森 寛子  元治元年(1864)3月15日〜昭和18年(1943)
 明治期の政治家森有礼の後妻

 岩倉具視の五女として、京都に生まれた。とりわけ具視が京都に蟄居(文久2年、1862)したときの

 寛子は、明治14年(1881)旧久留米藩主有馬頼万(よりつむ)と結婚した。同16年に長女を、翌17年に長男(頼寧)を産んだ。しかし、18年に岩倉家に帰り、そのまま離婚した。

 寛子は、明治19年(1886)、森有礼と再婚した。先妻の残した二児の母親となった。実子として有礼の三男・明を産んだ。
 森有礼は、薩摩(鹿児島県)生まれの政治家。上野景範に英学を学び、慶応4年(1865)に藩命によってイギリス、アメリカに留学した。明治初期の外交官としてイギリス、清国、アメリカに勤務した。明治18年(1885)の第一次伊藤博文内閣成立とともに初代文部大臣に就任して教育制度の改革をした。

 有礼は、官僚以外の活躍として、中村正直らの明六社に参加して『明六雑誌』に宗教の自由を主張した。私財により商法講習所(一橋大学の前身)を設立して商業教育の振興をはかった。邸内にバプテスト派宣教師が女子教育を行うために便宜をはかった。宗教政策としては、早くから信仰の自由を持論としたが、キリスト教の洗礼を受けることはなかった。

 有礼は、第一次伊藤博文内閣の文部大臣時代に国家主義的学制改革を進めたが、キリスト教および西洋思想を範としていたことが反感を招き、伊勢神宮に対する不敬事件など捏造記事を掲載され、大日本帝国憲法発布の日に西野文太郎に刺殺された。寛子は、有礼と過ごしたのはわずか1年7ヶ月であった。

 明は、学習院初等科に入学したが、持病の喘息のために退学して以来独学が続いた。
 明治36年(1903)の秋ごろ、渋谷の但馬常子の家で伝道集会が開催された。青山学院教授ミュラー,F.夫妻は江田島海軍兵学校の教師時代に但馬中佐と親しかったことと植村正久を敬愛していたことから但馬中佐夫人を植村正久の一番町教会に紹介し、求道をするにいたり、家庭を開放して伝道集会が開催されるに至った。その集会にミュラー夫妻、そして森明も参加した。導きにより入信を決意した。翌年、母寛子とともに植村正久から受洗した。

 明治37年(1904)、次男、三男とともに植村正久牧師から市ヶ谷(池袋西)教会で受洗した。
 伝道者となった明は、大正4年(1915)、中渋谷日本基督伝道教会講和所(現在の 日本基督教団中渋谷教会を設立した。大正6年按手礼を受け、中渋谷日本基督教会を設立した。学生伝道に志を抱き、東京帝国大学学生基督教共助会を発会し、同大学を始めとして学生への積極的伝道を行った。大正期の民主主義の流れのなかで個人の自覚と陣学の改造の戦いを強く叫び、十字架のイエス・キリストに頼る贖罪愛の信仰に徹しようとしたところにその特色があった。

 80歳で死去。
出 典 『植村 1』 『植村 2』 『植村 3』 『キリスト教人名』 『キリスト教歴史』 『公爵家の娘』 『女性人名』
日本基督教団中渋谷教会 http://www2.ttcn.ne.jp/~chibuki/naka/ch.html