ハンセン病患者の治療に積極的にかかわった医師。
《生い立ち》
ナミは、熊本県八代市に生まれた。
大正12年(1923)、東京女子医学専門学校に入学した。
《受洗》
大正14年、日本キリスト市谷教会で金井為一郎牧師から受洗。金井為一郎牧師は第一高等学校の2年生のときに日本アルプス登山中遭難をして、九死に一生を得たことを機に伝道者になる決意をして、大正8年(1919)、市谷教会に赴任した。
東京女子医学専門学校生の寄宿舎生たちのなかには、近くの市谷教会や柏木教会に出席していた。
松田ナミは、学内にキリスト教女子学生青年会を結成しようとしたが学校当局から許可されないまま、昭和3年(1928)卒業した。その3年後に市谷教会に出席していたグループが中心となってFM会が結成された。FMとはFemale
Medical(女性医師、または女子医学生)の頭文字である。のち、市谷教会の藤原藤男伝道師によってFM会は落穂会と命名され、『おちぼ』が発行された。
松田ナミは、卒業の翌年に賛育会の錦糸病院に勤務したが、そのとき本院の内科部長が植木良佐であった。植木は第一高等学校、東京帝国大学に学んだが、学生時代に内村鑑三の聖書研究会に出席し、病院では毎土曜聖書講義をしていた。松田ナミは大西富美子や名和千嘉とともに聖書研究会に出席した。
《ハンセン病治療にかかわる》
ナミの治療を受けた元ハンセン病患者中山弥広は、ナミについて、次のように語っている。
「他の先生は病室を全部回られると言うとは殆どなさらなかったのですけれども、クリスチャンの女医・松田ナミ先生が午後9時によく病室回ってくださいました。そして、熱のために真っ赤な顔をして、顔いっぱい汗をかいて寝ている私の脈をみられ、脈が結滞しているので強い強心剤をうつゆにと看護婦さんに指示してかえられたそうです。私はそれを全然しらずにきれいな花の野を歩いていたわけです。」
また、沖縄の名護市済井出のハンセン病国立療養所沖縄愛楽園に入居している松岡和夫さん(81)=日本聖公会沖縄教区愛楽園祈りの家教会執事=が記念誌を出版したが、その文中に、ナミに励まされたことが出ている。
キリストの愛に生きたナミの信仰生活が、周囲の証しから浮き彫りになって、主の栄光を映え輝かしていることをナミを知らぬものにも伝わってくる。
<やりかけ> |