HALF AND HALF JOURNAL

 

 


無意味な破片

HHJ

 

 

 


アンチロマン、ポスター、記号の現象学

 

 

             ☆ ☆ ☆ HHJ  VOL.79  2001.4.14

特派員―そうだ、何かを表彰する機関や活動を審査してランク付けしたら、どうでしょうか?

ナモネ氏―社会の公正さが少しは維持できるかもしれんな

半分半分放送局長―うむ、バランスを保つことができそうだな。値段を上げるための表彰や慰めの授賞が少なくないからな。HHBがランク付けをすれば、それだけで世界のいろいろな活動の価値を決定することになる…

ナモネ氏―ランク付けられる団体はきっと屈辱を感じるよ。

編集長―ユーモラスじゃないか。決める側が決められる側になるんだから。

放送局−4年毎に審査すればいい。表彰する人たちも気を引き締めるはずだ。作品や活動を評価して広めることは、自分の値打ちを決めることだと自覚するよ。

編集長―旅友賞のランクは最高の7だね。

放送局長―おお、そう言えば、《旅の会》の機関紙が70年度の旅友賞に君のエセーを選んだな。小説みたいなエセー。

                ☆   

放送局長―間題は、あのシュールレアリスムだよ。映画監督の(私)が構想を語る。探偵趣味の会社員が真夜中に地下鉄やビル街で謎の足音を追いかけるんだが、途中で靴音が自分のものに似てることに気づく。むろん靴音は掴まえられない。

編集長―テープ・レコーダーを持ってなければ、ね。

放送局長―そう。あの頃の革靴はよく響いたな。おれが好きなのは、空缶を蹴ると、中から靴音が飛び出して逃げて行くシーン。ミュージカルなんだ。靴音とダンスをしてる。並の才能だったら、観念的に影の物語だね。

編集長―映画監督は音楽について語らないが、ジャズ・ドラムが聞こえるはずだよ。

放送局長―ハイ・ハットだけのスリリングな伴奏がぴったりだな。それから、主人公が疲れ切ってアパートに戻り鏡を見ると、自分以外のさまざまな顔が写り出る。そこでフィルムが切れたように暗くなる。このシーンは3分続かなければならない、と監督は考える。客席がざわつく頃、〈終わりだ〉とスクリーンから映画の終わりを告げるためだ。そこで、場面は映画館の内部に切り変わる。鏡とTVとスクリーンの同一牲に驚いたね。観客も登場人物になる。そして、この主人公役にふさわしい人間は誰か、と映画監督は皮肉に問いかける。題名は江戸川乱歩風の《怪人百面相》…馬鹿受けしたね。

編集長―といっても、あのエセーが決定的な意味を帯びるようになったのは《円形彷捏》を書くときだね。それまではシュールレアリスムの理論を真面目に小説で実践しようとは思いもしなかったよ。ぼくは普段即興的に自由に何でも書いたが、文学的観念は三島由紀夫の小説や古典に染まっていた。そのいい例が《薔薇の秘蹟》で、旅友賞をもらったあと鶴屋南北の《桜姫東文章(さくらひめあずまもんじょう)》を現代的に翻案して三島風の文体でノートに書いた。じゃあ、後にも先にも類のない奇想天外な作品を考えついたのはどんな気紛れからか、興味があるだろうね。69年当時ぽくはギリシア悲劇やビランデッロ(Luigi Pirandello)の戯曲に魅力を感じていた1。最初に演劇研究会に入って、戯曲の勉強しようと思ったくらいだ。後で知ったんだが、麻布高校出身の小沢昭一や加藤武あたりが作った有名なサークルで、話をすると、もう学生じゃない、役者意識と情熱の凄さに圧倒されたよ。大学とはそんなところなんだと教えられたが、付き合いきれないと思ったね。

放送局長―明智探偵を演じた北大路欣也も後輩か?!

