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 金成 マツ       明治8年(1875)11月10日〜昭和36年(1961)4月6日
 大正〜昭和期の婦人伝道師。アイヌ文化(ユーカラ)の伝承者。

<生い立ち>
 北海道幌別に生まれた。アイヌ名イメカノ。父は幌別の巨酋・金成(アイヌ名カンナリ・ハエリレ)、母はユーカラのすぐれた伝承者モナシノウク。妹は同じくアイヌ文化の伝承者である 知里ナミ(アイヌ名ノカアンテ)。マツは、8歳で父に死別した。しかも16歳のとき怪我のために半身不随となる。
 金成一族からはユーカラの伝承者のマツをはじめ、マツの姪や甥に当たる知里幸恵、北海道大学教授・知里真志保などが輩出されている優秀な家系である。

<ジョン・バチェラー宣教師>
 ジョン・バチェラーが来道して9年目のクリスマスに受洗者を出した。その初穂がアイヌ人カンナリタロウすなわち金成喜蔵の息子・太郎であった。迷信の多いアイヌに難解なキリスト教の教義を教え込むのは、並大抵の努力ではなかったであろうが、あきらめずにバチェラーは伝道を続けた。太郎は、神へささげた初穂であり、神からいただいた恵みであった。太郎はバチェラーの家の使用人パラピタの妻アッシコルクの甥である。アイヌ人で最初の師範学校卒業生であった。

<受洗>
 カンナリタロウが受洗したときマツは10歳であったが、従兄の受洗がきっかけとなってバチェラーを知ることとなり、18歳のとき、マツもバチェラーから受洗した。

<アイヌ人のための学校>
 アイヌ伝道の輝かしい成果としてアイヌ人のための学校が開設され、その校長に初穂のカンナリタロウをバチェラーは任職した。しかし、せっかくの初穂であるカンナリタロウは強い酒による中毒症状が出て、バチェラーは解職せざるをえなくなった苦い体験も味わった。カンナリタロウは、やがて悔い改めてバチェラーとともにアイヌ伝道師として働いた。が、肺結核のために明治28年(1895)11月9日死去した。25歳の若さだった。バチェラーは、同労者ペテロ・カンナリタロウが死の間際に周囲に見せた微笑みが多くの人々にすばらしい影響を与えた、と書簡に認めた。

 やがてマツは、明治25年(1892)、妹・ナミとともに函館の愛隣学校に入学し、31年(1898)に卒業すると、妹とともに日高/平取村の開拓伝道にあたった。妹は縁あって隣村登別のアイヌ青年・知里高吉と結婚して家庭の主婦となった。

 マツは平取村で19年間伝道活動をしたのち、すなわち42年(1909)に旭川郊外の近文(ちかふみ)部落にあった聖公会講義所で、時折訪問するバチェラーとともに伝道に従事して56歳まで過ごした。一時は、集落のおとなで受洗しないものはいなかった、というほど熱心な伝道活動をマツは展開したのであった。

<金田一京助との出会い>
 同年ナミの子「幸恵」を養女として育てる。 幸恵は大正7年(1918)近文部落を訪れた金田一京助に勧められてアイヌの伝承文学の筆録を志し、『アイヌ神謡集』を残して同11年に19歳で死没した。

 マツは金田一京助に励まされて、幸恵の遺志を継ぐことを決意する。
 昭和3年(1928)以後は伝道師を隠退して、もっぱらユーカラの筆録に従事した。大学ノート72冊に及ぶユーカラのローマ字による筆録(「金成マツノート」)は、金田一京助と幸恵の実弟知里真志保の訳注を加えて、昭和34年(1959)から『アイヌ叙事詩ユーカラ集』20巻として刊行された。昭和31年無形文化財保持者に指定され、紫綬褒章を受けた。

 87歳で死没。

 <『朝日新聞』(平成18年8月13日)記事>
 マツの遺した「金成マツノート」の翻訳が、なお49話が残っているが、この事業を続けてきた北海道は、未完成の状態であるが、2007(平成19)年度をもって翻訳事業を打ち切りとするとの記事が『朝日新聞』に掲載された。
出典 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『女性人名』 『ジョン・バチェラーの手紙』  『朝日新聞』
知里幸恵略年譜 http://www.h2.dion.ne.jp/~moto03/top.htm