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リナ・シャハーディ   リナ・シャハーディ
イスマイル・ザールーラ   イスマイル・ザールーラ
直線上に配置
「レバノンに住むパレスチナの人々のことをもっと知りたい」・・・・・・そうした私たちの願いに応えて、シャティーラ・キャンプの3人が少し継続して手紙を送ってくれることになりました。アシュワクは2人の子どもをもつ母親。ソーシャルワーカーとして働いています。イスマイルは大学で土木工学を学ぶ学生。リナは女優をめざしている学生です。

第1回 (2005年7月末〜8月初旬に受信)

第2回 (2005年9月初旬〜9月下旬に受信)


***二回目*******

JCCPの皆さん
     
アシュワクさん(中央)
アシュワクさん(中央)
 ソーシャルワーカーの私の仕事へのご質問に対し、またお手紙が書けるのを、とても嬉しく思います。
 シャティーラのセンターでは、46人の子どもを含む30家族の状況を常に把握していることが私の仕事であり、私の責任になっています。30家族のうち、16家族は父親がなく、6家族は父親が身体障害者、もしくは精神の障害を持っています。
1つの家族は両親が病気で、子ども達は両親の親族と住んでおり、また、3家族の母親は再婚し、子ども達は親族または祖父母と住んでいます。(これら祖父母や親戚と住んでいる子ども達にはより一層の注意を払うために、訪問回数を多くし、彼らが家族の絆を維持できるようにし、もし問題があればその解決の手助けをしなければなりません。)
また、3つの家族は、母親が神経・精神系の病気を持っています。(これらの家族に関しては、母親の治療過程に注意をそそぎ、精神科医の診療の予約や、家事ができるよう処方された薬を規則的に服用するように手助けし、母親が子どもを育てるうえで病気が障害にならないように、より多くの時間と注意をかけています。)
私の仕事で最も大事なことは、これらすべての家族に、社会面、経済面、居住環境、それと子ども達の教育面で、常に目を注ぎ続けることです。しばしば家庭や学校に彼らを訪ね、毎月の母親の会合には常時出席します。
 私は11〜12才の子ども達を担当するソーシャルワーカーですが、この夏、すべての年齢層の子どもを対象に、7月4日から19日まで、15日間のワークショップが行われました。そのワークショップは、レバノンに住むパレスチナ難民達の帰還の権利、および市民権を基本に据えたものでした。内容は、手工芸、絵を描くこと、歌、ダンス、運動、旅行、ピクニック、社会問題の討論(病人や老人を訪問)、それにパレスチナ人として知っておくべきこと(パレスチナの領土、川、パレスチナの結婚式、パレスチナの農業)や、健康(栄養、呼吸のメカニズム)などです。
私はこれらワークショップでの子ども達の活動状況を見守り、同時に、将来ソーシャルワーカーとなるボランティア(彼女は資金援助された大学に行っている学生です)の養成もしました。
 私は中退した少女達の問題に長年にわたって責任者として携わっています。センターのすべてのソーシャルワーカーと協力し合って、UNRWAの学校を訪れてその地域の中退した少女達の名前を調べ、彼女達のための新しいコースが始まることを知らせ、コースに登録した少女達をグループに分けます。そのあと、少女達を訪問し、彼女たちや、家族とコースの内容について話し合い、そしてコースをスタートさせます。プログラムは週に3日、一日2時間で、読み書きを教えることも含んでいます。中退した生徒達のために特別にベイトが編集したテキストを使用します。少女達には手工芸、家事をするための訓練、デザートの作り方を教え、また、社会、健康、パレスチナ人としての民族的な事柄についても話し合います。社会的なつながりを大切にするため、生徒はお互いに訪問し合うこともします。これらの活動の目的は、少女達の自覚を促し、彼女達にとっての必要な事柄を満たさせ、少女達が自立に必要な技術を学んだ後、職業訓練施設に入れるようにさせることで、社会に役立つ人になるのを手助けすることです。
 最後に、パレスチナの問題と、パレスチナの人達のための私達の活動への、絶えることない支援と友情に心から感謝いたします。 

