2005年3月例会「出雲の阿国」上演にあたって、阿国のふるさとであり阿国歌舞伎の芸の原点ともなった大社町・吉田村の紹介を 2004年の「まいしいと」に掲載された文章を基に編集しました。
  また今回は、広島市民劇場で事前研究PART.1として2004年9月に大社町に行った際の写真も同時に掲載しています。

〜 大社町編 〜
 「演出のことば」より                             鈴木 龍男
 7月の終わりに阿国役の妻倉、伝助役の辰三郎とともに出雲・大社町と出雲の山奥にある、たたらの里・吉田村を訪ねた。芝居の舞台となるのは大半が京都だが、何をおいてもまず、そこへ行ってみたかった。有吉氏の原作の真髄がまさにその土地にあるからだ。
 阿国にとってはすべてが出雲から始まりたたらの山で終わる。たたらとは鉄を作る技術者であり、その産業でもある。出雲地方は日本の歴史の中でも、最も古くから製鉄技術が生まれ、発展した土地だ。有吉氏の優れた発見は、その鉄を生み出す火の里で阿国が生まれ、その誇りと情熱が芸能者としての阿国を生み出したとするところだ。
                         (2002年前進座パンフレットより抜粋)

 阿国の墓
 連歌庵から百メートルも離れていない太鼓原に阿国の墓があるが、ちょっとわかりにくい。一瞬どれだろうと探してしまうほど目立たない平らな自然石のような墓だからだ。
 この墓には平成元年梨園の名優たちが出雲歌舞伎の復興を喜びその成功を祈願し、参っている。
     

 終焉地之碑
 碑の裏の由緒書きには「劇祖出雲阿国天下に名を成し 老いて後ふるさとに帰り この碑の東南凡そ二百五十米の中村の地にひとつの草庵をむすんで つねに法華経を読誦し ことに連歌を好んで 明暮のたのしみとし 又自ら一部の法華経を書写して庵室に残し・・(出雲国大社於国寺縁起)・・」とある。       
 連歌庵
 杵築の中村の里へと帰った阿国は、生家の近くの草庵に住みつき、髪をおろして尼僧となり智月尼と称したといわれている。門鍛冶屋の格式を誇る中村家は、ふるさとへ帰った阿国を温かく迎え入れることができなかったのである。
 安養寺
 
晩年、阿国が信仰した33体の観音菩薩像は、文政6年(1823年)12月9日夜の中村の大火で類焼し、散逸したと伝えられるが、そのうちの2体がここに祀られている。
 他に遺品として、数珠と手鏡も残されている。漆塗りの黒い小さな数珠から、神仏をたより生きていく阿国の姿が伝わってくる思いがする。

       
(写真提供 広島市民劇場)