HALF AND HALF JOURNAL

 

 

HHJ

 

 

 

 


街の現在と未来について思う

 

 

住むとはどういうことか?

 

 

 

 


HHJ  VOL.10  1992.9.20

               ☆ ☆ ☆

フランスの詩人・外交官だったポール・クローデルは、connaître(知る)とは、ものとともに生まれる(conaître)ことだと言っている1。ものとは、物質だけに限らない。他人、出来事、集団、環境、都市など、目に見えるものと見えないもの、彼が関係する対象の全てを意味する。人間は単独で生きているのではない。共に存在することが、生の本質的な構造である。彼が、交わる人間達や仕事や創造(作品)から少しも変化を受けず何も学ばないとすれば、物質のように無感覚な性質だと言えるだろう。実際は、善かれ悪しかれ影響を受け、影響を与えて、生きている。自分が関係するもののどこか外側にいると思うのは、傲慢な態度でしかない。関係するとは、対象の外側にあると同時に内部にあるということである。自由であると同時に自己否定的であるということだ。したがって関係するものによって様々な可能性が開かれる。スタジオでは、演劇ができる。等身大の人形を使う役者は、本舞台と奥舞台をうまく利用して見せた。関係の仕方によって、異なった可能性も限界も現われるのは言うまでもない。

 住むとは、そういうふうに関係すること、対象の外側にあると同時に内部にあることである。だが、住むためには場所と身体が必要だろう。私という主観は身体を備えて、言い換えれば主体となって初めて、生きる場所と創造的に係わることができる。

例えば、ぼくは、この雑誌の表紙やカットにデペイズマンというシュール・レアリスムの方法の一つを使っている。DEPAYSEMENTとは、フランス語で異郷にあることを言う。本来の場所から切り離された様々な断片は、元の意味を失うが、その組み合わせが他の空間で新しい意味1の世界を創造する。それは、シュール・レアリスム運動が起きた第1次世界大戦後のパリの不安な現実を、旧い価値観が崩れて亡命者と難民が集まる都市を、反映している…彼ら、異邦人と芸術家は、断片の中に自分を見たとしても、必ずしもノスタルジックに過去を振り向いていたのではなかった。本来の自分を未来に求めた。生きることと芸術の間に、矛盾はない。人間は確かに未来的に生きている。そこに自分の本質があるというように、行動や創造をして、要するに彼が生きる世界と自分を作る。人がもし、懐旧的に本来自分が生きていた世界に執着するだけなら、断片はいつまでも無意味な断片でしかない。

☆ ☆ 

 

1  Paul Claudel

2  le sens : 感覚,方向

 

 

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現象としての美しさ

 

 

 

 


HHJ VOL.11 1992.10.20

  

現象としての美しさ…美とは何か?これは非常に難しい問題だ。個人や民族、そして時代によって、何を美しいと感じるか、さまざまに異なる。それに共通点を見い出して、抽象的に美の法則を作るなどといったことはたぶん不可能だろう。個人においてさえも同様で、例えばぼくが今まで美しいと感じたものを想い出せる限り想い浮かべてみても、それらすべてに共通する何かを探ることができない。すると、美は主観的なものだろうか?対象から独立した心のある特徴的な状態なのだろうか?同じ絵を見て、ある時は美しく感じるが他の時はそうでない、とすれば、確かに美は内的な状態である。しかし、それが意識されるためには外部の対象(あるいはイマージュ)が必要だろう。とはいえ、何でもかまわないという人間はいない。美しさを感じさせることができるものでなければならない。美は、主観的であると同時に客観的である。

 しかし、これは可能的な美しさである。女が孤独の中に閉じ籠っていたり、男が不機嫌に苛立っていたりする、出会いのないラブ・ロマンスのようなものだ。男と女が出会って、美の女神がキューピッドに愛の矢を射させると、その瞬間、《美しい!》という言葉がメロディのように街に流れる。可能的な美しさが現実になるためには、出会いの起こる場所がなければならない。その時は、花屋で売られていた種子が花壇で可愛らしい花を咲かせていることだろう。そして、言うまでもなく、男と女は互いに相手の心の中に住むようになるに違いない。

 住むとは、主体的に関係するものの外側にあると同時に内部にあるということ、自由であると同時に自己否定的であるということである。これが愛について語っていると思うなら、あなたの想像は正しい。私は私であると同時にあなたである。住むことと愛とは、本質が同じ行為である。美しいと感じること(美感覚あるいは美体験)は、それと似たところがあって、関係するものとの同化が生じると言っていい。しかし、行為ではなく、受動的で内面的な現象である。うっとりするという状態は、漠然とながら、美の超現実性を表わしている。永遠、時間を超えて、世界の外に、という普遍的な言い回しもできるだろう。この超現実性は、単なる部分の寄せ集めではない生の全体を経験させる。

そう考えると、なぜ人間にとって(特に西欧人にとって歴史的に)美が重要なのか、生死に関わるようなテーマになるのか、理解できないだろうか?

