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海老名 リン   嘉永2年(1849)〜明治42年(1909)4月20日
 明治期の教育者。会津女学校、若松幼稚園の創立者。

 リンは、会津若松に、父は会津藩士日向新介、母はまつの二女として生まれた。
 13歳ころから塾に通い裁縫や作法などを身につけた。リンは、17歳で軍事奉行海老名季昌(すえまさ、当時20歳)と結婚した。会津開戦の3年前のことだった。夫・季昌の父海老名李久(すえひさ)は軍事奉行であった。李昌は8歳のころから父が藩の命令で房総半島や蝦夷地の警備に当たっていたので父について各地を回り、学問や武芸に励むtとともに実地の勉強をも行いえた。

 結婚した翌年、夫は京都勤番を命ぜられ、大砲隊の組頭として活躍した。その翌年(慶応3年)、パリ万国博覧会に徳川昭武の随員の一人として渡欧し、約1年間の旅を得て帰国したが、ほどなく京都で戊辰戦争が始まるころだったこともあり、すぐさま京都勤番となり、大手柄を立てた。しかし、敵弾のために右足を負傷したことにより戦線から退き会津に戻り、リンと再会した。つかの間、李昌は、新しく家老になり、北出丸を守る隊長として活躍していた。

 8月23日、戊辰戦争により会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃した日である。その日、20歳のリンは早鐘の合図で城内に入ることになっていたにもかかわらず、実家の父の見舞いに出かけて入城が遅れたために城外に取り残されてしまった。城門を閉ざす責任者が夫であり、その妻が城外に取り残されている由を誰が知りえたであろうか。敵陣が早鐘の合図よりも早かったことによるごった返していた騒ぎの悲劇であった。リンは会津高田に逃れて、1月後に城が敵陣により陥落し、戦争が終わった。

 家老の李昌は戦争責任者として江戸送りとなり、細川家に預けられる身となった。一方、会津藩が斗南移封となったことにより、リンは夫と別れて家族とともに斗南(現在の青森県三戸あたり)に移り住むことになった。収入は途絶え、その日の食事にすら苦労する身となった。養蚕用の桑の葉を売りさばいたり、自分の持ち物や帯を財布などに細工しなおして売りさばいたりして糊口をしのいだ。こうした生活を送っていた明治4年(1871)11月に夫・李昌が蟄居を許されて斗南のリンのもとに戻ってきた。役所に就職したものの仕事が合わなかったのか、一家は斗南を去り、東京へ移住することとなった。

 江戸から東京にかわった。季昌は警視庁に職を得た。その後、夫は山形郡長、福島郡長となった。とくに山形県では三島通庸の信任を厚く受けた。明治15年(1882)、長女モトが誕生した。李昌は、三島通庸が警視庁長官に就任していた関係で警視庁に就職することとなり、明治19年(1886)に上京した。世の中は鹿鳴館時代で西洋風の物まねが氾濫していた。華やかさと裏腹にリンには会津戦争による戦後の会津の人々の苦労が忘れられず、物寂しさと悲しみで心が空虚となり、キリスト教に救いを求めた。

 明治21年(1888)3月、東京霊南坂教会牧師綱島佳吉から受洗した。しかし、夫はキリスト教に猛反対であった。離婚を迫られたこともあったが、信仰を捨てることなく、いよいよ熱心なキリスト教徒として過ごした。当初、西洋文明・文化の一部としてのの感覚で接近したキリスト教であったが、西洋文明を支えているキリスト教の教えのなかに日本の封建制の男尊女卑と異なるものを見出した。男女が神の前にすべて平等である教えはリンにとって大きな関心事であった。幼いころ勉強をしたくても女には学校に行く機会がなかった。女の地位の低さにも泣かされた。そのことを思い起こしながら、教育や社会活動にも目を向けるようになった。東京基督教婦人矯風会で会計や副会頭としても活躍した。

 あるとき、幼稚園を経営している友人から幼稚園経営を委ねられた。このことが動機となって幼児教育に携わる身となった。上京して6年が経った。リンは45歳であった。故郷を思う気持ちが強まり、25年(1892)に帰郷することにした。念願の幼児教育、女子教育に力を郷里のために注ぎたかったのであった。李昌もキリスト教信仰以外は協力的であった。鉄道が整備されていない道のりを徒歩で帰郷した。

