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 杉本 初栄      嘉永7年(1854)5月27日〜没年不詳   
 明治〜大正期のキリスト教伝道師。

 杉本作左衛門・たつ子の娘として金沢に生まれる。明治3年(1870)、婿養子を迎えた。

 宣教師ウィン,T.C.夫人出口てる子に導かれて入信した初栄は、明治14年(1881)、金沢石浦町教会ウィン(Winn,Thomas Clay)から受洗した。

 事業に失敗した夫が借財を残して単身上京したあとも、金沢に残り、小学校や金沢女学校北陸学院)に勤め、母親や子どもの面倒をみた。生活は苦しかった。
 金沢女学校は、明治17年(1884)10月に、米国の宣教師ヘッセル,メアリ.K.によって私塾として開学したキリスト教主義の女子教育機関である。ヘッセルは、明治15年(1882)にA.E.カルビンとともに来日して大阪に赴任した。カルビンは一致女学校(大阪女学院)を開設したが、ヘッセルはウィンに招かれて金沢に異動して、北陸英和学校で教えた。そのとき女子教育の必要を感じて女学校を創立したのであった。金沢女学校は、明治33年に北陸女学校と改称し、昭和23年(1948)に現在の北陸学院と改めて現存している。

 初栄は、明治25年(1892)1月、病を得、また夫が翌年死没した。周囲からヤソを信じたためだとして親族からは何の援助もなく苦労した。病が快復してのち、これを神の恵みと信じて、学校を退職し、伝道師の允許を受けて金沢、大阪、丹波、四日市そして三島などで伝道に従うこと20年間に及んだ。

 大正5年(1916)に関西学院寄宿舎・聖明寮の寮母に赴任した。この間、明治39年(1906)に息子を、明治42年(1909)に娘2名を、そして大正2年(1913)には母を失うという寂しい出来事に遭遇したが、信仰による望を失わずに若き学生の寮母として母代わりとなって職をまっとうした。

<やりかけ>
出 典 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『日本女性』
北陸学院(http://www.hokurikugakuin.ac.jp/menu.html
関西学院(http://www.kwansei.ac.jp/index_flash.html

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