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 

 

 

 

美の普遍的基準とは

 

 

 

 

一般にどのようなものだろうか?

 

 

 

 


HHJ VOL.12 1992.7

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美の普遍的基準は一般にどのようなものだろうか?…夏にスタジオのOBが来て、街について、芸術性を高めなければいけないと言った。彼はブルースが好きだったが、今宝塚のデザイン学校に通っているそうだ。なるほど、以前ぼくの芸術論を熱心に聞いたのも無理はない。ぼくは芸術牲を高めることに賛成だが、かといって、都市の創造と芸術を同一視するような考え方には反対だ。都市は人間が住む場所である。快適さがなければ、深遠な思想の形象化だろうと斬新な美の表現だろうと、精神と肉体を備えた人間には耐えられない。心地よさを重んじるためには、現実に生きている人間への優しさが必要である。

 例えば、大館橋から高台の中心街へ行くと、坂を昇り切る手前に映画館がある。黄土色と薄灰色のコンクリート建造物で、入り口の上に赤と黒と白の飾り出窓がくっついている。全体に安っぽい印象を受けるが、そればかりか、非常に不愉快な感じである。これほど調和を無視した、というよりぶち壊した建築も珍しい。色彩の調和、飾り出窓のデッサンと建物全体との調和、どれも幼児のいたずら描きである。だから、ぼくは中で映画を見る気がしない。建築後6,7年は経っているが、いまだに不快な刺激を受ける。前にも書いたが、全体の調和は非常に大事なのだ。

 OBの彼のグループがあるとき演奏した音楽も、同じ欠点を持っていた。

ぼくは、2度とそんなことをするな、と文句を言って対立した。彼にもそれ

なりの考えがあったが、すなおに理解してくれた。行為もブルースと同じくらい美しかった。

 

 ぼくはせめてアトリエだけは美しさを感じさせる場所にしたいと思っている。事実、感嘆しない者はいない。アトリエには、美しい調和がある。

 美しい調和とは何だろうか?全体の中で各部分が必然的に連関しながらそれ自身を超えて全体を反映しているような、そして全体は全体を超えているような、仮象とも思える一見矛盾した関係である。この全体は、時間に譬えれば、永遠である。これは、ベルグソンの言葉をもじると、大した価値のない1円玉100枚がある構図で置かれると、突然それぞれ100円玉に変わるようなものだ1。調和に欠けていれば、1円玉100枚は100円玉1枚にさえ変化しない。単に交換価値が等しいだけである。

 その仮象は錯覚すぎない、と言うべきではないだろう。現実が真実だと思い込んでいない限り…

☆ ☆ ☆

 

1        Henri Bergson : Evolution créatrice (創造的進化)

 

 

 

 

 

 

 

美は民主主義の理想である

 

 

 


1円玉100枚がそれぞれ100円硬貨になる構図、それが美の現象だ。以前書いたことだが、社会に置き換えると、全体主義の美学のように響く。しかし、全体主義の社会では個人は機械の部品でしかない。民主主義的な美論は、個人がより以上の価値を持って生きられるような構図を探る。努力するのは自由な個人であって、最小単位に生きる根拠を置く。といっても、イメージを描けない人間が無数にいるが。〈1円を笑う者は1円に泣く〉

 この美論は長谷川の生き方だ、と懐かしく想い出す男女の声が聞こえそうだ。チームワークを尊重した野球少年の昔からずっと全体と個の関係を考えた。見捨てられた1円玉や役に立たない1円玉も100円になった。思想は経験を熟成させたものでしかない。美論は閉鎖的な個人主義や全体主義と対立する。醜悪な都市を民主主義に反する精神の分泌物と断罪する。 

 

言葉の樹 HHJ  VOL.63  1998.8.8

 

 

 

 

 

 

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