編集長―まあね。〈旅の会〉の写真クラブで映画制作の話が持ち上がったのは、その年の秋だ。シナリオを募集することにしたので、ぼくも構想を練った。しかし、気負い込んで悩んでるうちに文学部の学生の作品に決定していた。

放送局長―その話はおれも知ってるけど、汚いよな。文学中年が青二才を妬んでるなと直感したよ。例の《沙梵国奇譚》が感動的だった2。明治に移り変わったばかりの東京を舞台にした問屋の手代のしんみりとした江戸情話。それを聞いた学生のプラトン哲学的な感想。あの心中映画を見ると、それを意識してる。文学中年は君と一緒には酒を飲まなかっただろう?

編集長―敬遠されたどころか、編集委員に選ばれてから個人的に発行した新聞《勝手にしやがれ》第2号をコーヒー樽の上に置いてると3、それに腰掛けて挑発するんだ。勝手にしたぞ、というわけだ。三文文士の復讐は怖いね。

放送局長―おまけに概念の塊で、ね。トゥルニエ(Michel Tournier)の《黄金のしずく》で感心したのは4、現代的な映像の呪縛をおもしろく描くことには満足しないで、それから解放されるための処方箋を歴史的事実に立って書いているということだ。放送局に勤めながら、哲学の実践として小説を書いたというのは本当によく分かる。

編集長―そういう態度が好きだね。自分が書く内容について作者が書きながらでも鋭く認識できれば、それが後半のページを必然的に開いて行く。ぼくの三つの作品《沙梵国奇譚》《怪人百面相》《夜の風景》に共通するのは、実話・映画の構想・歴史といったストーリーの後でそれに対する反省的な分析が付くということで、ね、例えば《沙梵国奇譚》では語り手が永遠について考える。自分の作品について明確な批評ができないようじゃ、見込みない本能的な芸術だと言いたいね。ところで、次の映画制作のチャンスだが、落語好きな江戸っ子が仲間内の計画を話してくれたので、何か手伝おうと思った。落語じゃないが、これもいつの間にか完成してるんだ。こっちは仕方なく上映係をやったよ、大島の国民宿舎で。だから、そんなわけで映画監の〈私〉がこれから制作しようと思っている映画について語るというのは、経験に密着したことだ。そして、ちょうどタブロイド印刷で発行することになったので、粋がってモダンな書き方を試してみたんだ。理工学部の友人が阿部公房の短編集《壁》を見せてくれたときは、日本にもシュールレアリスムの作家がいるという事実に少し勇気づけられたね。でも、〈ブルトン先生〉の認識や寓話的な方法論が味気ないので、ぼくも幾何学は得意だったが、学生のときはそれっきり関心を持たなかった。

特派員―旅友賞はきっと歴史に残りますよ。大学生は作品の社会的影響を考慮しないから、純粋な評価ですね。それで、タブロイド版は持ってるんですか?

編集長―誰かに貸して、それっきりだ。

放送局長―戻って来るようなものじゃない。〈70年には何かが起こる〉と囁かれた…あれも70年のちょっとした象徴だったな。安保条約が自動延長になって白けた年だよ、君。機動隊の合い言葉は〈点数を稼ぎたくなったら、ワセダに行け!〉マスコミは〈ネタがなければ、ワセダに行け!〉それくらい雑多なことが渦巻き、想い出もごちゃ混ぜになってる。しかし、標題を付けるとすれば、〈自治の理想と破壊工作の戦い〉というのをどこかに入れるべきだな。第二学生会館は完成してから30年以上も大学側と学生自治会との間の管理権をめぐる対立で閉鎖されたままだ。

編集長―ずっと廃墟か、あの高層ビルが!今と状況が似てるのは、内ゲバだな…市民同士が冷戦をやらされている。

放送局長―政治権力が予防のために街の形態を変えたのも、その頃だ。歩道から敷石が消えてアスファルトになった。左翼は投石ができなくて、困ったね。その方法論を忘れるべきじゃないよ、君。

               ☆ ☆ ☆ 

特派員―《死刑台のエレヴェーター》のポスターに影響を受けて小説のトリックを考えついたと書いてましたね5。ポスターを見るのが楽しみだったんですか?

