日本メソジスト教会婦人伝道師。
医師の娘として、甲府寿町に生まれる。酒乱の父が甲府教会のキリスト教牧師小林光泰の説教によって回心し、受洗した。母は死の間際に里子が献身するように遺言したという。
明治20年(1887)ごろ、上京して東洋英和女学校の助手となった。同校は、明治17年に開校したキリスト教主義女学校である。
同時にバイブルウーマンとして同校の楓寮に住み込み伝道に従事した。明治37年(1904)からは麻布(鳥居坂)教会、上田(上田新参町)教会、下谷教会などの教会にお仕えをしたあと、晩年はカナダの婦人宣教師たちと東京教区内の諸教会で自由に伝道し、特に家庭集会の世話をよくした。
昭和17年(1942)秋、赤痢にかかり、翌年召天した。生涯を独身。遺骨は生前に里子自身が建てた甲府の墓に埋葬された。 |