初代弘前市長・菊池九郎の妻。弘前藩士・山田浩蔵の妹。
九郎は、維新後の奥羽征討に際して本多庸一とともに庄内藩で薩長軍と戦った。明治年(1869)に慶応義塾で学び、その翌年には鹿児島兵学校に遊学した。明治5年(1872)12月、東奥義塾副幹事、翌年には東奥義塾結社人(学校主)となった。
明治8年(1875)に弟・軍之助が弘前公会最初の受洗者となり、自宅を講義所として開放したとき、九郎は教会の資産係を担当した。西南の役に際し東奥義塾の教師、塾生20数名とともに従軍巡査に応募し、弘前を出発する前日の明治10年(1877)6月23日、イング,J.から受洗した。
明治22年(1889)初代弘前市長、明治30年(1897)山形県知事をつとめた。明治23年(1890)に第一回衆議院議員に当選以来から明治39年(1906)までの9期をつとめた。その他、政治的要職にあった。
昭和元年(1926)1月1日に死去し、東奥義塾葬としてキリスト教式で葬儀が行われ、弘前公園に頌徳碑が建った。
久満子も早くからキリスト教に入信しており、明治12年(1879)に受洗した。
夫・九郎の母・幾久子に従って弘前教会の婦人信者を指導した。
同34年(1901)愛国婦人会が結成されると久満子は弘前支部長となった。その後も同地方婦人の代表として社会事業に貢献した。
夫・九郎よりも早く、71歳で死去した。
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