編集長―ああ、もちろんだよ。誰でも多感な10代の頃は1枚や2枚街の中のポスターに気を引かれた覚えがあるはずだ。想い出せるかぎりで言うと、一番古いのは《私は貝になりたい》というBC級戦犯の有名な映画で6、フランキー堺が主演していたっけ。それから、近所の酒屋で見た《悪い奴ほどよく眠る》、三船敏郎主演7

ナモネ氏―汚職事件を描いた映画だな。三船が復讐に失敗して自動車事故で死ぬんだが、実は仕組まれた事故なのだ。ラスト・シーンで森雅之演じる住宅公団副総裁が電話で黒幕に結果を話す。

放送局長―政治家の声と顔はスクリーンに出ない

編集長―ぼくは、それらのポスターのどこが印象的だったかは覚えていないが、たぶん《あの橋の畔で》のように題名が気に入ったのかもしれない8。中劇(映画館)で見たあのポスターは他に感じるところがあったね。主演の桑野みゆきという女優の顔。別に映画を見たいとは思わなかったが、ぼくは題名におかしな影響を受けた。学校の帰りに高台の十字路から大館橋まで自転車のペダルを漕がないで辿りつこうという遊びを思いついたんだ。橋の手前は上りだから、どうしてもその辺で止まってしまう。それで、向きになって十字路に入る前からスピードをつけることにしたけれど、曲がり角で自動車と接触して止めたよ、スリリングな遊びは。ポスターから芸術的な影響は受けなかったのか、と呆れるだろう。現代美術はポスターなしでは語れない。室内の作品じゃなくて社会現象なんだ。ぼくも例外じゃない。そういう刺激を受けたよ、007の最初の映画《ドクター・ノオ》のポスターにね。あの7という数字が拳銃のフォルムと重なってるレタリングがあの頃はとても新鮮だった。映画館に行く機会はなかったけど、重孝堂でイアン・フレミング(Ian Fleming)の原作を見つけて007シリーズをみんな読んだ9。文学的な影響も受けてるね。

ナモネ氏―ふううむ。それで、栄光の遊撃手はポップ・アートを志したのかな?

                ☆ 

編集長―いや、違いますよ。小説を書くようになってから、街の中のポスターを取り入れることがテーマの一つになったんです。《石との対話》では地下鉄の乗客が広告に関心を示さないことに対する不満をちょっと書いて、その辺の事情を覗かせている。ぼくの夢想はと言えば、環実でも非現実でもあるような〈未然形)の知覚を描くことでした。それは例えば、〈ポスターの中からジェームス・ボンドが出てきた〉と書くことじゃない。ぼくはモディフィカシォンと呼んでたけれど、映画的に移り変わる運動、想像する意識を表現するということですね。

ナモネ―《円形彷徨》ではラジオが効果的に使われている10

放送局長―ラジオから流れるブルースに乗って…もちろん番組の中から現われたのじゃないが、そういう錯覚が生じる。あの〈ぼくだよ〉という声には慄然としたね。主人公が自分の分身かと思っていると、彼は反対に主人公が自分の夢の中の存在なんだと言う。危険な状況に陥った主人公に自分の明日を見て、不安なんだ。

ナモネ氏―現実と非現実の境界線が分からない文章がいいねえ。結局、想像する意識は小説の創造行為に係わる問題だろうが、《日付のない街》では同時に情報が氾濫する現代社会の病気と考えているね11。批評が難しいのは、それも噂の続きだから、だ。

放送局長―そこが独創的なところですよ。噂は市民と言葉の弁証法なんだよ。言葉を物扱いして勝手に使ってるうちに、言葉は幽霊になって市民を脅かすようになる。おれも批評したいと思うんだよ、しかし、自分も小説の愚かな登場人物になりかねないと感じるんだ。まったく困った小説を考えてくれたもんだ。

編集長―日記の中では、交通公社のポスターが若い主人公の現実逃避の欲求を刺激する。主人公は南の島に入り込んで行く。しかし、あるポスターの言葉と映像が市民の内面に潜入したかどうか、ということは書いていない。

