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賀川 ハル 明治21年(1888)3月16日〜昭和57年(1982)5月5日
 ハルは、明治21年(1888)、横須賀で小間物屋を営んでいた芝家の次女として誕生。ほどなく芝家は、以前からの家業である質屋を営業するに至り、ハルは両親の慈しみのなかでなに不自由なく育てられた。

 学校の成績もよかった。はにかみやのハルは将来教師や看護婦になる夢を膨らませていた。ところが、ハルが小学校を終えるころ、家計が苦しくなり、15歳で行儀見習に東京に出た。つまり、女中奉公である。

 ハルの父は、家の商売がいよいよ立ち行かなくなったために、義兄の経営する横浜の福音印刷会社に勤めることにした。義兄は熱心なクリスチャンで、会社の名前も「福音」としてあるほどだ。ハルの将来を心配して、義兄すなわちハルのおじは、一年あまりで女中奉公をやめさせて、自分の手元にひきとり、学校に通わせた。

 やがて、ハルの父は神戸の工場に転勤となった。16歳になったハルを含めて一家はあげて神戸へ移住した。この工場は主として聖書を印刷していた。欧文の係がスラスラとローマ字を読んでいるのに大いに感心し、「お金が取れて、勉強もできる」と、志願して女工になった。

 しかし、思ったようにはいかず、女工の生活をしている自分は最低の人間ではないかという思いがハルの心をいつも煩わした。この工場では、毎週月曜日にキリスト教の集会が行われていた。ハルは神を信ずる気持ちには一向になれなかった。かれこれ、7年の歳月が流れた。

 ハルが23歳のとき、運命の赤い糸で結ばれている青年と出会った。それは、会社の集会に招かれて讃美歌指導に来た賀川豊彦である。すでに、このときよりも数年前から神戸葺合新川のスラムで熱なキリスト教伝道を、豊彦は
行っていた。自らも地域に住んで、ときには病人をひきとって世話をしていた。

 豊彦は、会社の集会で「私は新川に住む乞食の親分です」と自己紹介をし、上手に讃美歌を指導した。ときに、豊彦、23歳。ハルと同年であった。

 讃美歌指導ばかりしていた豊彦は、あるとき、説教を依頼された。よれよれの着物を身にまとい、青白い顔をした豊彦は会衆の前に立って、一言一言、まるで火を噴くようであった。

 隣人を愛せよ、とのキリストの教えを身を投げ捨てて実践している豊彦の言葉に、ハルの心は激しく揺さぶられた。

 それからというものは、熱心に賀川の説教に耳を傾け、教えを乞い、また彼の仕事をも手伝うようになった。とうとうハルは、受洗してクリスチャンになった。

 翌年、ハルに縁談が起こった。
 縁談がおこったハルは、自分の魂の導き手であり、聖人のような存在である賀川に相談した。縁談を進めるよりも、このままスラムで働きたい、と純粋な気持ちで打ち明けた。このときのハルは、別段、賀川に自分の愛情を打ち明けたわけではない。

 当時の賀川は身体が弱く、医者からも数年しか生きられまいと言われていた身である。とても家庭生活をもてる普通の人とは見られていなかった。ところが賀川は逆に、ハルに結婚を申し込んだ。ハルは非常に驚いた。

 熟慮の末、ハルは生涯の献身を誓って賀川の結婚申し込みを受けた。賀川はハルのことを自伝小説『死線を超えて』のなかで「ジャンヌ・ダークのように思える勝気な、健気な、そして女らしい女だ」と述べている。

 大正2年(1913)5月27日、賀川の妻になったハルはあらゆる困難な中にあったが、幸せだった。スラムに住み込み、著述と説教と神学校における教授。そして困窮者や病人の訪問に明け暮れる夫を黙々と助けた。

 夏の夜は耐えがたい暑さに加えて南京虫が多くてハルを苦しめた。浮浪者が夫妻の食事時に暴れこんできて、食卓をひっくりかえした。が、ハルが落ち着いた態度で対応したので、賀川はかえって感動した。

 常時、10数名が夫の世話になっており、買い物、炊事、洗濯、病人の看護にとハルは身を粉にして働き続けた。そのうえ、夫の口述筆記を担当した。そして「自分はまだ知識が足らぬ」と口癖のゆに言って、早朝から夜更けまで時間を見つけては代数、幾何、生理学、動物学の勉強に励んだ。師は夫であった。

 賀川は、自分の仕事に協力してくれる人々とともに「イエス団」を組織して(1)伝道(教会、日曜学校、路傍伝道)(2)教育(夜学校、裁縫学校)(3)人事相談(4)職業紹介(5)無料宿泊(6)簡易食堂)7)施療の範囲にわけて、セツルメント運動の基礎作りをすすめていった。

 賀川の神学校からの給料は、ほとんどこれらの仕事につぎ込まれた。ハルは、一言の不平を漏らさず、豊彦の考えに従った。

 大正3年、賀川の活動に協力してくれて定期的に送金してくれていたアメリカ人からの援助が得られなくなり、事業を縮小することになった。そこで、二人は相談して、賀川はアメリカのプリンストン神学校、ハルは横浜の共立女子神学校に入学して勉強をやりなおうそうと決断した。

 同じ目的のために3年間、別々の生活を送った。
 渡米した賀川は、アメリカでの労働運動、セツルメント運動の実態を知り、資本主義の悪に心底からの憤りを覚えた。祖国日本をより自由な国にするために労働者の自由組合をつくる運動をおこそう、と固く決意して帰国した。ハルも神学校を卒業し、二人は神戸でスラム生活を再開し、以前以上に多忙な生活を送るようになった。

