のためにあらゆる手段を尽くすよう各国に促すこと

↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
広河隆一氏講演会

「今を生きるパレスチナの子どもたち」 〜 ベイルート虐殺事件から20年〜      2002.9.29



ベイルートのサブラ・シャティーラ・キャンプで1982年9月、パレスチナ難民が1800人以上虐殺され、それをきっかけに、日本人ジャーナリスト広河隆一氏を中心に、里親運動の母体となる活動が始まりました。

今年は虐殺からちょうど20年目にあたり、また、現在も続く厳しいパレスチナ情勢の中、特にレバノンにいるパレスチナ難民の置かれた苦境を今一度見つめ直すためにも、「パレスチナの子供の里親運動」と、里親運動と母体を同じくし、今は別組織となっている「パレスチナ子どものキャンペーン」の共催で、2002年9月29日に広河氏の講演会を行いました。



 1982年ベイルートで虐殺があった当時は、すぐには調査ができなかったが、1984年から調査を再開し、遺品を集め、数年前に遺族にいくつかを返した。遺族の中には、今でも家族の死を信じられずにいる人もいた。今も多くの遺品が手元にあるが、ベイルートにいつかサブラ・シャティーラ記念館ができるまでは、散逸してしまうおそれがあり、レバノンへは戻さないで預かって欲しいと、頼まれた。レバノン政府内には虐殺を実行したファランジストが現在役職に就いているため、今年ベイルートで虐殺の写真展を開催できたことも奇跡と言って良い。

 20年前に会った人にも再会することができた。キャンプ内のガザ病院に勤務していたユダヤ系アメリカ人看護婦のエレン・シーゲルさんもその一人で、当時のことを話し合った。9月16日に虐殺が始まり、18日にエレンたち病院の職員が皆、屋外に出され、行進させられた。その反対の方向から、2〜3時間後に私は現場に入って行った。エレンの話では、ガザ病院の看護士で白衣のない人が病院関係とわかるように、アッカ病院の医師から白衣を借りたが、見つかってしまい、射殺された。

 スポーツスタジアムで、シャロン(現イスラエル首相)を直接目撃したという難民もいた。エレンが見て私が見なかったものでは、マロン派キリスト教徒民兵がブルドーザーで道の真中に大きな穴を掘り、パレスチナ人を入れてそのまま射殺して、穴を埋め戻して死体を隠したことがある。私はその上を知らずに歩いた。穴に埋められた人の中でただ一人生存できた老人がいた。銃撃に対して、すぐそばにいたイスラエル軍兵士が何度も殺戮をやめるように軍用車のスピーカーで言ったというが、実際に終わったのは大勢殺された後だったという。 生き埋め状態にされた老人は、その後自力で脱出したという。その後、さまざまな調査がなされたが、何人殺されたのかは判らない。1000人以上が未だに行方不明である。

 今年イスラエル軍が侵攻し虐殺が行われたといわれるジェニンでも、死者の数ははっきりとはわかっていない。数を発表するのは、いつも殺した側だ。この9月、私は難民キャンプのある家族を訪問した。その家の息子4人は、虐殺の日にキャンプで行方不明。母親はあちこちに聞いてまわったが、わからなかった。数年後「東ベイルートから来た」と、ある男が訪ねてきた。4人中3人が映っているビデオを見せ、「釈放するから身代金を出せ」と言った。母親にはお金がなかったので、南部までPLOに頼みに行った。PLOは小切手をくれて、それには母親の名前を書き「息子が生きて帰ったら相手の名前にしなさい」とすすめたが、相手と話がこじれてしまい、息子は帰って来なかった。このように、行方不明者の家族から身代金をとる、身代金がとれないなら殺す、目くらましに嘘の噂を流す、といったことがおそらくたくさんあるはずだ。

 1000人以上の行方不明者達は、きっと殺されているだろう。9月にベイルートで行なった私の写真展を見に来たのは、ほとんどパレスチナ人だった。写真を見る眼が日本人とは全く違う。20年たっても「あれは親戚のだれそれ、あれは知人のだれそれ」と言ったり、「あの遺品はどこそこの家族の物だが、みんな死んでいるはずなのにいったいどうやって手に入れたのか」と詳しく訊いてきたりした。遺品や写真を収蔵する虐殺の記念館を、どこに作れば良いだろうか?ホロコースト記念館はあるのに、パレスチナ人が遺品集めなどしたら殺されてしまう。自治区では破壊されてしまうだろう。レバノンでは虐殺した側であるレバノン人が納得しないと無理だ。現在も、レバノン政府は「美しいベイルートをつくるため」にキャンプなどを潰したがっている。政府にパレスチナ人を支援するヒズボラの勢力やドルーズ派イスラム教徒がいなければ、いつキャンプが更地にされてしまうかわからない。

 今回の旅で、キファーにも会った。キファーは私の里子だったメルバットの姉で、イスラエルに6年間投獄されていた。彼女は今は2人の子どもの母である。日本などの支援を受けているパレスチナ人の子供達は、将来について考えることもできる。しかし、支援がどこからもなければ将来も閉ざされる。たとえ医師の資格をとっても職場がない。将来がない。キファーは当時戦うしかないと考え、7人グループで国境でイスラエル軍を攻撃しようとした。だが見つかってしまい、他のメンバーの投降後、リーダーだったキファーは自爆しようと思って爆弾を体に巻きつけて、隠れていた建物から出たが、そこでは仲間だけがまとまって立たせられ、イスラエル軍は自爆攻撃できないように散らばっていたため、彼女は投降させられた。

 投獄されていた間、アムネスティも赤十字も彼女の居場所がわからなかった。家族から私に連絡があり、ユダヤ人弁護士の協力のもと、最高裁で彼女がどこでどうなっているか開示することを求める裁判を起こしたが、この件が審理される前日に、キファーは釈放された。

 彼女の話によれば、拷問はレバノン人、訊問はイスラエル兵がした。投獄されていたところから袋をかぶせられて、車に乗せられ運ばれた、ということだった。キファーの青春は戦いと獄中生活だったため、心のケアが必要だった。


 この話の後、虐殺現場のスライドとビデオの映像があり、それによって、生々しさが伝わりました。

 35年間パレスチナ問題の取材に関わってきた広河氏は、その集大成となる本を今年の10月に発表します。イスラエルが建国された1948年以前パレスチナに住んでいた人達やパレスチナの様子も掲載されているとのことです。なお、広河氏の講演のあと、「パレスチナの子供の里親運動」と「パレスチナ子どものキャンペーン」からそれぞれ団体の生い立ちや活動報告、これからの活動についてのアピールなどが行われました。

(文責・事務局)

↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
国連主催によるパレスチナの人々を支援する市民社会国際会議
        
2002.9.23,24
                                      大島 みどり(元事務局スタッフ)

2002年9月23・24日ニューヨーク市の国連本部にて、パレスチナの人々を支援するNGOの国際会議が開かれ、それに自費で参加してきました。会議の正式名称は,United Nations International Conference of Civil Society in Support of the Palestinian People (国連主催パレスチナの人々を支援する市民社会国際会議)で、今回のテーマはEnd the Occupation!(占領の終結を!)です。

