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 藤沼 恵  明治31年(1898)8月11日〜昭和44年(1969)11月24日
 昭和期のオルガン演奏家であると同時に音楽教師として学校教育に貢献した。

 恵は、兵庫県姫路市に生まれた。
 父・藤沼良顕は、恵の生まれる前の明治28年から姫路教会に仕え、29年に按手を受けて34年まで留まったが、その後は、バプテスト教会の巡回牧師として、瀬戸内海を一巡する働きをしていた。

 恵は、牧師の家庭という環境から子守唄のようにして讃美歌とオルガンの生活で育った。3歳のころから母親にオルガンの手ほどきを受けた。その後、父・良顕の転任で横浜、廣島などを経て、小学校4年生のときに福岡県に住むことになった。そのころはすでに教会のオルガニストとしての奉仕を行っていた。

 大正3年(1914)16歳のとき父藤沼良顕牧師により受洗した。爾後、55年間のクリスチャン生活を神の前に忠実に歩むのであった。

 小倉高等女学校に入学した恵は音楽学校を卒業したばかりの若い女性教員の影響を受けた。音楽の勉強を本格的にしたい希望を抱いて横浜にあるバプテスト系の捜眞女学校に転校して音楽学校進学の準備を開始した。

 大正6年(1917)に東京音楽学校選科(ピアノ専攻)に入学したが、母親の病気で中退した。福岡県に戻り母親の看護にあたり、3年後の大正9年、再度上京して東京女子音楽学園に入学し、大正11年(1922)に卒業した。さらに進学を夢見たが、父の命で帰郷し小倉市内の西南女学院に赴任することとなった。その1年後、大牟田高等女学校に転任して8年間の音楽教師としての勤めを果たした。

 昭和7年(1932)には福岡市の私立九州女学校に転任した。このころから勉強のための上京をあきらめて福岡に永住する気持ちを固めた。そのころ、大分で音楽教師を捜しているとのことで久留米高等女学校の松尾校長の紹介があった。松尾校長は恵を私立女学校においておくのが惜しいという好意からの紹介であったが、恵にとっては気の進まない話であった。

 一度は大分を訪問したものの、当時の恵にとっては音楽の香りの乏しい大分で、知人のいない寂しさもあり継続してすぐに福岡に戻った。しかし、松尾校長からの厳しい叱責と大分からのたびたびの依頼もあり、さらに父・良顕からの「大分はお前が必要とあって招聘したのだから、使命と思ってすべてに忍耐し尽くしなさい」と諭されたことから、昭和10年(1935)大分県立第一高等女学校に正式に教諭として勤めることになった。

 松尾校長の恵を思う親心による叱責と、恵の父が牧師であることから聖書の御言葉にもとづく諭し方に価値観の相違はあるにしても、恵の才能と神の僕としての誠実な歩みを願う親心であった。

 着任した大分県立第一高等女学校にはスタインウェイを含む3台のグランドピアノと多数のオルガンがあった。恵は大きな喜びと感激で教壇に立った。恵の指導は厳しい中に優しさや温かさを含めた熱心な指導であっった。恵の人柄に引かれて音楽教育に関心を強め、音楽学校進学を志す生徒が次々と現れた。

 恵はとくに合唱に力を入れた。在学中の生徒による女声合唱部を作り、さらには卒業生までもが卒業生合唱団が結成された。時勢は厳しい戦時下であったが、恵の指導の下に美しい合唱が大分の地に流れた。女生徒による100人以上の鼓笛隊が編成され、出征兵士の見送りにも協力した。

 終戦を迎えた昭和23年(1948)、学制改革により大分県立第一高等女学校は第二高等女学校と大分中学校と合併して、大分第一高等学校(現在の大分上野丘高等学校)に改称された。さっそく、恵の指導の下で男女共学を生かした混声合唱の演奏が指揮された。

 大分上野丘高等学校生徒300人によるショスタコピッチのオラトリオ「森の歌」全曲演奏が行われ多くの人々を驚かせ感動させた。これは特筆に価する全国でも先駆的な取り組みであった。西部合唱コンクール(現在の九州合唱コンクール)において、大分上野丘高等学校音楽部は毎年1位あるいは上位入賞を続けた。

 恵は学校教育以外でも活躍をした。辛島武雄とともにNHK大分放送合唱団を編成して活躍したほか、同25年(1950)、同校卒業生を中心にウィステリアコールを結成、ほどなく混声合唱団となって定期的な演奏会を開催して教会音楽や宗教曲を演奏し手現在に至っている。

 昭和33年(1958)、恵は長年の音楽活動の功労が認められて音楽部門ではじめての大分合同新聞社文化省を受賞した。大分上野丘高等学校のほか、大分舞鶴高等学校、県立芸術短期大学などでも請われて教壇に立ち、多くの教え子に音楽のすばらしさを教え続けた。教員生活を退任してからは自宅でピアノや声楽のレッスン、またウイステリアコールの指導に当たりながら悠々とした音楽生活を楽しんだ。

 16歳で受洗して以来、敬虔な教会生活を送り、大分バプテスト教会では毎日曜日の礼拝にはオルガニストをつとめ、執事役員を歴任して教会の基礎的役割を担った。

 大分バプテスト教会は、恵が昭和21年(1946)に自宅を開放して開拓伝道の場に提供したことから出発した教会である。まさしく授洗者である父が諭した神の使命として大分で忍耐をして・・・・・と諭した言葉を、恵は神の声として誠実に守った。きっと、父・良顕も神の召命に誠実で従順であったことが感知させられる。

 昭和42年(1967)6月16日病に倒れて以後、2年4ヶ月の闘病生活を送ったが、昭和44年(1969)11月24日に大分県立病院で天に召された。71歳であった。

 藤沼恵を語るときに、忘れてはならないこととして30年にわたって恵のマネージャー的役割を担った妹の存在がである。決して表に出ることなく姉・恵を支えたが、残念なことに恵よりも先に昭和37年(1962)1月に死去した。


 友田哲郎さんのホームページに藤沼恵のプロフィール、また関係記事が掲載されている。
出 典 『女性人名』
「日本酒」と合唱を愛して」(友田哲郎さんのホームページ)
日本基督教団姫路教会 http://www2.memenet.or.jp/himejich/annai/rekisi.htm