日本初の女子刑務所長。
出身は埼玉県行田市であるが、横浜市で生まれた。父は判事。母はアメリカ育ち(祖母はアメリカ人)。5人きょだいの4番目。母は病弱だったこともあり、父への親しみのほうが深い。
大正9(1920)年埼玉県立熊谷高等女学校を卒業して、日本女子大学校家政学部に入学し学生寮・暁星寮に入寮した。ここで舎監ミス・フィリップの影響を受けてキリスト教に関心を抱き、聖公会の教会で受洗した。
同13(1924)年大学校卒業と同時に東京市社会局嘱託として児童保護課に勤務し、東京市児童給食事業に従事した。翌年、22歳で結婚した。夫の職業は新聞記者。一男一女を生む。夫は過労のために結婚4年後に肺結核で早世した。
昭和4(1929)年、聖ヒルダ揺光ホーム孤児院副舎監となり、キリスト教伝道に従事、その翌5年 香蘭女学校舎監となった。
同9(1934)年に再婚したが、同20(1945)年に夫が死没。
同21年GHQの女子刑務所所長は女性をとの強い意向と、清原邦一刑政局長(後の検事総長)・豊子(庸子と本学同級生)夫妻の勧めで、和歌山県刑務所の所長として赴任した。日本では女性として初めての刑務所長となった。
同23(1948)年法務庁事務官となり、同25年法務省矯正保護局長、同32年和歌山女子刑務所を改名した和歌山県婦人寮の寮長を兼ねた。刑務所長在任中、女性ならではの種々の改善を試み、その永年の功労により、同49(1974)年勲三等瑞宝章を受章した。
35年(1960)東京婦人補導院長、51年(1976)72歳で東京の聖公会八王子幼稚園園長となり、55年(1980)に辞職。
58年(1983)には東京保護観察所長から表彰された。
56年(1981)脳梗塞で倒れ入退院の後85歳で死没。
著書に『婦人と犯罪』、『女囚とともに』、『性の闘い』などがある。
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