 参加者は2日間でほぼ400名と発表されましたが、遠方からの出席者はそれほど多くはなく、大多数がアメリカ国内、それもニューヨーク近郊で活動する団体の人々のようでした。オープニング・セッションに続き、23日に「占領地における日常生活」「市民社会と占領」、24日には「占領への挑戦」「占領の終結」という計4つのセッションが持たれ、それぞれのセッションでは3−7名のパネリストによる事例・活動報告と意見発表が行われ、発表後には一般参加者を交えた質疑応答と意見表明の時間もとられました。
パネリストは、パレスチナ自治区で活動しているパレスチナ団体(Rapprochementなど)、国際的なNGO(国際連帯運動など)、アメリカにおけるアラブ組織(アメリカ−アラブ反差別委員会など)、アメリカの大学(コロンビア大学など)、欧州・アフリカ等の国々でパレスチナ問題に関わる組織(パレスチナ問題欧州NGO調整委員会など)、そして国連のパレスチナ問題担当部門等の代表や教授で、それぞれが各組織あるいは個人の活動や研究に照らし合わせて、与えられたテーマを分析,論じていくという形式で会議は進行しました。

 昼食時には映画「プロミス」や自治区で活動するNGOとその活動に関わる人々をインタビューしたフィルム・ビデオが上映され、1日目の会議終了後には国内外で活躍する日本人アーチスト八鍬瑞子さんが中心となる「占領に反対するアーチスト(Artist against Occupation)」の作品がスライドやビデオで紹介されるなど、盛りだくさん,休む間もないほどの過密スケジュールでした。
印象に残った発表は、自治区で人間の盾となって活動をする国際連帯運動を代表するふたり、国際法について語ったプリンストン大学の教授など数名いましたが、何か特別目新しいこと、画期的な対策などが聞かれるということはありませんでした。また今回の会議は、焦点がパレスチナ自治区の占領にあてられていたため、レバノンほか他国で暮らすパレスチナ難民についてはほとんど言及されませんでした。その点に関して、もっと目を向けて欲しいという意見が、一般参加者として自治区から来ていたパレスチナ人から出され、会場から大きな拍手がわき起こりました。2日間の会議は,Plan of Action(行動プラン)とNGO Declaration(NGO宣言)が作成され終了しました。

 会議終了後2日間ほど、9.11後のニューヨークの街を回りました。グラウンド・ゼロ(世界貿易センター跡地)は、巨大な空間をフェンスが覆い,たくさんの工事関係者がクレーン車やトラックと共にせわしなく動き回る、まるで他のどこにでもあるような工事現場と化していました。ここであれほどの惨事があったことを示すのは、崩れ落ちたビルの地下部分に残る鉄筋の残骸だけで、今では世界中からひっきりなしにやって来る観光客が、フェンスをバックに写真を撮り、ひとしきり声高におしゃべりをして立ち去る『名所』となっています。

 アフガンやパレスチナ、そしてレバノンでさえ、たとえ難民キャンプが壊され、攻撃され無残な姿に変わり果てたとしても、この巨大な工事現場のように、あっという間に手厚い修復がなされることはありません。隣接するワールド・ファイナンシャル・センターの、利用する人もない大理石・ガラス張りのきらびやかなホールは、1年前の悪夢などまるでなかったかのように、今も人間の欲望、富、権力、うわべだけの美しさを人々に見せつけています。子どもたちの笑い声も聞こえないこのきらびやかなホール、痛みも祈りも感じられないその巨大な空間を造り維持するお金で、地球の反対側のいったいどれほどの瓦礫の山が元の町並みに復元され、難民キャンプの上下水道が整備され、保育園や学校が建設出来るのか…。

 マンハッタン島の沖合にあるエレス島に移民博物館を訪ねると、アメリカという国が、いかに世界のさまざまな国からの移民によって成り立っているのかが歴然としています。そしてアメリカがそうであるなら、ましてやこの地球はもっと多くの人種・民族から成り立っています。島国日本で暮らす私たちには、なかなか実感できない事実かもしれません。が、よくも悪くもグローバリゼーションが進むこの地球上で、私たちはお互いの違いを認め、尊重し、まるでジグゾーパズルの小さなピースを隙間なく埋め合わせるように生きていかなくてはなりません。

 たとえそれがどんなに小さなピースでも、それぞれの形が違うからこそぴったりと組み合わせることができるのです。どのピースひとつなくしても、地球という作品は完成しません。博物館に並ぶ、撮られてからまだ1世紀にも満たない色あせた写真の中で、夢の新大陸アメリカに渡ってきた、肌の色も目の色も、顔の造形も骨格も違う、まだ故国の服をまとったままの移民たちは、故郷を離れざるをえなかった苦渋と悲しみの中に、新世界への希望を持ったまなざしで、今を生きる私たち来館者を見下ろしていました。

注1)  文中の組織名称は英語の直訳ですので,日本語での正式名称は異なるかもしれません。ご了承ください。


↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
2002.9.20  朝日新聞 (東京版)より
***運営委員の猪股さんが、朝日新聞の 「声」 の欄に投稿され、掲載されました***

「難民虐殺の日―忘れられない」

主婦 猪股直子 (東京都文京区)

 米同時多発テロから1年。犠牲者を追悼する式典が行われました。しかし、私にとって、より特別な日はこれからやってきます。9月16日です。ちょうど20年前、この日から3日間にわたり、レバノンのベイルートにあるサブラとシャティーラのパレスチナ難民キャンプで1800人を超える人々が虐殺されました。イスラエル軍が侵攻した中での出来事です。
 その時、親を殺された子どもたちを里子として支援する運動が始まり、私も里親となりました。この29日、20年前を思い起こし、今を生きるパレスチナ難民の子どもたちのことを考える会が都内で開かれます。
 現地の福祉団体のパレスチナ人責任者が来日時に語った言葉が忘れられません。「経済的援助とともに、皆さんが私たちのことを忘れず、精神的に支援してくださっていることの意味は大きい」と。難民となって50年以上、今も困難な生活を強いられているパレスチナの人々とともに、これからも一歩ずつ歩んでゆきたいと思っています。

↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*


2002.4.29
  「パレスチナに平和を!」ピースウォークに参加しました

  

ゴールデンウィークの真っ只中、4月29日にピースウォーク(最近はデモのことをこう呼ぶそうです)が開催されました。パレスチナで行われているイスラエル軍による軍事侵攻があまりにも不条理で、それに反対する数多くの団体が合同で企画したものです。

私たち里親運動の中でもいっしょに参加したいと言う声が挙がり、自発的に集まった何人かで、「パレスチナの子供の里親運動 有志」と言うかたちで参加することに決めました。
 里親の方やPRさせてくれそうなところへチラシを発送したりすることからはじめ、プラカードや垂れ幕を作ってきてくれた人もいました。また当日は、もしかしたら他にも里親の方が来ているかもしれないと思い、垂れ幕を掲げていましたら、何人かが目ざとく見つけてくださり私たちに合流してくれました。
 なおこのピースウォークは東京と大阪で同時に開催されましたので、(私たちは東京のに参加したのですが)大阪会場で参加した里親の方もいたかもしれません。