 明治26年(1893)4月4日、甲賀町に若松幼稚園を設立させた。園児8名から出発した。続いて7月12日、会津女学校を創立させた。士族の娘として生まれたリンは、武士の男子は日新館で十分な学びができたにもかかわらず女子の教育は害毒として周囲から拒否され家庭におけるしつけ程度だったことを改善したかったのであった。幼稚園の片隅に裁縫の裁ち板と物差し、はさみだけで4名の生徒から出発した女学校だった。

 ともあれ、リンは、福島県の保母第一号であるが、幼稚園も女学校も開設当初から決して経営は楽でなく苦労の連続だった。徐々にリンの教育が周囲に理解されるに至り、高価なオルガンの寄贈を受けることもできた。

 しかし、無理がたたってリンは明治30年(1897)、過労による病を得て床から起きられなくなった。健康を完全に快復させることなく働き続けたことにより肺結核に侵された。転地療養のために京都、徳島そして岡山など気候の良いところを求めて旅をした。が、病は悪くなる一方だった。

 リンには、次のようなエピソードも残されている。
  飯盛山における白虎隊自刃の唯一の生存者である飯沼貞吉の母ふみ(明治30年8月17日、68歳)は辞世の歌を残すにあたり、リンを病室に招き、代筆を頼んだ。
    今さらになげかるゝかなつひにゆく 道とはかねて思ひしれとも

 そうしたなかで、これまでキリスト教に大反対であった夫・李昌がキリスト教を受け入れ受洗までした。それは、リンが海老名家に嫁いで40年間、夫の両親をはじめ家族に対して何ら不満を漏らすことなくよく海老名家に仕えたやさしさに心引かれたのであった。

 リンは明治41年に娘のモト(当時26歳)に任せて退職した。その翌年死去した。満開の桜吹雪の中をキリスト教式で葬儀が執り行われ、遺骨が浄光寺に葬られた。61歳だった。昭和7年になって幼稚園の卒園生らが石像、歌碑を浄光寺の境内に建立した。
 夫・李昌は大正3年(1914)70歳で死去した。

 リンは、生前の明治38年(1905)には海津若松市長から教育の功労に対する感謝状を授与されている。
 女学校は明治42年に県に移管されて福島県立会津女学校として、昭和23年に学制改革により福島県立会津女子高等学校となった。平成14年度からは共学化して葵高等学校と校名を改称して存続している。幼稚園は学校法人若松幼稚園となった。現在、ホームページを開設して110年のあゆみを公開している。

 リンはキリスト教の教えを謙虚に実践することによって周囲にキリスト教の証しを行い、天国に宝を積む地上での働きであった。夫・李昌の生存中に『聖書』のシラ書(集会の書)が旧約聖書のなかに訳出されていたならば、きっと次の聖句をリンが実践したのではないかと思ったかもしれない。
  偉くなればなるほど、自らへりくだれ。 
  そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。(シラ書3:18 新共同訳聖書)
東京霊南坂教会

 明治12年(1879)12月13日、小崎弘道と群羊社の青年心と11名との結合によって新肴町教会と名乗る会衆派教会が東京に初めて設立されたのが発端である。綱島牧師は明治23年〜26年の3年間の牧会。現在の 日本基督教団霊南坂教会である。

綱島佳吉

(つなしまかきち)

医学を学んだ後、同志社英学校に編入学して伝道者となる。
明治23年(1890)1月東京第一基督(霊南坂)教会に移動。

出典 『女性人名』 『聖書新共同訳』
海老名リン(http://www.nadis.co.jp/test/yukari/jinbutsu/erin.html
海老名季昌(http://www.nadis.co.jp/test/yukari/jinbutsu/esuemasa.html
海老名リン伝記(http://www.fks.ed.jp/DB/kyoudo/49.aizuwakamatsu4/index.html
戊辰戦争百話(http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/6618/honmon/43.html
飯沼貞吉(http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/yukari/jinbutsu/isadakichi.html
日本基督教団霊南坂教会http://www.reinanzaka.jp/