昭和期の評論家
<生い立ち>
東京神田で生まれた。
幼児洗礼を受け、すぐに母親と死別した。北海道小樽近郊で幼児時代を過ごした。
横浜にある捜真女学校を卒業した。東京女子大学を中退して、関東学院の中学校の英語教師をつとめた。大学時代に中等教員の試験に合格したので、中退したのかどうかはわからないが、ともあれ、採用者は捜真女学校で非常勤講師をしていたときの坂田祐である。坂田は、当時を懐かしく思い出すように、「坂西志保女史」について述べている。当時は男子の中学校には女子の教員はきわめてまれであって、殆どいないといっても過言でない時代だったが、勤務振りは優秀で、男子教員も及ばぬ厳格さをも兼ね備えていたとのこと。たんに厳しい教員生活をおくっただけではなく、日曜日には学校内の教会でオルガン奏者としての奉仕も積極的だった。
志保は向学の精神やみ難く、2年間の教員生活で、大正11年(1922)に渡米した。
アルバイトをしながら同14年、ホイートン大学を卒業した。昭和4年(1929)ミシガン大学大学院で美学を修め、哲学博士となった。滞米中、ミシガン大学大学院鉄学部助教授、ホリンス大学哲学部助教授、アメリカ議会図書館日本部部長をつとめたが、日米開戦に伴い交換船浅間丸で17年(1942)に帰国した。帰国後は、外務省嘱託、太平洋協会アメリカ研究室主幹、NHK論説委員をつとめた。
空襲で罹災し、千葉県我孫子町に疎開して敗戦を迎えた。
連合国軍総司令部に勤務、治安維持法をはじめとする弾圧諸法廃止のため積極的に活動した。
参議院外務専門委員、選挙制度審議会委員、中央教育審議会委員、憲法調査会委員、国家公安委員、日本ユネスコ国内委員、放送番組向上委員長などを歴任した。かたわら立教大学講師、運輸省顧問もつとめた。
文化の広範囲にわたってアメリカ的合理主義とヒューマニズムに貫かれた評論活動を展開し、著書も多い。
神奈川県大磯で79歳で死去した。
<著書等>
『支那古代美術論』『狂言の研究』『支那古代風景論』『地の塩』『生活の知恵』ほか多数。 |