最初のページ(index)にもどる


 渡辺 カネ         安政6年(1859)4月14日〜昭和20年(1945)12月1日
 北海道の開拓者。開拓の母

 江戸御弓町(真砂町)に、信濃国上田藩の重臣である父・鈴木親長、母・直の長女として生まれた。ほかに兄・銃太郎、弟・定次郎、安三郎、妹・みつ、のぶのきょうだいがいる8人家族であった。

 維新後、家禄を失い、生きる指針に苦悩していた父・親長は、明治6年12月ある日、旧藩邸に主君の松平忠孝を訪問したところ、忠孝がキリスト教を信仰していることを知った。誘われるままに長男・銃太郎とともに築地6番町のキリスト教会の礼拝に出席した。その日、忠孝がタムソンより受洗した。タムソンが日本の国の幸福を祈ったことに強く心を打たれた。

 翌7年7月、親長と銃太郎はタムソンから受洗し、キリスト教を精神的支えとして生き始めた。その後、親長は宣教師グリーンの日本語教師となり、銃太郎は宣教師・ワッデル塾に寄宿しながら東京一致神学校で勉強する機会を得ていた。

 そうしたころに、カネにも勉学の道が開かれ、明治8年(1875)16歳のとき、横浜共立女学校に入学した。家族が父とともに麹町講義所に引っ越したこともあり、明治9年(1876)に寄宿舎に入り、給費生として勉学に励んだ。そして、同年に海岸教会で受洗した。

 明治15年(1882)5月31日夜7時半から、横浜共立女学校英文全科第一回卒業証書授与式が挙行され、3名が卒業した。そのひとりが鈴木カネであり、残りは皿城ひさ、木脇そのであった。

 一方、兄・銃太郎は明治12年(1879)に東京一致神学校を出て伝道師の資格を得た。按手礼の試験は不合格であったが、明治13年(1880)6月に埼玉の和戸教会の初代牧師として着任した。しかし、翌14年に不祥事を起こして罷免され、再びワッデル塾に戻って、塾の仕事を手伝っていた。父・親長は、全力投球した麹町の講義所が明治11年(1878)11月に火災で焼失し、横浜石川町に住み、共立女学校の国漢の講師の職を得た。

 父・親長は、横浜(海岸)教会に転会して執事として本多庸一、熊野雄七、押川方義、井深梶之助、植村正久らと交流を持っていた。兄・銃太郎はワッデル塾で依田勉三、渡辺勝(まさる)と知り合った。依田が北海道開拓を目的とした晩成社を興し、渡辺勝と銃太郎も参加することとなった。父・親長もかねてから関心を抱いていた北海道開拓であったのでともに参加することとなった。

 23歳になっていたカネは同社の渡辺勝と結婚して、夫たちに遅れて、明治16年(1883)北海道下帯広村(帯広市)の開墾地に向かった。10月17日に、横浜から29日もかけて到着したカネは夫や開拓に参加した移民たちは北海道の気候や害虫にやられて病に倒れていた。カネは横浜を出立するとき、ワッデルたち宣教師から教えられてキニーネ大瓶2本を持参していたので、これを服用させたところ、全員が回復した。すっかりカネは開拓地の女神的存在として一身に信望を集めた。

 カネは、明治18年()6月に長女・泉を出産した。その後、子どもは6人となった。20年間も害虫との闘いをする開拓生活であった。
 「晩成社は一般的にはだれもいない原野に入ったと認識されている。しかし下帯広は、十数戸約五十人と推計されるアイヌが集落を作っていたところ。晩成社は家を建てる木や燃料となる薪(まき)を、アイヌに集めてもらうなど相当に協力してもらっている」と、帯広市史編さん委員長の明石博志さんは指摘している。