放送局長―そうだったな。意識が対象の中にと対象が意識の中にでは、少し様相が違ってくる。

編集長―対象が意識の中に、というより感覚器官を通して知覚されると考えるべきだな。意識は部分的にフォルムや色などを明確に照らし出すが、対象の知覚はもっと幅広く全体的で曖昧だ。意識は概念を通して見るが、知覚はそうじゃない。意識は1人称の世界だが、知覚は意識の裏面で記憶と密接に関係して他者と共通の非人称的な世界を持っている。寒さや匂いは一般に誰でも同じように感じるものだ。ところで、意識は記号に似て何かを志向する性質を持つね。主観と客観の関係を記号とその指示対象(意味内容)の関係に置き換えてみると、どうだろうか・・私がポスターの表現を見るときは私→ポスターの表現(私の意識がポスターの表現を志向する)。ノイローゼの状態ではポスターの表現が私を捕らえるので、ポスターの表現→私(ポスターの表現が私の世界を指示する)となる。志向は指示と言い換えていい。

放送局長―少し突飛だが、おもしろい発想だな。ぼくもポスターを楽しんだ一人だよ。映画のポスターなら、映画館のショー・ウィンドーに張ってある白黒写真を眺めてスクリーンを想像した。演劇や音楽の公演なら、ガール・フレンドの顔をあれこれ想い浮かべて何を着るか迷ったり、劇場での個人的なドラマを空想したもんだ。広告に釣られるとは、ポスターに描かれた意味内容に共感してその世界に参加することなんだ。それは自己実現のための主体的な行動だが、ノイローゼになると、主体性が減少する。例えばストロベリー・ジャムの映像が血の記憶に繋がると、自分の世界に後退する。血の意味内容を探して、意識は迷路に入りかねない。

特派員―ぼくは普通にこんな風に捉えていたんですよ。ポスターの言葉と映像は記号で、それの意味内容は何月何美術館で開催される何展覧会だとね。紙でできたポスターという形式は単なるメディア(媒介物)です。しかし、それを見る自分を含めると、ポスターの表現は記号の意味内容としての記号ですね。

ナモネ氏―人生は無意味で空虚なものなんだ。

編集長―意識という記号の原型みたいなものと対象が密着すると、ボスターを剥がして自分のものにするといった行動に繋がるんじゃないか…そういう若者は美術館や劇場に行って参加するかどうか?おそらく呪術的な世界への退行現象だろうな。焼鳥よりも漢字の鳥をおいしがる。

放送局長―メディアが実体化するわけだ。

特派員―意識と対象が密着すると、美術館に誘うためのメディアが個人宛ての脅迫的メッセージを送る条件ができ上がりますね。

              ☆ ☆ ☆ 

放送局長―電波を使ったメディア(TV)の問題に移ると、視覚と聴覚が係わるので、病的な密着は起きないとしても、メディアの言葉と映像に内面が融合してしまうね。生活空間にあるから、影響は大きい。ポスターと違って制作主体の放送局と直接的に繋がっている。

編集長―普通は、メディアの裏側を意識しない。カメラの操作を見たり、画面に映らないスタジオの様子を想像したりはしない。リアルタイムに自分の視覚がカメラマンの意識に同調していると、媒介物(メディア)の存在が気になる時があるね。

放送局長―例外だよ。一般市民は漫然と受動的に見ている。だから、TVが情報伝達装置だということは、決定的な意味と力を持つ。世界のイメージを作り、視聴者の思考と行動を下書きするんだ。関係者の科白を聞いたことは一度もないが、ねえ、放送の目的はそこにあるよ。デッサンを仕上げるのは、個人の自由な知性と感性だ。自由な、というのは大袈裟なんだが、まあ、そういうことにしておくか…

特派員―目的は、事実を見れば、要するに思考と行動の操作ですね。

                

特派員―報道機関へのアンケートで、NHKと読売の記者が〈誰に向かって書いているのか?〉と質問しましたね。書くときそんな問題意識を持ったことがありますか?

