安田 磐子  明治4年(1871)10月8日〜明治28年(1895)8月24日
 明治期の教育者
 旧熊本藩士族安田退三の二女として熊本県に生まれる。父とともに名古屋に転じ、愛知県師範学校女子部に入学するが、女子部廃止により退学した。改めて明治20年(1887)に桜井女学校に入学した。ここでキリスト教に触れ、牛込教会で服部章蔵牧師から受洗する。

 26年(1893)6月に桜井女学校高等科を卒業した磐子は、22歳で新潟県高田女学校の英語教師として赴任した。当初は1年間の予定であったが、28年7月まで在職した。

 短期間の高田での生活であったが、多くの人々に感銘を残した。磐子の没後「故安田磐子の君の伝」という友人たちの追悼集が『阿蘇のけふより』と題して発行された。この中で校長白石行信の弔詞で磐子の隠れた功労が顕わにされた。

  「毎日曜日には午後より日曜学校を開き、貧民の児童を集めて、其の道を伝えたり、二年間一日の如く能く精勤し、疾病の時と雖も、病を勤めて出席せられたるを以て、同所の児童の悪習も、漸漸脱し去りて良風に赴きたるは、実に嬢の力なり。此処に基督の道を伝えるは、嬢を以て嚆矢とす」と。

 磐子は、高田女学校教師として勤務するだけでなく、当時の日本基督高田教会の奏楽者として奉仕し、日曜学校の教師として当地の底辺に生きる人々に愛の慰めをたれた。

 彼女については雪中に倒れた子ども3人を自宅に連れ帰り面倒を見たという話が語られているように、高田の地にキリストの愛のあかしを行ったのであった

 郷里に戻ってマラリアのために25歳で死没した。
 
出典 『キリスト教人名』『女性人名』
http://www.hi-ho.ne.jp/takada-church/index-rekisi.htm