アシュワク・アル=シャービ


アシュワク・アル=シャービ  一回目


親愛なるJCCPの皆さん
アシュワク・アル=シャービと二人の子どもたち               
アシュワクと二人の子どもたち
タレク(5歳)とラニーム(2歳)
 私はパレスチナ人の女性です。私はレバノンにある故郷を追われた離散者のためのキャンプで難民としての生を受けました。私の家族は1948年避難民となってシャティーラ・キャンプに来ました。このキャンプは過去につらい経験を持ち、未だに困難な生活と苦しみに充ちた状況は続いています。


 私は40歳。シャティーラで生まれ育ち、UNRWAの小学校、中学校に通い、その後自分で蓄えたお金で授業料を払いながら私立の高校で学びました。高校卒業後、アラブ大学に入学し、哲学と社会学で学位を取得しました。同じ頃、ベイトで子どもたちの活動を助ける奉仕活動も始めました。丁度1986年のキャンプ戦争が始まった頃で、キャンプは包囲されていました。私たちは住んでいた家から強制移住させられてきた家族を助ける救援活動を始め、避難所内の子どもたちのためにレクリエーション計画をたてました。幾度となく包囲され、砲撃や爆撃を受けたキャンプから子どもたちが避難所に逃れてきていたのです。人々は医療品の不足に加えて、食料、水、電力の欠乏に非常に苦しんでいました。
  この戦争の終結後、私はベイトの常勤スタッフとなり、ソーシャルワーカー、識字教育のコーディネーターとして働き始め、また、10歳から12歳の子どもたちを元気づける仕事にも就きました。その仕事の主な目的は子どもたちの顔に微笑みをもたらすことでした。子どもたちは人間としての最低限の権利さえ奪われ、不正義の戦争の結果に未だに影響されてしまっているのです。故郷から離れて生活しなければならない厳しい状況、長い期間にわたる絶え間ない戦争、強制移住とそこでの困難な生活・・・でも、生存のための闘いを続けようとする私たちの決意は変ることなく堅固です。だからこそ、1998年、私は建築の現場監督であるパレスチナ人の男性と結婚する決心をしました。私は最初に息子タレク(現在5歳)を、そして次に娘ラニーム(2歳)を授かりました。子どもたちは私の人生にとって何にも替え難い喜びであり、私が望んでいた幸福をもたらしてくれました。
 私は多大な骨折りが要求される職業と私を必要としている家族の世話とを何とか両立させるために懸命に努力しています。愛する故郷パレスチナへ帰るときまで、私たちは自らの強い意志によって力を尽くし続けて行くことでしょう。

ソーシャル・ワーカー  アシュワク・アル=シャービ



***二回目*******


あなたより再びお便りをもらえて非常に嬉しく思います。皆さんお元気でしょうか? 皆さんが変わりなく元気に過ごされていることを願っています。私は変わりなく元気にやっています。9月12日から大学が始まるのを心待ちにしています。あなたから、より多くの日本の若者がこのパレスチナの状況を知ることになると聞いて、それは非常にすばらしいことだと思いました。

私は、しごく単純な暮らしをしています。大学での学期の間は、大学での生活が私の生活のほぼ全てです。大学へは朝8時から午後4時まで通います。大学で過ごす時間は長いですが、その間に講義があり、ゼミや実験もあります。講義を終えてからは専門外の友達と会ったり、身の回りのいろんな出来事を話し合ったりします。時々はサッカーもやります。大学には多くのパレスチナ人の学生がいます。レバノン人の友達も多くいますが、それは全然問題ではありません。私は、たとえその人がパレスチナ人であろうとも、人の国籍については全然気にしないからです。私の人との付き合い方は、その人が良い徳性を持っているかで決めます(国籍は問題ではありません)。

ここ大学でも、特に工学部では講義の時間も長いし、与えられた課題を読み通すための時間も必要であり、学生は小遣い稼ぎが非常に難しいです。一方、他の経営学や商学といった学部では、学生の小遣い稼ぎは楽です。

家では、テレビを見ますが、特にニュースは日に3度見ます。ニュースを見るのは、身の回りや世界で何が起きているか、とりわけ中東での劣悪な状況を知るためです。時々はインターネット・カフェに出かけいろんなことを検索します。またマスメディアが伝えないようなニュースについてもネット閲覧します。E-mailも絶え間なくチェックしますが、E-mailは世界中どこでもすばやくコミュニケーションするツールとなっています。

