山中 笑(えむ) 嘉永3年(1850)11月3日〜昭和3年(1928)12月10日 |
旧メソジスト教会最初の牧師のひとり。
共古斎と号し、考古学、民俗学の先駆者として知られている。
《生い立ち》
江戸四谷仲殿町に生まれた。
元治元年(1864)15歳で和宮の警護補佐役(広敷添番)として江戸城に出仕した。明治元年(1868)徳川家とともに駿府(静岡)に移住した。そこで、学問所の英学教授となった。そのとき、E.W.クラークやD.マクドナルドの影響を受けた。
E.W.クラークは、アメリカで神学をおさめ、W.E.グリフィスの紹介で静岡学問所化学教師として来日した。のち、東京に転じて開成学校で教えた。日本に関する著作が多いが、そのひとつに勝海舟の伝記がある。
カナダメソジスト教会所属のD.マクドナルドは、明治6年(1873)に医療宣教師として来日して、静岡に赴任後、賤機舎において聖書の講義を行った。また、キリスト教伝道のかたわら県立静岡病院の顧問ならびに医学教育に尽くした。また、師範学校付属校で英語を教えた。明治9年(1876)には静岡に新聞縦覧所を開設した。静岡には4年間の滞在だった。
《受洗》
笑は、明治7年(1874)9月27日、医療宣教師D.マクドナルドから受洗した。
同14年(1881)、東洋英和学校神学科を卒業した。
《牧会活動》
卒業したその年の9月に按手礼を受けたが、それ以前から、静岡で伝道活動を行っていた。
明治11年(1878)梅屋町に講義所(静岡教会の前身)を開き、帰国中のマクドナルドに代わり伝道した。以後、静岡県と山梨県で伝道した。
笑の滞在任期が短いことは、当時のメソジスト教会は一箇所の教会に長期留まることなくブロックで巡回制度がとられていたことによる。山梨で山中笑から明治22年(1889)32歳のときに受洗した中澤徳兵衛は、13歳で名主だった。以後、彼の家系からキリスト教信仰が継続されている。
明治16年(1883)10月20日付の「朝野」には<静岡では女伝道師山中笑の伝道盛ん>と、紹介された。
笑は、明治45年(1912)まで、東京、交付、静岡、沼津、見付、吉原と各地の教会を巡回して伝道に励んだ。
『キリスト教人名』では「大正7年(1918)以降は、青山学院図書館に勤務した。」とあるが、日本基督教団吉原教会では「山中笑が5年間吉原に居住し、1921年3月引退した。」とある。
ともあれ、笑は伝道活動の間に『土俗談話』『甲斐の落葉』『吉居雑話』『見付次第』『共古目録』等に生活の見聞記としてまとめた。
見付に住んでいた明治38年(1905)からの2年間に柳田國男に出会い、彼に大きな影響を与えた。
『郷土研究』誌に「四谷旧事談」を大正4年9月1日号に発表し、お岩の家跡に住む者の家には、毎年の盆の精霊棚に必ず蛇が寄ってくる。この蛇はお岩の霊であると信じられていたと、国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースカードに表示されている。
79歳で死没した。 |
出 典 |
『キリスト教人名』 『明治ニュース事典3』
日本基督教団静岡教会 http://www.h2.dion.ne.jp/~s-church/index.htm
日本基督教団吉原教会 http://www8.ocn.ne.jp/~corban/
山中共古略歴 http://aikij.com/iku/mitsuketenjin/shiryo/yamanaka-kyoko.html
国際日本文化研究センター http://www.nichibun.ac.jp/ |