最初のもくじ(index)に戻る 


 
 鈴木 諧子      天保3年(1832)〜明治31年(1898)10月30日
 「名古屋基督教会の母」と慕われた教会員
 
 三河国田原藩士で兵学家・鈴木春山の長女。

 春山に嗣子がないため、尾張国中島郡国府宮の神職河口伊予守の五男を諧子の婿に迎えた。春山は、渡辺崋山の盟友で、彼が自刃したときに、まっさきに駆けつけたといわれている。

 春山の母・園女(安永3年〜嘉永6年4月4日)は、八木角左衛門の娘として問三河国渥美郡浦村に生まれた。若くして結婚したが、離婚して田原藩医・鈴木玄通の後妻となり、享和元年(1801)春山を生んだ。のち、浄土真宗の篤信者となり、妙好人園女と呼ばれた。

 諧子は、父・春山の感化と祖母・園女の教養を身につけた女傑であったためか婿養子の二代目・春山は影が薄かった様子だ。諧子は四男六女に恵まれた。『扶桑新聞』社主は諧子の長男・才三である。

 諧子は儒仏に通じ博愛の心に富んだ。のち、キリスト教を信じ、「名古屋基督教会の母」として敬慕されるクリスチャンとしての道を進んだ。神の聖名と栄光を神に帰する信仰だったと評価できるだろう。
 

<やりかけ>
出 典 『尾張名古屋のキリスト教』 『女性人名』