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 保良 せき  明治26年年(1893)月日〜昭和55年(1980)10月6日
 日本人最初の合衆国公認看護婦。昭和期の社会事業家

<生い立ち> 
 長野県に生まれた。
 コロンビア大学を卒業。滞米12年。
 ニューヨーク市のスラム街で訪問看護婦として働いた。

 大阪女学院、神戸女学院大学、同志社大学、清和大学で教鞭をとった。
 
 昭和6年(1931)朝日新聞大阪社会事業団に入り、訪問婦協会を設立して主事となり、保健婦活動の普及に努力した。

 同23年から25年まで厚生省の医務局看護課の初代課長をつとめた。国家試験制度の制定など、看護婦の地位向上につとめた。

 ひとり息子ののために住み込みの保母を雇い入れ、知人の子女6人とともに自宅で就学前教育を始めた。欧米のナーサリーに倣った形態をとった。これがグレース幼稚園の源流となった。息子の徹は、現在第3代目園長をつとめている。著名な音楽家である。創立者の遺志を継いで、幼児教育に力を注ぎ、独自の個人評価システムを導入して教師の給与水準向上に努めるなど、優れた人材を集めて質を高めた教育を行っている。

 初代園長は、せきの夫の貞四郎(1886−1956)。教育の原点をキリストの「愛」に求めた教育方針で、
 貞四郎は、和歌山県に生まれた。南カリフォルニア大学を経てデンヴァー大学を卒業した。さらにアイリフ神学校を卒業し、メソジスト教会牧師となった。滞米24年。

 千里山グレース幼稚園の第2代目園長となった。「お母さん先生」と、園児や保護者から慕われた。『日本キリスト教保育八十年史』(昭和41年刊)に「千里山学院グレース幼稚園」は、教員数10名、園児数120名と報告されている。質の高い教育を行っていたことが教員数からも伺い知れる。

 保健文化賞(昭和34年)、黄綬褒章(同35年)、叙勲(同40年)を受賞。
 <やりかけ>
出 典 『女性人名』 『保育八十年史』

千里山グレース幼稚園 http://www1.neweb.ne.jp/wb/grace/index.htm