牧師・植村正久の後援者。
岡山藩士・渡辺忠吾平・ときの二女として、岡山市6番町に生まれた。2歳で父と死別したが、松子の母は明治15年まで存命であった。
明治13年(1880)19歳で木村荘を婿養子として結婚した。翌年から大阪、東京、横浜と移り住み、ついに東京で落ち着いた。
結婚間もなく赤貧の中で夫・荘は岡山商法講習所に入学し、在学期間の生活費と学費を松子が稼いだ。夫・荘はのち日本郵船を経て銀行家として成功、財を成した。株の取引がうまくいったようすだ。
同29年(1896)1月5日、松子は植村正久から一番町教会(富士見町教会)で受洗した。
松子は、信仰を得てから、一大変化を来たした、といわれている。それまではヒステリー傾向のために人々に迷惑を与えていたが、それが解消されて精神的に安定した祈りの多い生活へと変わった。
荘も松子に導かれて38年(1905)に受洗した。信仰をもった渡辺荘・松子夫妻は財の一部を主の御用のために献金して教会の財政を支えた。一番町教会から肢として青山教会が誕生したときの会堂建築に際しては「当時富士見町教会員であった渡辺壮に負う所が多い」と記録されている。
続いて、40年東京神学社への土地と建物の寄付など、植村正久の伝道活動を夫を通じて援助した。
東京神学社は、植村正久のまわりに集まった有志によって神学の勉強会を始めたことから発生した神学研究の塾である。最初は市ヶ谷薬王寺前町にあった市ヶ谷教会の会堂を借りて授業が開始された。明治37年(1904)11月3日のことであった。いずれにせよ、はじめて日本人によって開設された神学塾である。日本人が自治独立したキリスト教伝道をすべきである、との意気込みから起こった神学塾で、教師たちは無給で教壇に立ち、生徒たちは2円の月謝を納めた。記録によると事務室に本間清雄がほとんど無給で勤めたと、彼の葬儀の関連記事に出ていた。本間清雄は、アメリカ漂流後日本に戻った日本人最初のジャーナリストアメリカ彦蔵(Joseph
Heco)の筆記方をつとめた。のち外務省人事課長をつとめたキャリアをもっている。
大正3年(1924)9月、東京神学社は、校舎新築感謝礼拝を挙行した。夫・壮は式の司会をつとめた。松子は天国から、どうのような思いで眺めたであろうか。
植村正久の教会にとどまらず、牧師・高倉徳太郎が信濃町教会を建てるときにも相当の資金を出したという。(信濃町教会は、三井道男の縁で岡田建築事務所が設計を行った)。
植村正久の教職30年祝会に述べるノートらしい其の中に恩人の項目があり、渡辺松子の名が記載されていた。
松子は、48歳で死去した。
3月4日、富士見町教会で葬儀が営まれた。植村正久は、松子の略歴に触れ、松子が神と人のために尽くした奉仕の姿は聖書に出てくるドルカスを思い合わせざるを得ないと語った。 |