−「世界地図を見た時に、そこが自分の家だと感じられるようになりたいんです」――

 参加者は総勢1500人(主催者発表)で、大阪会場にも250人が集まったそうです。
 東京会場は、渋谷の代々木公園からスタートし渋谷駅前を通り、表参道経由でまた代々木公園に帰ってくるというコースでした。休日でしたので人通りも多くアピールには十分な環境だったと思います。
 さまざまな団体が参加していましたから、集まった人たちもいろいろな方がいました。自作のパレスチナカラーの服を着た人もいればベビーカーに子供を乗せて参加した人もいました。日本人に混ざって在日のアラブ系の人も多数見受けられました。1500人という非常に長い列なので全員が統一した声には到底ならず、みんなそれぞれに声をあげていて、かえっ てそれが個性豊かな行進になったように感じました。特にアラブ系の人たちは人一倍大きな声をあげ、周囲の人たちを上手に盛り上げひときわ目立っていたように見えました。
 スタートの代々木公園に戻ってから、ラマラ(西岸の都市)から来たという青年がスピーチをしてくれました。彼は言いました。「世界地図を見た時に、そこが自分の家だと感じられるようになりたいんです。」
 彼らを取り巻く国際社会に対して発せられたこの言葉には、彼の切実なる思いと深い憤りとが絡み合っているようです。


↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*
2002.5.  「プロミスミーティング」に参加しました


東京中野区のBOX東中野において、映画「プロミス」の先行試写会と
それに伴うシンポジウムが行われました。

参加者:  高橋和夫 (放送大学助教授)
      北林岳彦 (パレスチナ子どものキャンペーン)
      秋本悦男 (パレスチナの子供の里親運動)



高橋  高橋でございます。この日曜日の、しかも雨模様の夜に、こんなにたくさんの方が、そんなに柔らかくてしょうがないと言う内容でもない映画を見に来てくださっていることに、熱い思いを抱いております。大変に窮屈な形でごらん頂いた方もいらっしゃるかと思いますが、申し訳ございません。高いところからお話しさせていただきます。この映画の背景というのはもちろんパンフレット等で、おわかりだと思います。現在パレスチナ側とイスラエル側の暴力の連鎖が続いているのですが、こうした暴力の連鎖が始まる寸前に作られたのがこの映画です。和平への希望をかなりの方が抱いていた段階に出来上がった映画だということを、まず指摘しておきたいと思います。個人的な考えを申しますと、ここにもいらしてますけども、何人かの方と私で、去年の六月この話の舞台となりました、デヘイシャキャンプというところを訪問しました。パレスチナの方に大変暖かい歓迎を受けたもので、この映画を見て、個人的に思うところが大変深かったわけでございます。既に状況の悪くなっている時期でした。

ちなみにこのデヘイシャキャンプというのはイスラエル軍に激しい攻撃を受けた場所で、我々を迎え入れてくださった歓迎施設も、破壊されたと伝えられております。占領地に住んでいるパレスチナ人とイスラエルに住んでいるイスラエル人というのは、本当に距離的にすると、中野と東中野ぐらいしか離れていないのです。ところが実はお互いにほとんど接触がない、人間としての接触がないんですね。で、パレスチナの占領地の人から見ると、イスラエル人というのは、要するにイスラエル軍の兵士として、銃を持って、我々を脅かして、「身分証明書見せろ、おまえなんていう名前だ?どこに行くんだ?」と、人を動物のように扱う人達としか見えないわけです。逆にイスラエルの人から見ると、パレスチナ人というのは、よくてもイスラエルに来て一日だけ労働をして帰っていく、要するに、動く洗濯機であり、動く大工さんでありまして、人間の顔をした、道路掃除の機械ぐらいにしか思っていないんですね。で悪ければ、パレスチナ人というのは、テロをやる人だ、まあそういう集団だ。

そういう認識が双方にあるわけですね。どうしてこんなことになるのかというと、双方がやはり、お互いの境界を越えて、人間として触れあうことがないんですね。そうした現状を、何とかしたいというのが、この映画の製作者たちの願いだったと思うわけです。皆さんがどう思われたかは、私が判断するわけには参らないんですけれど、ふつうのエルサレムに住んでいるイスラエルの子供を、デヘイシャ難民キャンプに連れて行くということは、現在、あるいは和平をもったと思われた時期においてさえ、デヘイシャにイスラエル人が入るということ自体が大変なことです。とんでもない事を考えたんだなーと。そんな思いで、このドキュメンタリーを拝見させていただいたわけです。私の思いを延々としゃべるというのは、私は大学でいつもやっているんで、今日は、こちらにいらっしゃいます、北林さん、秋本さんのご感想から伺って参りたいと思います。秋本さんどんな風にご覧になりましたか?

秋本  パレスチナ子供の里親運動の秋本と申します。座ったままで、失礼します。今回スポットライトを浴びたのは、パレスチナ側は西岸の子供たちなんですが、私たちが支援しているのは、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプにいる子供たちが対象になっています。団体に関しては後ほど詳しいことは説明したいと思います。

パレスチナ難民キャンプにイスラエルの子供たちが行くという時に、父親が、「お前、本当に行くのか」という場面があったと思います。その場面が、私にはすごく印象に残っていまして、そこら辺が、やはり上の世代と子供の世代との、受け止め方のギャップ、現実を、一つ表しているのかなあというのがあります。それから最後に遊びに行った場面で、子供たちがいすに座って、監督をやった彼と話をしていて、最後に急にパレスチナの子が涙を流す、そういうシーンがあったと思うんですが、それがもう一つ印象に残った場面でした。その涙の意味をこれから本当に私たちもかみしめて、大事にしていかなければと思っています。

高橋  どうも有り難うございました。

北林  パレスチナ子供のキャンペーンの北林といいます。実は私はちゃんとこの映画を見ておりませんで、最後の30分位を駆けつけて見ることができただけです。すみませんが、ちゃんとした感想というのは述べられないんです。けれど、ちょうどデヘイシャのキャンプにイスラエルの子供たちが、行くことを決断していく過程と、それから車に乗って検問所を通っていくという、そして会ってみたら、みんなうち解けてる、という場面は見ました。>

やっぱり皆さんご覧になって同じように思われたと思うんですが、普段双方が、大人たちがいろいろしゃべる、いわゆる政治的な言葉の環境の中に生きていて、子供たちも否応なくそれに影響されて、感化されていく。暴力には暴力で答えるしかないじゃないかという常識みたいなものが刷り込まれていく、でも実際に会ってみるとやっぱり同じ人間じゃないか、同じ子供じゃないか、という様子が描かれています。イスラエルの子どもを迎え入れるに当たっていろいろ議論してましたが、子供が子供を殺した訳じゃないんだから、私たちはお互い責任はないんだ、会うことに不都合はないんだ、という風な議論がありました。まさにまっさらなところからスタートすれば、話し合いができるんだということなんです。そういうところはですね、虚心に、あの映画を見たいと僕も思うんです。

