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 藤原 道子      明治33年(1900)5月26〜昭和58年(1983)4月26日    
 昭和期の政治家。
 
 岡山県児島郡宇野町宇野(現在の玉野市)で、父藤原福治郎(元治元年生まれ)と母サク(明治元年生まれ)の7人きょうだいの真ん中に生まれた。親の職業は農業。

 親は「まことになかのよい清らかな道を学ぶ」ように期待を込めて子どもの名前を考えた。長姉は実(まこと)、次姉は仲野、兄が清司、そして道子、弟に学とつけた。このあと更に2人の弟が生まれた。

道子が生まれた藤原家は中野屋という屋号のある旧家で塩田を営み、牛も飼っていたために農繁期には家族以外の手伝いも出入りが多かった。父は同じ村の三宅から養子だが、もとは近衛兵であった。結婚後、台湾征伐に従軍して、赤痢のような風土病やマラリアにかかって苦戦し、従軍中のマラリアと脚気のために姫路の陸軍病院に移送され、母サクは幼い姉を背に病院へ通ったとのことだった。

 除隊した父はこのときの病気のせいか生涯健康が芳しくなかったので、一家の柱として7人の子どもを養育し、また旧家の対面を保つことは大変なことだった。道子よりも10歳年長の長姉が、道子の小学校2,3年頃に結婚したが、そのころから急速に家が没落して、田畑は減少し、野良仕事の使用人も牛も飼えないほどの貧しさになり、大嵐で屋根の一部が吹き飛ばされても近所の家々はすぐに修理をしたが、道子の家では屋根の葺き替えができなかった。

 しかし、道子の父は当時としては珍しいくらいに教育熱心であった。また、子煩悩でもあった。学校の役員も引き受け、運動会の練習にまで見に来て諸注意を与えるほどだった。きょうだいで学校の成績を競わせ、一番は2銭、2番や3番は1銭のご褒美をくれた。近所でも中野屋のきょう代は成績がよいと評判だった。どのように貧しくなっても子どもの学用品だけは不自由させないようにしてくれた。

 とはいえ、没落した家には住めないほどの苦境に立たされ、一家は父の姉のいる岡山の小さな借家に身を寄せ、兄清司は湯浅県知事邸に引き取られ、姉の仲野と道子は山陽新報社(山陽新聞社)へ就職した。姉は印刷工場の鋳造部へ、道子は解版部へはいった。道子は11歳8ヶ月で故郷を捨てて印刷女工となった。成績のよかった道子のことを心配して小学校の担任は何とか学業が続けられるように家庭訪問などをして父を説得し、父の弟たちも面倒をみようと申し出てくれたが、父福治郎は頑として態度を変えなかった。道子は小学校5年で中退した。

 道子は印刷所に通いながら内山下小学校の夜学に通った。朝7時から夕方5時半まで解版の仕事をしてから6時頃から9次までの夜学での勉強は大変だった。

 そのころ、うどんかけが2銭、焼き芋が1銭のときだった。ときどき倹約して焼き芋で夕食を済ませて学校へ通った。まだ夜が明けるか空けない頃に家をでなければならない道子は、ゆっくりと髪をとかしている暇がなくて髪にシラミがわいたこともあった。福治郎は道子のシラミをとってあげならが「道子や、苦労をかけるのう。けえど貧乏しても卑屈になるなよ。今日の苦労を笑い話にする日が必ず来るからな。貧乏なためにお前が卑屈な人間になったら、父さんは死んでも死にきれぬからなあ。きっと立派に生きてくれるっと、わしゃ信じとるんじゃけんのう」と、背中でしみじみ言った。

 そうして夜学の小学校を終え、職場ではみんなにかわいがられて辛いことはなかったが、故郷のともだちが岡山の女学校に汽車通学をしながら、寄り道して友達と連れだって道子の女工姿を見に来ることが最も屈辱的だった。夕刻、労働時間の制約もない時代で、暗い電灯の下で印刷インキに汚れながら働いている道子の耳元には社会のクズか最下等の人間のように思われていた時代に、そういった仲間に落ちていった道子はどんな顔をしているのだろうか、と物珍しい見せ物のような気分で覗くかつての同級生の見下げた嘲りのささやきが悲しく悔しかった。

 家では父が道子を慰め励ました。「かごに乗る人担ぐ人そのまたわらじを作る人といって、人にはそれぞれ分担がある。職業に貴賤はない。社会に役立っているのだ。卑屈になるな」と。

 いっしょに女工として働いていた姉は脚気と肋膜で体力が衰弱しきっていたが、親に心配をかけまいと弁当をもって勤めに出ていた。結婚を間近に控えていたある日、道子と西川の橋の上に来たとき、姉の仲野は弁当を不意に川に落とした。もう食欲もないほど体力が衰えていたのだった。そのまま病状が悪化し、20歳の結婚を前にした仲野は亡くなった。父が遺体にすがって男泣きした。貧乏をしなかったならば殺すことがなかったのに、と。

 姉の死、祖母の死などを続けざまに体験した道子は、女工をしていないで看護婦になろう、お金のない病人の世話をする看護婦になろうと、強く決意した。


<やりかけ>

出 典 『藤原道子 ひとすじの道に生きる』 『女性人名』

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