放送局長、編集長、ナモネ氏―ないね。

編集長―それはやはり情報を受け取る側との距離が近いジャーナリスト特有の意識だと思う。小説や他の芸術にそういう意識があったら、低級な作品でしかないだろう。しかし、ジャーナリズムは本質的に現在の世界と連動しなければいけない。これは法的な強制じゃないが、情報を必要とする人たちが暗黙に要求していることなんだ。ジャーナリズムは営利企業である以上、競争に勝つために受け手の関心や好奇心に答える必要に迫られる。誰に向かって、というのは、どんな人間が読むのかという仮想的な意識を前提にしているに違いないね。この欄は政治家も読むと分かっていれば、言語の選択は政治家を狙ったものに変化するかもしれない。ある代議士が読むと知っていれば、その人に向けて単語を並べるときもあるだろう。文章はどうであれ、これは2人称の表現だ。首相は辞職しろ、と命令形で書いても、そのこと自体は悪質でない。

特派員―そうでしょうか…署名がなければ、悪質だと思いますよ。私という人間が〈あなた〉に向かって意思表示する場合、自分の名前を記入してから相手の名前を呼び出すのが社会における人間関係の基本ですよ。

編集長―人格を尊重するということだな。特定の個人に向けた擬似2人称の表現はすべて悪質だとしよう。書き手は個人として自分の言葉に責任を取らないと言ってるんだから。

特派員―本当の個人主義がないから、言葉の選択と組み合わせにも反映している。

放送局長―政治と行政機関の言葉の請負をやったり、均一セールをやったりだな。

編集長―問題は〈誰が〉ということだ。マス・メディアは非人称的な世界だから、普通は生活の中に情報が流れても邪魔にならない。しかし、その曖昧さが謀略に利用されやすい。ある一人の個人に向けて、さりげなく番組の中で情報記号を送ることができる。そういう番組は仮象なんだ。

放送局長―普通は反対に、情報記号と受け取られた何らかの事実がただの〈仮象〉にすぎない、思い過ごしだとかノイローゼや精神分裂症の徽候だとか言われる。そう決めつけるのは権力の側にいる人間か知的な不安定を恐れる人たちだな。

編集長―出来事の裏に謀略機関の存在を仮定することにはぼくもためらいを感じたが、宇宙人の存在よりはずっと現実味があるね。

放送局長―まったくだな。宇宙人や亡霊をテーマにした超常現象番組の流行が大人気なのに、制作者と出演者をノイローゼとか精神分裂症などと批判する声は聞かない。圧力がかかった様子もない。しかし、謀略機関の存在について議論しようとすれば、必ず悪い反応が返ってくる。民主政治を侮辱するものだから、か?

編集長―謀略機関は憲法に反するので、国会議員が無視することは許されないよ。

特派員―謀略機関が新聞やTVなどのメディアを利用して環境サインを送るとすれば、資金はどこから出るのか、明らかにしなければいけませんね。公共機関の裏金や企業の使途不明金、政治団体への隠れた献金などが怪しい。国・県・市町村の予算の行く先は行政のプロセスをも含めて全部透明にする必要がありますね。

放送局長―事実の客観性を裏付けるために最大の決め手となるのは、マスコミ内部の関係者の証言だよ。しかし、内部に謀略班が巣食ってると、手術が必要だろうな。

☆ ☆ ☆

 

1        20世紀前半のイタリアの作家。戯曲《作者を探す6人の登場人物》で一躍有名に。

2        平凡社の東洋文庫収録文献より。

3        フランスの映画監督ジャン・リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)の作品。1959年制作。

4        フランスの現代作家。

5        ルイ・マル(Luis Malle)監督。1962年制作。

6        橋本忍監督。1958年制作。

7        黒沢明監督。1960年制作。

8        野村芳太郎監督。1962年制作。

9        イギリスの作家。詩人田村の翻訳だけに名文だと思った。

Dr.NO : テレンス・ヤング(Terence Young)監督。1962制作

10    1973年創作。

11    197686年創作。

 

 

 

 

 

Atelier Half and Half