ただそれを許さないものがある、というのがこの映画を取り巻く状況です。つまりあそこで行われているのは、どっちもどっちのイスラエル人とパレスチナ人の戦いではなくて、片方が、一方を軍事力で占領している。そして検問所で、さっき高橋先生が言われたように、人を荷物のように扱う、今は戦車で蹂躙して、病人や臨月のお母さんが救急車で運ばれてきても通さないとか、農産物は腐らせる。経済活動、市民生活どころではなくて、今はもう自治自体が崩壊的になっている状況ですね。そういう状況を許すような、力の強いものは力の弱いものを屈服させてる、という論理の中で、ああいう政治的な言葉がいろいろ語られている。そのことは、やっぱり踏まえておきたい。その点では、虚心にあの映画を見られない事情というのも、残念ながら存在しているということは、お伝えしておきたいと思います。

高橋  はいどうも有り難うございました。デヘイシャだとか、イスラエルだとか、占領地という地名が飛び交っていますけども、非常に詳しい方はいいんですけども、ブルーのパンフレットに簡単な略図がありますんで、見ながらお話を聞いていただくと、ぼんやりとした位置関係はお分かりいただけるかと思います。

現在の状況に北林さんが言及なさいましたので、私もちょっと、その点についてお話をします。この映画が作られる最後の段階、2000年の夏ぐらいまでは、この問題の交渉が、アメリカの仲介で、行われたわけです。で、クリントン大統領という方が、1993年の1月から2000年の1月まで、8年間大統領を務められたんですけども、2000年の段階になって、最後の段階になって、大統領の任期が切れるという段階になって、考えたわけです。

この8年間私は何をやったんだろう。何の業績もない。歴史はクリントンを何と記憶するんだろう。あーモニカさんと楽しくやった大統領としか記憶されないんじゃないか。」

というようなことをクリントンさんは思い出して、最後に、いいことをして、歴史に名を残したいと思われたのです。そこで中東和平というのを一生懸命やったわけです。で、アラファトさんと当時のバラクさんをアメリカに招待して、和平交渉やりました。ですがどうしてもまとまりませんでした>。

この和平交渉が、まとまるかまとまらないかというこの段階で、イスラエルの次の総選挙が見えてきたわけです。総選挙に、当時の野党のリクード党のシャロンさんは、野党の指導者として、バラクさんに一騎打ちを挑むつもりでした。しかし、シャロンさんというのは、いろいろ昔から、いろんな古傷を負った人物です。今ひとつ、国民の人気が盛り上がりませんでした。ということで、シャロンおろしという動きが野党内にあったわけです。で、そうした動きの中で、シャロンは、絶対におろされてはならない。自分は強い指導者であるというのをイスラエル国民に印象づけようとしたわけです。でどうやったらそれを印象づけられるかというと、イスラム教徒が一番嫌がることをして、一番強硬なところを見せれば、タカ派の人達は私に付いてくるだろ。と計算しました。そこで、エルサレムの、アル・アクサモスクというところにシャロンさんは行くわけです。このモスクはイスラムの聖地です。シャロンさんはユダヤ教徒ですよね、イスラム教徒の聖地に、ユダヤ教徒が入る、中でもシャロンさんが入るというのは、パレスチナの人の怒りをかいました。それ以来、インティファーダと言いますけれどパレスチナの人達の激しい抵抗運動が続いてるわけです。

それ以降の状況をちょっとお話ししますと、和平もうまくいかなかったということで、シャロンさんが、予想通り次の選挙で、勝ったわけです。シャロンさんが勝ったんですけれど、彼の公約は、そのパレスチナ人の抵抗運動を押さえ込むという公約だったんです。けれど、なかなか押さえ込めない、ということで、シャロンさんは力づくで、というのを思ってたんです。けれども、あまり力づくでやりますと、国際社会もありますし、フジテレビも見ているかもしれないということで、チャンスを待ってたんです。そしたら、9月11日の事件が起こって、アフガニスタンで、テロとの戦争だというんで、アメリカ軍が爆撃を始めたんです。テロとの戦争で、爆弾を落としてもいいんだったら、テロとの戦争という名目で、パレスチナ人の、占領地の中のほんの一部しかないんですけれど、自治地域を力で制圧してもいいじゃないかということになります。そしてイスラエル軍が動いたのです。

話は少し変わりますが、さっき入り口で、非常にたくさんの皆さんが入ってくるのを見てて、うれしいというのと、もう一つはやっぱり日本はいい国だなーと思ったんです。何故かといいますと、イスラエルでこれだけ人が集まるといいますと、必ず怖いお兄さんがそこに立っていてみなさんのかばんをひとつづつ開けて、「大丈夫かな」、「大丈夫かな」、「何も入っていないかな」とチェックします。今の状況だと、イスラエルでは相当な決意がないと、映画館には来れないわけです。つまりパレスチナ側も非常に厳しい状況ですし、イスラエルの人達もすごく心理的には追いつめられた状況です。そんな双方の心理をちょっと簡潔にお話ししてみたかったわけです。

映画の感想を伺ったのですが、実はここに並んでいる二人というのは、何をしている人達かというのは、皆さん興味のあるところだと思うんです。そこで、秋本さん、自分が何者で、何をやっているのかという、悪者じゃないというところをちょっとお話ししていただければと思います。

秋本  私は運営委員をこの団体でやっているんですけども、お金をもらっているわけではありません。ふだんは建築関係の内装工事の仕事をやっていまして、現場でヘルメットかぶって、職人相手に仕事しております。運営は、休日や夜仕事帰りに事務局に行って、何とか活動を続けているという形です。

北林  ええと、私はパレスチナと関わるようになったのは、学生時代からです。16,7年になりますかね。ただ職業としてNGOをやっているわけではありません。NGOというとかっこいい仕事のように思われて、最近あのう就職希望しますという人が、よくリクルートルックで来たり、来なかったりしますが、そんなにいい仕事じゃないです。給料も安いですし、納得してお帰り頂くまでが、結構大変だったりしますが、特に私たちのような、パレスチナの子供ということで限ってやっている NGOというのは、非常にマイナーな存在なわけです。

で、私自身は何を生業にしてるかというと、出版社、検定教科書ですけども、その営業マンをやっているわけです。ただ、今の任地が名古屋なもんですから、私自身の会社の机は東京にあるんですけども、なかなか東京で、いろいろなNGOの仕事をするということは困難で、名古屋へスポークスマンとして行って、いろんな名古屋の市民運動との間を取り持ったり、あるいは講演会に出かけていってパレスチナの状況についてしゃべったりというようなことが、主な仕事です。ただ今ちょっと過労気味ですけども、東京のスタッフは、メールですとかあるいはホームページの更新ということで、情報発信ということを、この間かなり心がけてやってきてますんで、もしかすると、皆さんの中でもご覧頂いている方もおられるかと思います。

高橋  名古屋からわざわざ駆けつけて下さいました。まあテルアビブからデヘイシャへ行くよりは大変かどうかは分からないですけども、大変なエネルギーで来て下さいました。NGOというのは、鈴木宗男さんのおかげですっかり有名になりました。それで、あの人も歴史に残る人かなと思います。もちろんNGOを生業になさっていらっしゃる人達もいらっしゃいます。しかしそうではない、ふだんは別のことをやって、9時5時は仕事をして、5時からはNGOとか週末NGOとか、気が向いたときNGOとか、まあいろんな関わり方があるんだなあということを、さっきお二人と打ち合わせをしてて教えていただいたわけです。