 日本の資本主義は、まさに勃興しようとする時代であった。労働者は奴隷のように強いられ、貧困なために身売りする婦女子は後を絶たなかった。ハルも休みのない日々で、巡回看護の仕事を引き受け、淋毒性トラホームの子供らの手当てをおこなっているうちに感染して、右目が失明状態となった。

 大正9年10月、賀川の自伝小説『死線を越えて』が出版され、大反響を呼んだ。そのため、スラムの住民のなかには自分たちを題材として金儲けしたからと、夫妻を脅して金をせびりに来る人が少なくなかった。ハルは、イエス団の人々と「神は愛也」と書かれた十字架の提灯をもって毎晩のように路傍伝道を行った。そこでは短刀を見せびらかす者、投石する者もいたが、賀川夫妻はまったくの無抵抗主義を貫いた。

 大正10年、ハル33歳のとき、神戸・三菱両造船所の労働者が未曾有のストライキを起こし、賀川が総指揮者となったが、結果は失敗に終わった。労働者の生活救済のため、消費組合活動も施療も『死線を越えて』の印税が用いられた。二人の生活は相変わらず貧しかった。

 その後数年、賀川は関西における労働運動の中心者であった。ハルは夫がいつ警察の手に渡っても動揺しない覚悟を固め、自らも覚醒婦人会を組織し、労働者のための救護班として活躍した。

 資本家の搾取に対して正義感を燃やす若者は少なくなかった。賀川夫妻の労働者に対する深い愛情、敢然と一身を省みずに社会悪に挑んでいく勇気は多くの人々を惹きつけずにおかなかった。こうして賀川豊彦・ハル夫妻の存在は日本全国に知られるようになった。

 大正11年(1922)1月、ハルは結婚9年目にして待望の長男純基を出産。ところが、翌年9月、関東大震災が起こり、賀川は救援のために急ぎ上京した。10月、ハルも長男とともに上京して賀川が本拠地としている本所で、夫の救援活動を助けた。その後、賀川の健康を案じて一家の住まいを東京市外の松沢村(現在の世田谷区下北沢)に移した。

 ハル36歳のとき長女千代子、41歳のとき次女梅子が誕生。ハルは夫の協力者として、3児の母として超多忙であった。片や、賀川の名声は海外まで広く知られるようになり、伝道に、社会運動にと、ますます仕事は多忙になり、規模も世界的に拡大した。

 元来が病弱な賀川は、幾度も病に倒れながら旅に明け暮れた。「放浪12年、全国協同伝道のために、病気の時のほかは、半月として続けて家に居ることは無かった。甚だしい年は一年間、35日しか自分の子どもをみなかった。こうしたことは、やはり子どもの教育の上に影響するように思われる。やむ得ないことであるとしても、子どものためには心配する」と賀川自身が文筆で吐露している。

 賀川の悩みはハルの悩みであり、祈りであった。親子連れの姿を目にする度、わが子がひねくれないかと気をつかった。ハルは神にすべてを委ねて家庭礼拝を欠かさず、幼い子らに聖書を読ませた。後年、長男は教会音楽に造詣深く、また父の志を継承、長女千代子は医師として活躍、次女梅子は父の理解者として夫の海外任地で伝道活動、といった賀川一家は神のために献身する一家として活躍。

 賀川の広い視野と独創性により、種々の活動を行い、事業を手がけた。なかでも彼は人材育成に大きく貢献した。賀川の励まし、援助により大正・昭和の社会事業
家が巣立った。また影響を与えた。さらに賀川が心にかけたのは貧しい人々に対する愛情である。賀川自身が貧困のために身売りされて妾となった女を母にもつことが原点となっている。

 賀川家では家族だけで食卓を囲むことはほとんど無かった。ハルは、どんな人に対しても分け隔てなく喜んで世話をした。今日で言えば軽く億を超える収入があった。印税や講演料などから得た収入であった。これら一切を必要な事業や人々のために用いられた。

 賀川は詩にハルの姿をうたった。
  千金万を手にしつつ襦袢の袖をつくろうって人にほどこす妻恋し。
  財布の底をはたきつつ書物数えて売りにゆく、無口で強き妻恋し。
                        (これは、まだ長く続いている)

 昭和6年、松沢幼稚園を開設。13年、財団法人「雲柱社」を設立。これは関西において大正11年、夫とともに設立したイエス団と並んで賀川夫妻が直接関与した社会事業団で、(1)労働者・農民伝道運動(2)保育に欠ける児童の教育(3)ドヤ街における隣保活動(4)宿舎の提供、その他の諸事業を行ってきた。無論、ハルは理事として活躍した。昭和31年から日本基督教婦人教矯風会理事としても活躍。

 賀川は、昭和34年(1959)、新年早々から関西伝道を終え、四国へ向かう途中、病に倒れ、療養に明け暮れる日々となった。賀川はキリスト教新聞に「手製の新茶」と題してハル手製の新茶を通して夫に尽くすハルに感謝している。自宅の庭の一株の茶の木から新芽をつみ、七輪の上の半紙にそれを伸べて新茶を作り、賀川の病床を慰めたのだった。

 昭和35年4月23日、賀川は危篤となった。ハルは枕辺で夫の頭に手を当て、「よくお働きになりまた。御苦労さまでした」と別れのあいさつを述べた。いかなるときにも取り乱さず、謙遜に、しかも雄雄しく賀川に寄り添い、賀川の信仰と社会活動の生涯の伴侶として歩みを共にしたハルは、「私はただ従うのみです」とのみ語った。

 夫の志を継いで、イエス団、雲柱社の理事長に就任。56年10月、69年間に及ぶ社会福祉活動の労により名誉都民として顕彰された。94歳で死没。著書に『女中奉公と女工生活』、『太陽地に落ちず』がある。(おわり) (トップにもどる) 
出典:『キリスト教歴史』『女性人名』『石垣綾子』