大野 悦子 明治23年(1890)〜昭和41年(1966)1月31日 |
大正〜昭和期の社会事業家。本名ゑつ。
神奈川県小田原幸町に小田原基督教会牧師池田清道・さとの長女として生まれる。
父の転地で仙台に転居。明治41年(1908)尚絅女学校を卒業。福岡県大牟田市の第三尋常小学校で代用教員となる。のち正教員の資格を得、そのかたわら紡績女工たちに英語、音楽を教える。
明治44年(1911)、父と死別。大正3年(1914)には母とも死別。
同6年に九州日報記者大野直弼と結婚。脳脊髄炎を煩い病魔に犯されたが、やがて回復に向かった。
夫は、12年に結核の悪化により死去した。生前の「あなたの気が向くなら不幸なハンセン病患者のために尽くしてほしい」と語った言葉に従い、13年明石楽生病院に勤務してハンセン病患者の看護、救援活動を開始した。
昭和7年(1932)11月、楽生病院が閉鎖したが、国立愛生園に移り、未感染児童保育所教師となる。同25年大阪東淀川に白鳥園が開設されたのでその運営を任された。
その後、長年の苦労から体調を崩し、35年間の奉仕生活を終えた。東京に戻った悦子は実妹もとに身を寄せ76歳で死去した。 |
出典 |
『女性人名』 |
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