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 松島 糸寿       天保14年(1843)9月1日〜大正14年(1925)11月11日
 明治・大正期の筝・三弦演奏家。

 福岡藩士・松下寿人の二女。5歳のとき天然痘で失明した。7,8歳のとき、女検校・大塚菊寿に筝・三味線を学び、10歳で代稽古となる。

 32歳のとき福岡から東京に出て、生田流の看板を掲げたが、東京は山田流が流行しており振るわなかった。いったん故郷に戻り、西南戦争後、再び上京して弟子を募集したが相手にされず、また帰郷した。

 3度目の上京後、福岡県久留米出身の生田流山下検校について稽古を積んで腕を磨いた。諸家に出入りしているうちに黒田清隆の知遇を得ることで3度目の看板を上げることにした。しかし、思うように生田流が広まらず、苦悩した。

 苦悩の末、キリスト教に帰依し、熱心な信者となる。
 ドイツ人宣教師・スピンネルの知己を得て、新教神学校の音楽教師・ボリアンの勧めで教会の婦人たちにも教えるようになった。こうしたことから永井荷風の母・永井恆も教えを受けた。

 明治時代の生田流の開拓者のひとりである。
 82歳で死没。
出 典 『女性人名』