坂本 鶴子   明治2年(1869)12月12日〜昭和26年(1951)12月27日
 明治〜昭和期の社会運動家であり、教育家でもある。
 京都下京の永井鶴之助の長女として誕生。

 同志社大学に学び、のちに代議士となった坂本義夫と結婚。
 日本基督教婦人矯風会岡山支部長をつとめ、廃娼問題、婦人解放運動、婦人の政治活動推進などに活躍した。また、社会事業にも積極的にかかわり、アダムスが始めた岡山博愛会の理事としてその事業を援助した。

 大正12年(1923)10月2日の時事新聞紙上に「吉原で廃娼を叫びつつ震災の大追悼会」の見出しで婦人矯風会が開催した追悼会のことが出ている。で矯風会の岡山支部より上京した鶴子が花輪を捧げた。関東大震災で不通となっていた東海道線が開通したのは震災から57日目である。どのようにして鶴子は上京したのであろうか。花輪を捧げる鶴子の熱い思いが並々ならぬ思いであったことを伺わせる。

 大正12年(1923)岡山市に女学校を建設する運動の発起人となり、同14年真備高等女学校の設立にこぎつけた。昭和4年(1929)7月岡山高等女子職業学校校長に就任した。

 82歳で死没。
<やりかけ>
出 典 『女性人名』 『大正ニュース事典6』