お二人の団体どちらも、そして、この「プロミス」の出演者たちもそうなんですけれど、現地のお子さんたちを相手になさっておられるわけです。で一言づつ、秋本さんが対象になさっておられます、レバノンのパレスチナの難民の子供たちのお話、それから北林さんにはガザ地区の子供たちのお話などを聞かせていただければと思います。

秋本  パレスチナ難民というと、今クローズアップされているのは西岸ですとか、ガザのいわゆる国内とでも言いましょうか、そこにいる人達が今クローズアップされています。ですが、周辺諸国、シリアですとかレバノン、ヨルダンあたりには、200万人を超すパレスチナ難民たちが存在します。そういう人達がどうやって生活しているかというと特にレバノンはひどいんですけども、市民権はもらえない、社会保障は受けられないなど、最低限の生活をしている、そういう状況がずーっと続いております。

1948年にイスラエルが建国されました。イスラエルの人達にとって建国記念日である日は、パレスチナの人達にとってはナクバの日と呼んでまして、「破局」を意味します。その日からもう54年の時間が流れています。半世紀以上が過ぎていますけども、彼らの生活はほぼ進展がありません。

特に、国外の人達っていうのは、一種独特のものがありまして、直接的にイスラエルから空爆を受けたりとか、そういう心配は、幸いながら今はもうほぼなくなりました。ですが、空爆を受ける心配がなくなったと同時に、和平交渉のテーブルに載ることもなくなってしまいました。テーブルに載らないってことは、つまり、何ていうか閉塞感というか、「一体私たちの存在はみんな知っているのか。」「国際社会から自分たちは忘れられてしまったんじゃないか」、といったそういう気持ちを強く抱いているようです。

1982年にイスラエルがレバノン国内に軍事侵攻しました。サブラとシャティーラというパレスチナ難民キャンプがベイルート市内にありました。そこで虐殺がおきました。約2000名以上の人が殺された、そういう事件です。そこでお父さんやお母さん、家族を失った子供たち、そういった子供たちを対象に私たちは里親制度を始めました。先ほども言いましたように、それが82年ですから、それからもう20年です。実は虐殺事件から今年がちょうど20年目の節目なんです。20年という歳月はですね、それによる直接的な被害を受けた子供たちだけではなくて、その後、父親が病気で亡くなったりなどの理由で、生活が非常に苦しいなどの状況の子達も発生してきました。現在はそういう人達も対象に含めて、私たちは支援していこうと活動しております。

北林  キャンペーンの対象にしている子供たちというのは、実は里親運動の姉妹組織としてキャンペーンが86年に出来たという経過もありますので、支援している向こうのパレスチナ人による、パレスチナ人自身の手で自立しようというNGOを支援しているわけですが、実は同じ団体を支援してたりするところもあるわけです。対象地域として、レバノンの難民キャンプがありますが、その他にいわゆるパレスチナのなかの地中海に面したガザ地区ですね、そこに対する、教育とか、あるいは保健衛生的な面での支援、それから西岸地区での人権ウオッチみたいなこと、それから 両地区のパレスチナ人自身による自立やあるいは人権を求めるNGOとの連係支援というようなことをやっています。

一番大きな仕事としては、ガザで、ろう学校を運営しています。ガザというのは広さが東京23区の半分ぐらいという比較がされますが、それぐらいの土地の中に120万人ぐらいのパレスチナ人が住んでいて、それからその他にイスラエル人が住んでいる入植地というものがあって、そこに5000人ぐらいの入植者が住んでいるということです。ただパレスチナ人の人口の8割ぐらいが元々イスラエル、今イスラエルになっているところから逃げてきた難民の人達で、非常に難民の比率が高い。元々そこのガザに住んでいた人達もいるわけですが、それ以外にイスラエルから逃げてきた人達の比率が非常に高い、従って難民キャンプの大きさが非常にでっかいわけです。

前の87年に起きた、前のインティファーダ、民衆蜂起というのは、実にガザの貧困と抑圧の状況から、もう我慢できないということで起こった抵抗運動だったわけです。その難民の比率が高い、インフラがない、貧困がひどい、そして仕事と言ったら、イスラエルに出稼ぎに行くぐらいしか仕事がないというような状況だった上にですね、保健衛生の程度も悪いし、それから聴覚障害の人が極めて多いんですね。これは先天性の聴覚疾患、あるいは失聴だけではなくて、後天的に医者にかかるのが遅れて熱病で、聴覚神経をやられてしまったという子供たちも含めてですから、多少聞こえる人と全く聞こえない人も含めてですけれども、住民の1割ぐらいは聴覚に障害があるという風に言われているんです。

ところが、93年に最初のアトファルナというろう学校が出来るまでは、全くろう学校がなかったんです。それでそれを作ろうという人が現れて、ただどこからも支援が受けられないということで、たまたま私たちの団体から、事務局員がリサーチにいって、そして彼らと出会い、じゃあ学校を立ち上げようじゃないかということで、提携してもう既に10年近くたつわけですけど、そこからたくさんの子供たちが巣立っていってます。ただ本当は巣立っていった子供たちが、ガザで本当に自分たちの職を、職業を獲得して幸せに生きることが出来ればいいんですが、今いろんな政治経済的状況が、それを許さないということになっています。私たちとしてはろう学校の支援以外に、こういう状況を変えていくためのいろんな提言とか、それから今緊急支援ですね、この春も一番被害を被っている子の封鎖とか、軍事攻撃によって被害を被っている人達への食糧とか、あるいは冬の寒さをしのぐための毛布をどうにかしようということで、緊急支援を行ったりしています。全部申し上げると大変な時間がかかりますんで、これぐらいにしておきます。

高橋  有り難うございました。1982年のレバノンのお話が出たので、ちょっとご説明申し上げます。1982年当時パレスチナ解放機構(PLO)はレバノンの首都ベイルートを中心にレバノンに展開していました。その指導者は今と同じアラファトさんです。当時のイスラエルの首相は、ベギンさんというもう亡くなった人物ですけれど、国防大臣が今の首相のシャロンさんだったんです。このレバノンにいるPLOの組織を根こそぎにしたいということで、1982年6月でしたか、イスラエル軍がレバノンの南部を制圧しました。ベイルートを包囲して、ベイルートにはアラファトさんが立てこもってたんですけれど、そのベイルートを砲撃して、民間人を巻き添えにしていました。イスラエル軍が突入してアラファトさんの首を取るかどうか、という事件があったわけです。でその後に、さっきお話のあった難民キャンプの虐殺があったわけです。ということで、実はシャロンさんがアラファトさんを包囲して、殺すかどうかという、つい最近までラマラであった事件というのはどっかで見た、ビデオのリプレイというか、何かそういう気がしました。82年に起こったことが20年後にまた何か繰り返されるという、非常にやりきれない感情を実は覚えたわけです。

