大正〜昭和期の社会事業者。
光子ともいう。
岩手県渋谷村に生まれる。石川啄木の妹である。
郷里の高等小学校を卒業した。明治38年(1905)カソリック系の私立 盛岡女学校へ進学した。この女学校は明治25年に創立した現在の 盛岡白百合学園である。ミツは卒業をしないまま、小樽にいる姉を頼って2年後の明治40年北海道へ渡った。
ミツは、日本メソジスト小樽教会で受洗した。北海道になぜ渡るのか、唐突な感じがしないでもない。現在なお啄木研究は進めれてている。そのひとつとして<
「啄木 妹光子の受洗」をめぐって>の研究発表が行われ、受洗したのは確かだろうと結論づいている。
明治43年(1910)兵庫県(芦屋市)公光町の聖使女学院(聖公会の婦人伝道師養成学校)へ入学した。現存している「芦屋聖マルコ教会」は、明治45年(1912)に聖使女学院のチャペルで近くの信徒数人が主日礼拝を守ったのが始まり。
ミツは、神学校を卒業してから北から南へと札幌、久留米、深川、奈良の諸教会で婦人伝道師として働いて、大正11年(1922)聖公会司祭三浦清一と結婚した。この時代の数え方では35歳のときとである。35歳の妻を迎える清一は志を抱いた目的の人生をともに歩む同士結婚とでも言えそうだ。
結婚後のミツは、ひたすら聖公会系列の教会や施設に仕えることになるが、それまでのミツのキリスト教関係の流れを見ると、あまり教派に拘らない性格なのか、最初の出会いよりもさらによい出会いとして変更しているのか、ミツの信仰生活を探るならば興味ある出来事といえよう。
ともあれミツは伝道者であり社会事業家の妻として清一と苦楽をともにし、清一のもとに集まる若者らを温かく包んで、慕われた。
昭和13年(1938)清一が危険思想家として拘留された間は熊本の阿蘇の教会に移り、教会と教会員の家族を守った。同19年(1944)神戸に移り、夫・清一が設立した救貧施設・神戸愛隣館で働き、貧しい人々のために尽くした。
37年(1962)清一の死後は、同館長として、息子・嗣郎の助けを得て6年間責任を果たした。
79歳で死没。
著書に『悲しき兄啄木』、『兄啄木の思い出』がある。
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