 そのように、カネたちは北海道先住のアイヌから生活上の知恵を授かった。冬は野うさぎの毛皮をヌカと灰とで油抜きして着物の下に着ることや、ウサギの毛を綿の代用にすることを学んだ。縫い針3本をアイヌの女性にあげたお礼に貰ったアツシを着てカネは開墾に従事した。ときにはアイヌの老婆かと間違われた。

 開墾移民は温暖な気候の伊豆の出身者であり、当時は北海道開拓の詳細な情報を得ることが困難であったため、聞くと見るとの大違いのため移民たちのなかには去った家族が出た。カネは自分たちに新しい家が出来た将来の展望も開けたと親元に手紙を出した。7年ぶりに母と弟・定次郎がやってきた。

 夫にも飲ませなかった大事にしまっておいた3年前のお茶を母と弟にカネは出した。普段は白湯か、付近のハコベやゲンノショウコなどを煎じたものを常用していた。茶の産地である静岡で過ごしているものにとっては茶の味が一口でわかった。
 一息入れた母と弟は、物置でなく、新しい家に案内してくれるように催促した。ところが、草小屋がカネが手紙で知らせてきた新しい家であることを知った。開拓団の家々も同じ状態であった。腰が抜けるくらい驚いたであろうことが想像に難くない。

 11月26日、母は父とともに東京に帰った。60歳になっていた父は北海道には二度と戻ることはなかった。父・親長は次第にキリスト教から離れ、明治29年(1896)ごろには仏教書を読むようになり、翌30年(1897)6月4日、雲照律師から受戒を受けて十善会に入会した。明治36年(1903)8月、73歳で死去した。

 兄・銃太郎は明治19年(1886)5月に、アイヌの酋長の娘・コカトアン(のち、常盤と改名)と結婚した。明治20年、夫・勝は伏古村と音更村の開墾地担当のアイヌの農業世話係りとして、大津村在勤の道庁役人から任命された。カネも開拓のかたわら、塾を約10年にわたって人々に読み書きを教え、アイヌの相談相手ともなった。 現在の帯広小学校は、カネが近所の子どもたちを指導した私塾が土台になっている。

 帯広に最初にキリスト教伝道集会を開いたのは夫・勝であった。開墾が忙しくなると続かなかったが、聖書の輪読などを行った。カネは開拓事業を成し遂げられたのは8割方は信仰の力だ、と終生、キリスト教信仰を貫いたが、父は仏教に、兄・銃太郎と夫・勝は神道に傾斜した。

 恩師ピアソンからカネのことを祈っているとの励ましの手紙は、ますます北海道に骨を埋める覚悟を強めさせ、カネが終生、信仰を守り、身辺から聖書と英和辞書を離さなかった支えになった、と言えるであろう。

 カネが周りの相談相手になっているかたわらで夫は、村会議員に当選したこともあるが、開拓した土地が人手に渡るなど失意のなか酒に溺れて酒乱状態となり、失意のなか大正10年(1921)脳溢血で倒れた。翌11年6月15日に67歳で死去した。葬儀は遺言により神道で執り行われた。

 晩成社を興した依田勉は大正14年(1925)12月に、兄・銃太郎は大正15年6月に死去した。兄の葬儀は神道であった。カネの長男・勝一郎は夫が失意のなかにあった大正6年(1917)8月24日に24歳で死去した。次男・武平は小学校の校長のかたわら農業を営んでいたが、昭和10年(1921)、カネが76歳のときに病没した。

 昭和20年(1945)、日本は敗戦を迎え、帯広にいたカネのもとにも英語を学びたいもの、翻訳を依頼するものなどが訪れ、カネはそれに女学校地代の辞書を片手に対応した。この年の12月、静かに召され、葬儀が日本基督教会で執り行われた。
出典:『凛として生きる』 『女性人名』 
http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/hp/data/page999997900/hpg999997899.htm
http://www.tokachi.co.jp/kachi/jour/20kaitaku/2.html
http://www.city.obihiro.hokkaido.jp/html/obihiro/pdf/sy02a06-07.pdf