ここで急に話は変わるんですけども、私は大学院の頃はニューヨークのコロンビア大学というサッチーさんのいた大学で、勉強していました。非常にユダヤ人が多い大学でして、年に1回ホロコストの記念日というのは変な言い方なんですけど、ナチスがホロコーストを決定したか始めたかの日に、ユダヤ人がデモをしていました。私の寮の向かいにあるキリスト教プロテスタント系の教会の本部を包囲して、600万人のユダヤ人たちが殺された時にあなた達は何をしてくれたのか。イエスの愛は何なのか。あなた達は愛を教えているけれどユダヤ人のためには指一本動かそうとしなかったじゃないか。という抗議をするんですね。年1回。で私は寮の部屋からそれを見てました。最近になってまたそれを思い出したわけです。なぜ思い出したかというと、今やっぱりジェニンにしろラマラにしろヘブロンにしろ、虐殺であったか大虐殺であったかという議論はあるかと思うんですけれど、やはり大規模な人権侵害が起こったということは、やはり議論の余地がないように思うんですね。本当に起こってないのであれば国連の調査団、緒方貞子先生はじめ、そんなに過激な人達じゃないわけで受け入れたと思うんです。けれども、イスラエル政府は様々な理由をつけてそれを受け入れなかったわけです。おそらく、何十年後かに人類が歴史を振り返った場合、あのとき占領地であんなに酷いことが行われた時に、あなたは何をしたのか、あなたは声を上げたのか、日本は何をしたのか、ヨーロッパ人は何をしたのか、アメリカ人は何をしたのかとやっぱり聞かれる時が来るような気がするんです。私はそれが何かすごく怖くて、将来歴史に対して、自分が責任を負えるかという気がすごくするわけです。

で、日本政府は何をしてくれたかというと、もう日本政府というのは、何かスキャンダルにつぐスキャンダルで、特に外交当局というのはほんとにあの役所がいるのかという疑問が出るくらい、尊敬できる外交官というのはたくさん知っているし、後輩も先輩もたくさんあの役所で働いて立派な方は個人としては、たくさん存じ上げているんですけども、にもかかわらず9月からの重要な時期ずっと、日本の外交当局、政府がやってきたことは、次官と外務大臣がケンカをしてきたわけです。何というか、もう霞ヶ関というのは、実はあれは間違いで、あれはアフガニスタンで、外務省の中で内戦をやっているんじゃないかというような歯がゆい思いをしております。

ご存知のように、このピースプロセスというか和平を支えるために、日本政府が大変な経済援助を行ってきたわけです。ということは皆さんの税金がいっているわけです。イスラエルが景気よく次から次へと爆弾を使って破壊してますけれど、破壊されている建物の1/3は皆さんの税金で、1/3はヨーロッパ人の税金で、1/3はアメリカ人の税金で建てられたものです。で、ブッシュさんがやっと何とかしようと出てきて、夏には国際中東和平会議をやりますと言って、その主体になるのは誰かというと、もちろんアメリカと国連とEU欧州諸国です。まあお金を出しているからそれはいいだろう、でも一銭も出していないロシアも主役なわけです。ところが日本はどこにもいないわけです。やはりそれだけ政府は何もしてない、こんなことでいいんだろうかという、怒りとも危機感とも、何とも言えない気持ちがして、今日長々としゃべっているわけです。さて、今我々は何をすべきだろうかという問いに関しては、NGOで活躍なさっておられるお二人はどんな感想を持っておられますか。

秋本  今の政治家たちに期待できず満足もしていないので、こうした活動をしているわけです。ですが政治に不満のある者などがみんなしてNGO活動をするのは無理だと思います。むしろ日常生活の中で政治への不満などの声をあげていくことが大事だと思います。

 政治家は私たちの代表なわけですから、彼らの行動をしっかり監視していく義務が国民にはあるわけです。先ほど先生が言った、経済援助で立てられた施設がイスラエルの空爆で壊されているという話がありましたが、欧州ではそういった建物の損害賠償をイスラエル政府に請求しようという動きがあるそうです。ですが、日本ではそういう声は政治家の間でも市民の間でも聞かれません。もし自分の家にトラックが突っ込んで壊されたら、壊した相手に文句をいうでしょう。親にお金を出してもらって建てた家でも同じだと思います。ですが日本国民が払った税金で建てた建物が壊された場合は文句を言う日本人がいないのは何故でしょうか。そして何もしない政治家を放っておくのは何故でしょうか。

北林  アラファトさんが幽閉されてた、公邸の中にたくさんの外国人、それからイスラエルの女性の市民運動家、ネッタ・ゴランさんがいてですね、みんなこれ以上イスラエル軍の攻撃でアラファト議長を殺させないようにということで、立てこもったわけですね。ようやく包囲が解けた時点で日本のマスコミにはそれについての記事が新聞に出ましたけれど、何でそれまで黙殺してたんかなと、ちょっと不思議な気がしました。

そういう活動をしている人達、そしてさらにそれぞれの町や村に入って、パレスチナの人々を殺させないという活動を展開しているNGOの人達がいた。それからもっと言えばパレスチナ問題のための団体ということでなくて、反グローバリゼイションということで立ち上がった団体が、今度はパレスチナが今危ないんだということでたくさん入ってきている。中にはメキシコの先住民のインディヘナの人達が、もともと反グローバリゼイションで、グループ作ったんだけども、パレスチナ人たちがそのイスラエルやアメリカにやられているというから、応援しなければいけない、ということでそこに飛んでいってということもあって、そういう新しい国際市民の連帯運動というか支援活動があった。これは確かにブルドーザーや戦車や戦闘機、対戦車ヘリなどの威力の前には、本当に紙のようなものかも知れないですけども、人間の精神として、行動しなければいけないという意味では、ものすごく大きな意味を持っていたと思います。

ただ最近その、人間の盾となるために行きましょうということを言われている人がいるんですけども、私は本当に死ぬほどの決意を持って、まわりの人達を説得できる論理を自分の中に持った上で決断して頂かないと、そういった場所に安易に入って行くことは、おすすめはしません。けれども、ただ、欧米の、腰を据えた、欧米に限りませんけれども、国際連帯運動があったということだけは、特筆すべきだという風に思います。

高橋  どうも有り難うございました。私も一言だけ付け加えさせて下さい。イスラエルとパレスチナの争いとつい言ってしまいがちです。しかしながら実はイスラエル人の中にも、今の政権がしていることは良くないと思っておられる方は非常にたくさんおられます。パレスチナ人の壊された家の復旧のお手伝いに行ったりとかパレスチナ人の人権を守るために占領地とイスラエルとのまさに境を超えて働いていらっしゃる方も、たくさんいらっしゃるんですね。それがこの「プロミス」が伝えようとしたメッセージであります。同じ人間としてやっぱり繋がるところがあるんだと思っている方はたくさんいるわけです。状況は暗いです。新聞の国際面を見ますと、何人死んだという話しか出てこないんです。けれどもそういう風に出来ることをやっている方がいらっしゃるということが、平和へのプロミスかなと、そういう風に私は自分を励ましています。