週末には友達や親類を訪れたり、反対に彼らが私を訪ねたりすることもあります。あなたは私が土木工学で学んでいることに関して質問されましたね?答えはイエスです。というのは、私の見方からすれば、土木工学というのは、人を内面から形成することの意味と現実を知っている人々とともに作る市民社会に向けての最初のステップだと思うからです。そして人を内面から形成するのに比べれば、大きな建物を建設することなど非常に簡単なことだと考えます。したがって、土木工学を学ぶ動機の一番は、人々を、市民社会を形成できるように変えていくことです。

時間が経てば、あなたはもっと私のことをわかってくれることでしょう。あなたからの次回の手紙を楽しみにしています。

イスマイル・ザールーラより



イスマイル・ザールーラ  一回目


親愛なるJCCPの家族の皆様
イスマイル・ザールーラ
私たち相互の関係が永遠に続き、発展していくことを期待しながら、そして、その素晴らしい関係に喜びを覚えながらこの手紙を書いています。
そちらの様子はいかがですか?皆さんが元気で、また全てうまくいっていることを期待しています。私自身について言えば、元気ですし、すべてうまくいっています。私の名前はイスマイル・ファデル・ザールーラです。20歳です。大学で土木工学を学んでいます。私の父祖たちが故郷パレスチナのサフリーヤと呼ばれた村を1948年に追われたため、私は今パレスチナ難民としてレバノンに住んでいます。パレスチナの地を追われた時、私の父は4歳でした。私は1985年2月12日にレバノンのベイルートで生まれました。父は1989年に亡くなるまで数学の教師をしていました。父が亡くなった時、私は4歳でした。
現在、私は母を含めた家族と暮らしています。父の死後、母は私たちの暮らしを維持するため、懸命に働いてきました。そして私たち子ども全てに教育を与えてくれました。私の家族は、私を含めた5人の兄弟と7人の姉妹からなっています。そのうち2人は結婚しており、他の兄弟は、すでに教育を終えたものもいますし、まだ勉学中のものもいます。私は10番目に生まれました。長兄モハンマドは看護の勉強を終えたのですが、慢性の腎臓病をかかえています。彼は、現在、週2回の透析を受けており、病気のために仕事につくことができません。パレスチナ人は働くことが禁じられていますが、彼の場合には、さらに病気のために働くことができません。他の兄弟のアベド・アル=ラフマンはアラビア文学を勉強しています。また、兄弟のイブラヒムは今年、電気エンジニアの勉強を終えました。今、職を探している最中です。一方、私は土木工学の第2年度を終え、3年生への進級試験に受かりました。
私は、ベイト・アトファル・アッソムードのメンバーとして、9年生(中学3年)の生徒の何人かに数学を教えています。彼らには中学卒業の公的試験が待ち受けています。教育は重要ですので、彼らが試験をりっぱにパスすることを期待しています。
ベイトの施設・活動が私の日々の生活や社会生活においてどれほど重要なものかを話したく思います。ベイトでの生活を通して私はいくつもの経験や機会を得ることができました。このような組織はとても重要です。とりわけ、難民となり、住むところもなく、しかし個性と意思、書物だけはあるような私達パレスチナ民族にとっては特に重要です。
最後になりますが、皆様とやりとりできることを幸せに思っています。また、皆様と皆様の友情に敬意と感謝の念を表したいと思います。

イスマイル・ザールーラ




***二回目*******


JCCPの親愛なる友人達へ:

あなたの手紙を読んで私は本当に嬉しく思いました。日本の人々が私達の生活についてたくさんのことを知りたがっているなんて本当にすばらしいことです。(注:前回の手紙に事務局から返事を出しました)
リナ・シェハーデ
世界の多くの人々はイスラエル側から聞くこと以外、パレスチナ人について知識を持っていません。ですから私は、「パレスチナ人は平和を、公平で公正な平和だけを愛する民なのです」と世界に向かって声を上げるために有名な女優になりたいと思っています。世界のすべての人と同じように私達も希望と夢とを持っています。

私が学校で製作に関わった映画『私達はあなた達から生まれたけれど、あなた達のために存在するのではない』は、たとえ小さくても私にとって最初のステップであり、もちろん、得るところがありました。この映画は「世代間の対立」を論じていて、違う世代に属する親と子どもとについて語っています。双方のグループが自分達の観点からものごと――例を挙げれば、服装やテクノロジー、特にインターネットなど――を見ています。一方、親達は子ども達の生活のさまざまな部分に干渉してきます。親は子どもを助けていると考えているのですが、もちろん、そうではありません。私はこの映画から多くの経験を得ましたが、それらはベイトの子ども達との活動を通して私達の役に立つことでしょう。

