明治〜大正期の社会事業家。
備前国岡山城下に生まれた。父は、城下町の薬師院の執事。早く両親と死別。祖母とともに叔父に養われる。
5歳ごろから踊り、三味線を習い、17,8歳には弟子を持つ師匠となる。
生活のために芸者となり、維新後、岡山県課長中川横太郎の愛人となり、妻と同居のなかで明治10年(1877)1女トヨをもうける。
中川は、同8年岡山にキリスト教の布教が行われたとき、自宅で説教会を開くなど、布教に積極的だった。小梅はキリスト教を深く知りたいと、11年に神戸のガールズスクール(神戸英和女学校)に入学したが、中川に呼び戻された。
自立を望んだ小梅は金森通倫らの指導を受け、子どもを置いて中川家を出た。
14年1月、中川の妻とともに受洗した。神戸女子神学校で訓練を受け、宣教師夫人に雇われて伝道に従事した。翌15年、岡山女子懇談会が発足するとただちに入会し、翌年国清寺での演説会で「谷間の桜」と題して講話した。
19年西中山下に婦人英学者開設、岡山教会の宣教師らの協力を得て経営したが、23年ごろ廃校となる。この間、石井十次孤児院事業に協力、岡山孤児院の母と呼ばれた。また婦人伝道師として全国を奔走した。
69歳で死没。
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