お話をずーっと続けてきたんですけど、じゃあこれからどうなるんだ、将来の展望はというお話を、最後に現場で働いた経験のあるお二人にお聞きしましょう。将来をどんな風にご覧になっていますか。

秋本  ちょっとエピソードに近いものを話したいんですが。昨年夏にキャンプに入りました。もちろんレバノン国内のパレスチナ難民キャンプですけども。すごくびっくりしたのは難民キャンプの中にもインターネットカフェが結構あるんですね。そこで彼らはホットメールをとって、メールアドレスを持っているんです。結構流暢に使いこなしている方が多くて、驚きました。

それとアクロス・ボーダーズというプロジェクトがありまして、西岸のビルゼイト大学の学生たちが中心になって作ったプロジェクトだそうで、西岸のパレスチナの方々とレバノンなどのパレスチナの方々が国境線を超えてつながろう、会おうというものです。で何故会えるようになったかというと、2000年の5月にレバノン南部を占領していたイスラエル軍が撤退した。それで国境線までお互い行けるようになったから、あそこで会おうかと、そういう計画があったんですね。そこの中心になった通信手段というのが、Eメール、インターネット関係だったそうです。現地に電話したりするとですね、通話がとぎれとぎれだし料金も非常にかかるので、なかなか情報伝達ができないんですけど、彼らはそういったインターネット技術というものを使ってお互い情報交換して、見事会うことが出来ました。ちなみにこのもように関しては、メイ・マスリ監督の「夢と恐怖のはざまで」という映画の中でそのエピソードを取り上げているので、機会があれば見たらいいんじゃないかなと思います。

特筆すべきは、そのアクロス・ボーダーズ計画というのが国境線で会うという、単発的なプロジェクトだけじゃなかったことです。カナダのNGOなどがかなり協力したらしいんですけれども、レバノン国内に約15箇所ぐらいあるパレスチナ難民キャンプにパソコンを持ち込みまして、その使い方を教えたり、そしてそこの難民キャンプのホームページを立ち上げてあげたりとか、その後キャンプ同士で、こうやってメール使えるんだよとか、そういった手ほどきを約1年間にわたって講習してあげるという、そういう継続したプロジェクトなのだそうです。それによって難民キャンプのホームページも去年ぐらいから3カ所ぐらい出来上がりまして、今まで世界に向けてメッセージを書くなんて、とても機会さえ与えられなかった彼らが、不特定多数の人に情報を発信することが出来るようになりました。現に去年ツアーに参加した人達は、メールアドレスを交換して、日本に帰ってからメールのやりとりをしていると、もっとすごい人はチャットをして話をしていると言ってました。ただ向こうとこちらでは時差が6時間とかあります。こっちがパソコンの電源をおとしてそろそろ寝ようかなという時に彼らからチャットをしようと誘ってくるので、夕べ夜中までチャットをしていて眠いようとか、笑って話す友達とかもいます。

そういったことによって、今まで私たちにとってみれば現地に行った人達の講演会に行って聞かないとわからなかった情報、あるいは東販にものらないようなマイナーな雑誌でしか見ることの出来なかった情報というのを、私たちは知るようになりました。それと同時に、現地の人達にとっては、今まで届かなかった自分たちの声を世界にむけて発信することが出来るようになりました。余談ですが、アフガンの空爆でよく、アルジャジーラという放送局がクローズアップされましたけども、レバノンのパレスチナ人たちも衛星放送でそれを見ることができます。そのことによってもアラブ側の主張という情報を得ることが出来るようになったのです。

先ほどレバノン戦争について、高橋先生からフォローして頂いたんですけども、あの状況と今の状況が似てると、あの頃の状況を思い出したと言われたのですけれど、あの頃と今とが違うことというのがあって、レバノン戦争の実像というものを当時知ることっていうのは、かなり特別の人だったわけです。あの戦争があった後、シャティーラの虐殺があった後、もう数年もたってから知ったと言う人が多かったと思います。今私たちはジェニンで行われたことを、それと並行して、それこそ翌日でもないですね。事件があった1時間後とかに、情報を知ることが出来るわけです。そのことによって皆さん多くのことを知ってしまったわけです。知らないから故に、今まで何もしなかった人達も、そのことによって問題意識を現在進行形で共有することが出来るようになったと、それが非常に大きな相違点だと思います。

多くの人が知ることによって、しかもその出来事と同時に知ることによりこれから新たな可能性が生まれてくるんじゃないかなと、そういうところに希望を持ちたいと思っています。

だからこれを単なる知識、外国は大変なんだなとか、いいことを聞いた、社会勉強になったなどと、そこで立ち止まらずに、それをスタート地点として、これからの生活の中で何か変化が起こることを期待したいです。

北林  今映画を見てて最後のクレジットの中に、イブダーというNGOの名前が出てて、ああ出てるなーと思ったんですけども、高橋先生もイブダーに行かれました? デヘイシャキャンプで子どもたちを集めて、難民対象の国連の学校で教えられないような、情操教育とか、あるいは民族教育、そして自分たちのアイデンティティーをもって自分たちの住んでる難民キャンプをどういうふうに把握しどう改善していくのか、ということを含めてやっている文化団体がありまして、民族舞踊のチームがあったりするんです。で、その子どもたちも出てたらしいのですが、ちょっとそのシーンが見られなかったのかも知れません。今秋本さんが言われたアクロス・ボーダーズプロジェクトというのは、レバノンの難民キャンプの子どもたちとイブダーの子どもたち、ガザの子どもたちが、ビールゼイト大学の仲立ちでネットを通じコンタクトし、交流するというものです。そしてレバノンのキャンプの子どもたちとイブダーの子供たちがそのボーダーで会うシーンを撮った映画がその「夢と希望のはざまで」という映画だったんです。この前イギリスでも放送されたみたいですけども、確かにそういう形で、ネットでいろんな人達が結びあう可能性が広がっている。

それから今回びっくりしたのが、私たちの知らないところで、多くの日本の人が現地へ入っている、現地の人達と結びつきを持っている。でその人たちが集会とかデモの時、初めて出会って、新たにまたネットが広がって行くというか、非常に状況は暗いけども、人のつながりというのが大分広がってきたなという印象を受けるんです。で確かにそこから何かが生み出せればいいなと思って、今まで日本人と言ってしまっていいんでしょうか、情報発信がとても下手だったんですけども、これからは英語に限らずアラビア語ヘブライ語で情報発信をするとか、向こうと結びあう、そして仲立ちをしていくというような可能性をどんどん広げていけばいいと思うんですよ。最終的にはあほなアメリカの上院議員や下院議員をどういう風に変えていけるのかという遠大な目標もありますけども、それはともかくとしても、民衆同士で結びついていくというのは大事だし、機会があれば皆さんにもイスラエル・パレスチナ双方へ入ってもらって、平和を求める人達と交流を深めていって頂けたらと思います。それが希望です。

