大正〜昭和期の看護教育者
《生い立ち》
千葉県君津町に鹿島秀助・きちの一人娘として誕生した。
日本女子大学校英文科を卒業。
母の死後を機にクリスチャンとなった。
《病を得て、看護学を学ぶ》
大正5年(1916)日本女子大学校付属幼稚園で勤務中に病気入院した。
この体験から看護の重要性を痛感して、退院後、聖路加病院で看護学を学んだ。以後、次々と学びを深めていった。まず、 同病院創立者・院長トイスラーに同伴してシベリアに行った。ついで同9年6月に渡米してニューヨーク郊外のハッケンサク病院付属看護婦養成学校で3年間学んだ。さらにヘンリー・ストリート訪問看護婦としての実習を重ねる一方でコロンビア大学看護教育学部に入学して研鑽を深めていった。
《聖路加病院勤務》
大正14年(1925)4月帰国して聖路加病院に勤務する。同年11月に文部省学校保健主管課の嘱託となり、学校看護婦(養護教諭)の確立に尽力した。
昭和4年(1929)9月、女子経済専門学校で看護学を、翌年4月、聖路加女子専門学校で公衆衛生を教授した。
36歳で死去。 |