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加藤タカ 明治20年(1887)10月17日〜昭和54年(1979)10月25日

 大正〜昭和期のキリスト教婦人運動家。
 加藤勝弥の4女として東京に生まれる。タカは、明治期の教育者
加藤俊子の孫にあたる。

 明治44年(1911)女子英学塾を卒業後、東京YWCAにつとめる。大正4年(1915)ニューヨークYWCA幹事養成学校を卒業。

 同14年東京YWCA総幹事に就任する。
 国際労働協会の婦人労働委員会委員長となる。同委員会には渡辺松子がおり、帶刀貞代、河崎なつ、野坂参三婦人などがおり、炭坑や紡績工場の婦人労働者の労働条件改善運動を行った。

 昭和19年(1944)の退職まで
カウフマンと協同して戦前のYWCAの基礎を築いた。
 昭和3年からは
駿河台女子学院院長を兼任し、12年5月から6ヶ月間、ジュネーブの世界YWCA本部事務所へ出向するなど国際的役割を果たす。

 戦後は郷里の新潟県に戻り、22年の地方選挙に周囲から推されて村議に当選し、八幡村村議に就任。間もなく米軍の新潟軍政部の顧問として採用され、議員を辞職して、婦人・青少年団体組織、啓発などの通訳を2年間つとめた。

 のち県立村上高等学校の教師となり英語を担当した。このほか東京連合婦人会財務委員、
東京婦人愛市協会理事などもつとめた。

 92歳で死没。

カウフマン

1909(明治42)年来日。世界キリスト教女子青年会(YWCA)常任委員。駿河台女子学院副院長。臨時講師として津田塾大学で料理を教えたこともある。抑留中のカナダ2世のために尽力し、カナダ人の日本人観を変えたと評価された。同国のマクドナルド女史(日本YWCA初代総幹事)との出会いによる影響が大である。

駿河台女子学院

1928(昭和3)年、YWCA運営のもとに各種学校として発足。家政部、商業部、英語部(のち語学部)、実学部(夜間)をセット。1936年には3年制体育師範部を新設。学制は全国から集まり、1500名を超えた。しかし、1944年、会館を海軍に徴用され廃校となった。戦後は東京YWCA学院として再出発して1976年東京YWCA専門学校となり2年制の秘書養成科、英語科、社会福祉科を設置。

マクドナルド女史

1904(明治37)年に来日。YWCA関係のほか、津田塾大学教授(05-23)、自由学園の創設の援助など教育活動に貢献。1915(大正4)年、自分が関係していた聖書講義に出席していた一青年が家族を殺す事件が起きたとき、自分のキリスト教教化が不徹底であったと考え総幹事を辞職。以後、毎日、その背稲を監獄に訪ねて基督のお家を説いた。さらに小菅、豊玉、巣鴨各監獄在監者の教化につとめた。その結果、更正の道をたどりたいと願うものが続出した。特に死刑囚慰問に力を注ぎ、そのひとりに改悛して絞首台に臨んだ石井藤吉がいる。石井の辞世の句と懺悔録が刊行されている。

出典

『キリスト教歴史』『日本YWCA80年』『婦人年鑑』『回想の加藤勝弥』『女性人名』