ただ絶望もありまして、20年前シャロンが国防大臣をやっていた時にサブラ・シャティーラの虐殺が起きた、その時にキャンプはイスラエル軍に包囲されていましたから、中の状況が分からなかった。3日虐殺が行われて、その後事実が分かって、世界中が非難の声に沸騰したわけですけども、今回はリアルタイムで、西岸一体で市民生活が蹂躙され、市民が撃たれていると、分かっていながら、世界は何も出来なかった。ことはジェニンだけじゃないんです。先ほど申し上げましたように、他の市民活動家が現地に入って、体をはってやっていたという事実はありますけども、しかし結局止めさせることは出来なかったわけです。そのことの重さっていうのは、やっぱりありまして、私なんかもすごく無力感みたいなものにとらわれたこともあったんですけれど、でもとにかく署名一つ集めるんでもいいし、出かけて行ってしゃべるのもいいし、そういうことからやっていかないと、もっと無力感にとらわれるだろうなと思って、今はやっています。>

高橋  はい有り難うございます。最後は真っ暗な中で、やや明るいお話を頂いて、本当にうれしく思いました。この時間まで残っていらっしゃっる皆さんですから、きっと一言二言はあろうと思います。あと15分くらいは主催者側からお許しを頂いて、ご発言あるいはご質問など頂ければと思いますが・・・。


※ピースボード所属の方からイベントの告知あり


高橋  実は「プロミス」の宣伝をしろと言われています。ピースボードが連れてくるイスラエルとパレスチナの若者は、私もよく知っている二人です。皆さん是非来て下さい。プロミスという映画を見るというのが、問題の理解の前提になると思います。同時に二人を見て下さい。実際どんな若者か見てあげてほしいですね。

私現地に行くと思うんですけれど、イスラエルの兵隊さんはヘルメットを被ってすごく怖い顔をしているんですね。でもよく見ると、彼らは子供って言うのは失礼かも知れないですけども、18とか19で、日本で言えば渋谷とか原宿で、茶髪でうろうろしているような若い人達なんですよ。でその人達がある日、急に軍隊に呼び出されて、いきなり銃を持たされて、「お前占領地に行って警備するんだぞ」って行くわけですよ。ところが占領地に行くと、パレスチナ人がみんな怖い顔して見てるわけですよ。イスラエルの兵隊だってすごく怖いんですよ、彼らは。石を投げられたら怖いから、撃っちゃいますよね。人を殺さなければいけないわけです。人を傷つけないといけないわけです。喜んでやっている人はそんなにいるはずがないと思います。会場の皆さんの多くと同世代の若者たちです。イスラエル人も悩んでいるのでしょう。

発言者  ぼくは今大学4年生ですが、来年度から共同通信社の写真記者として報道に携わらせていただく予定の者です。そこで先ほどおっしゃられたように、新聞では何人死んだとかそういう話題しか出ないっていう意見がありまして、そういう過激な記事は、日本でいう読者の目を引いてしまうっていう現状もあるわけです。痛ましい写真ほど、部数が売れてしまうという。その意味で、実際現地に行って、本来表に出ないようなものが出来るかどうか、すごく無気力観におそわれるんですね。その点で、今報道に求めるものと、現状を踏まえた上で、ご意見をお聞きしたいんですが。

高橋  たくさんあります。これはジャーナリスト一人一人の問題じゃないと思うんですけれど、日本の大新聞社、大通信社のシステムが問題です。まず入社すると地方で何年か、警察を回って、東京の外報部とか外信部に戻ってきます。そしてイスラエルなり、エジプトなり、中東を担当して海外特派員になります。そして次は東京に帰ってきます。そして次はもうどこへ行くか分からないのです。ということで、中東の専門家として、なかなか育っていかないんです。現場は確かに踏むんですけれど、現場を何十年もカバーするという人はなかなかいらっしゃらない。中東なんかはずっと関わっては出世のじゃまだと思っているのか、それはよく分からないんですけれど。それに比べてフランスとかイギリスの某新聞なんかは、パレスチナ問題もう30年やってますとか40年やってますとかいうような人がいるわけです。分析も報道も深みが違うわけですね。

たとえば今回のラマラの事件でも、すぐベイルートのことを思い出して、あの時はこうだった、でも今はアラファトはこうだと比較が出来るわけです。20年カバーしている方は。今虐殺があったといって、パレスチナ問題を一生懸命にやって下さる、それはありがたいんですけど、10年後も20年後も、多分残念ながら30年後もパレスチナ問題はあるような気がするんですよね。ですからあんまりダッシュしないで、マラソンを3回ぐらいやるつもりで、ゆっくりゆっくりと知識と経験を蓄積して下されば、本当に日本の報道もたいしたものだと言われるようになると思います。頑張ってください。

北林  報道のことなんですけども、確かに警察回りをして、また他に回されてというシステムがありますけれども、たとえば某新聞社の某記者の方は家庭文化部にいる頃から、キャンペーンに出入りをしていただいて、今は現地の特派員で、もうカイロとイエメンと回ってエルサレムですから、かなり長くなさっているんです。そういう方もおられますし、それからまた別の某新聞の某特派員は結局その地域に対する関心が高じて、アラブの国に語学留学をされまして、どういう経過があったのかは分からないのですが、東京に戻ってこいというのを嫌だといったのか、別の新聞社に移って未だに記事を送られています。そういう方もおられますので、是非腰を据えて頑張ってください。

秋本  我々の団体が何故出来たかと言いますと、実はフォトジャーナリストの広河隆一さんという方が、レバノン戦争やサブラ・シャティーラの虐殺事件があった現地に行きまして取材をしておりました。取材をしていた時に、現地で活動しているNGOのパレスチナの女性の方に声をかけられまして、「この子達は親を亡くしてしまいました。この子達の里親になってくれませんか」と、お願いされたそうです。そういったことから私たちの団体は始まったんです。その時には20数名の子供の里親を日本に来て募集しました。今里親は300人近くになっていますが、そういったある意味NGO作って、さあどこの難民を支援しようかとかそういう形ではなくて、そういった流れで自然発生的に、ある意味で必要に迫られて作ったという、そういった団体です。
その広河さんがいうには、日本の報道カメラマンの養成というのがカメラ学校の中にあるという問題が一つあるんです。報道のカメラマンというのはカメラの技術を売りにするのではなくて、あくまでも一ジャーナリストとして使命感に燃えた、ある意味そういった責任感をもった者が手段としてカメラを使っていく、そういう背景プロセスが必要なわけで、カメラ技術を学ぶ学校に、そういう報道科というのがあるのは問題じゃないかということを言っているんです。確かにその通りだと思うんですよ。報道というのは、場合によっては、身の危険も迫ることもあるかも知れない、そういったものをご飯を食べる手段として、仕事として割り切って出来るような商売じゃないという面も、あると思います。だから僕としてはそういった意味で、ある種の覚悟を持ってやって頂きたいなというのがありますし、逆にそういった覚悟を決めた者、そういった信念を持った者がこういう報道に携わってもらいたいなと、そういう希望があります。是非熱い人になってほしいと思います。

主催者  最後は新人記者への思いやりばっかりになってしまいましたが、頑張ってください。そろそろ、日本も安心していい国なんですが、夜も更けて参りました。皆さんの明日の仕事が心配なので、お開きにしたいと思います。本日はどうも有難うございました。

↑先頭にもどる
*-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-* *-*-*-*