6月29日に私は学校の卒業証書を受け取りました。それから、センターでトレーニングを受けて、夏の活動のプログラムを準備する方法を学びました。更に、陶芸などのハンドクラフト(手工芸)も学びました。夏の活動が始まると、私は指導員として9歳から10歳までの子どもたちと一緒に行動しました。活動は7月4日から20日まで行われ、午前中のスポーツ、屋外活動、読書、手工芸など、たくさんの興味深い催しが盛り込まれていました。子どもたちに遊ぶ場所が必要なので、ベイルートのある公園ではカーニバルが開かれました。 さらに、私たちは健康のトピックだけでなく、協力やコミュニケーションといった社会的なトピックについても議論しました。また、夏の活動にはたくさんの遠足も含まれていて、そんな時は川で泳ぎました。その後、子ども達が自分の食事を料理するクッキング・デイがあったり、パレスチナ式の結婚式ごっこをしたりしました(※写真参照)。

結婚式ごっこもちろん、私自身、夏休みには友達と一緒にいろいろなことをしました。例えば、映画を見に行ったり、海に出かけたりしました。今年の夏休みは本当に楽しいものでした。9月中旬になったら、10月からの新学年の準備を始めるつもりです。

最後に、あなたの心遣い、そして私達のキャンプ生活に対する関心とに感謝いたします。いつか、パレスチナの地に戻って、そこからあなたに手紙を差し上げられることを願っております。

リナ・シェハーデ


リナ・シャハーディ  一回目


リナ・シャハーディ親愛なるJCCPの友人達へ:

私はこの世に生を受けて以来、父祖の地を離れた難民キャンプの一つで難民として生きてきました。私はパレスチナ人の少女で、名前はリナ・シェハーデ、年齢は19歳です。3歳のとき、戦争で父を亡くしました。その戦争では多くの父親、母親、子ども達の命が失われ、後には多くの孤児、未亡人、そして身体に障害を負った人々が残されました。
私はシャティーラ・キャンプで生まれ、子ども時代はみすぼらしい路地で遊んで過ごしました。なぜならば、キャンプは土地が狭く、住民も多いために遊び場所がなかったからです。それに加えて、キャンプ内の家はお互いに隙間もなく建っているので、室内には
日光がほとんど入らず、大部分の時間は電力も使えません。私達がキャンプの中でどんな生活をしているか、皆さんには想像できるでしょうか。
これらのあらゆる困難にもかかわらず、子供達や若者達の瞳にはいつでも「家族を悲惨な暮らしから救い出すために、勉強し、それから働こう。」という決意が見られます。私の家族の場合も同様です。私の母は外で働くと言い張って、私達家族が少しでも快適に暮らせるように生活上の全責任を背負っていました。彼女は私達の心の中に、人生において
困難に負けずに向上するよう努力し続ける希望と忍耐とを植え付けました。母は今、夢が実現しつつあるのを目の当たりにしています。私の姉は看護師としての勉強を優秀な成績で終了して、働いています。兄は間もなく大学を卒業する予定ですが、パレスチナの若者には機会が限られているので適切な仕事を見つけるチャンスは多くありません。
 私自身に関しては今年が学校の最終年度です。その後、運が好ければ大学に入学するつもりです。私は医学や薬学関係の仕事に就くことが許されていないので、それらの学科を勉強することはできません。けれど私は、大学の単位を修得して、幼い頃からの夢だった女優になる、という望みを失わないでしょう。私が学校で「世代間の対立」を題材にした映画に参加したとき、私は夢の実現に向けて第一歩を歩み始めたのだと考えています。
 私は日本人の友達を持ってとても嬉しく思います。なぜなら私達は世界中の、特に日本のように高度に発展した大国の友達が必要なのです。
 最後に、人生には絶望はなく、絶望していては生きているとは言えない、と申し上げたいと思います。私達が心にビジョンを抱いている限り、困難を生き抜いて、愛する祖国パレスチナに戻るための希望と奮闘はまだ続くでしょう。

リナ・シェハーデ


アシュワク・アル=シャービ
  アシュワク・アル=シャービ