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第4章 霊界(本格的な霊の世界)

幽界を経た霊は、いよいよ本格的な霊の世界である「霊界」での生活を始めることになります。幽界では、物質的欲望がすべて実現し、錯覚の喜びを心ゆくまで堪能することができました。しかしその片方で幽界は、そうした欲望が本当に価値のあるものではないことを、イヤというほど思い知らされる世界でもありました。これまで地上人生でひたすら求めてきたもの、今まで最も価値があると思ってきたものが、実はすべて虚しいものであったとの認識ができたとき、初めて物質世界の背後に覆い隠されていた霊的なものに目が向くようになります。これが幽界で、長い浄化期間を経なければならなかった理由です。地上時代から引きずってきた物質的欲望を取り除き、純粋な霊的存在となっていく過程が、幽界での生活の目的だったのです。

このようにして霊的自我に目覚め、霊的意識が支配的になって「霊的新生の時」を迎えることになります。ここにおいて、新たに霊本来の世界である「霊界」への一歩を踏み出すことができるようになります。

一方、そうした大半の人々とは違って、地上時代からすでに霊的人生を歩み、霊的成長をなしてきた少数の人もいます。地上にいながら物質的なものに心が支配されることなく、絶えず「霊主肉従」を保つ努力を重ねてきた人間にとっては、幽界での浄化プロセスは不要となります。そのためこうした人間は、幽界を素通りしてすぐに霊界に入るようになります。そして地上でつくり上げた霊的成長レベルから、霊界での生活を始めるようになるのです。

この章では、本格的な霊的世界である「霊界」が、どのような世界であるのかを見ていくことにします。

(一)霊界の界層――霊的成長レベルによる厳格な住み分け

無数の界層からなる霊界

霊界は、無数の界層から成り立つ広大な世界です。その界層は、低いレベルから高いレベルへと幾層にも連なっています。それらの界層は、私たちがとかく考えるような三次元的な空間的広がりを持った場所ではありません。地上の高層建築のように、上下の界が仕切られているわけではありません。霊界における一つの界層は、すぐ上の界と下の界とが融合してつながっており、それが限りなく続いているのです。界層間には明確な境界線というものはありません。

またこれまで述べてきた幽界と霊界の間もこれと同様で、境界線が引かれているわけではありません。幽界は、霊界の最も低い界層にすぎないのです。

すべての界層が一つの場に存在

ここで大切なことは、物質界も含めて幽界も霊界の各界層も、すべて一つの場に存在しているということです。波動の違いによって、より精妙な霊界上層から最も粗雑な地上世界まで、無数ともいえる存在レベルがあるのです。これらの世界は、お互いにぶつかることなく同一場所に重複して存在しています。すべての世界・界層が、浸透的に重なり合っているのです。幽界も霊界も、私たちが今住んでいる地球という物質世界に重複して存在しています。遠く離れた所に「あの世」があるのではありません。

実はこうしたことは、私たち地上人にもそのまま当てはまります。私たちは霊体と肉体から成り立っていますが、その霊体は霊界に所属し、肉体は物質界に存在しています。さらに私たちは、霊体にある「霊の心」でさまざまな思考活動をしています。つまり私たちは実際に、霊界でいろいろなことを考えながら、肉体は物質世界で活動しているということです。このように私たちは、霊界と地上界という二つの世界に、同時に存在しているのです。

霊的成長度による厳格な住み分け

霊界では、それぞれの霊は、自分の成長レベルに見合った界層に落ち着くようになります。地上では、さまざまな成長レベルの人々が地上という同じ一つの平面世界で生活していましたが、霊界では、各自の霊的成長レベルに応じて別々の世界(界層)に住むようになります。同じ成長レベルの霊たちだけで、同一の界層において生活を営むようになるのです。このように霊界は、霊的成長度によって厳格に住み分けがなされています。

霊界では――「霊的成長の程度(霊格)が住む界層を決定する」ことになります。霊格が高ければ高いほど、善性が強ければ強いほど、親切心が多ければ多いほど、慈愛が深ければ深いほど、利己心が少なければ少ないほど、それだけ高い界層に住むようになるのです。

さて他界した霊は、霊格(霊的成長レベル)に応じて自分が赴く界層が決まりますが、霊界での生活を通して霊的成長をなすようになると、それに見合った別の界層へと上昇していくことになります。それにともない、これまで所属していた界層を自然に離れるようになります。

異なる界層間での交流

異なる界層間の交流について言えば、原則的には上下の界層との間に交流はありません。同一の界層内での交わりがあるだけです。それはちょうど私たち地上人にとって、幽界と地上界との間には交流がなく、もっぱら地上人同士で交わりを持っているのと同じことです。このように霊界では、異なる界層間での交流がないため、厳格に住み分けがなされることになります。

ただし、これには例外があります。それは時として上の界層にいる者が、低い界層の住人の指導のために、わざわざ低い世界へ降りて行くことがあるということです。また地上人の死に際して、霊界人は一時的に波動を下げて、幽界下層にまで出迎えに行くことがあります。さらには高級霊が、幽界下層の地獄的境域に降りて、救済活動に携わることもあります。これらが、高い界層にいる霊が下層に降りて行く例外的ケースです。

しかしその反対のケース、低い界層にいる霊が高い界層に行くようなことは決してありません。なぜなら高い界層を照らし出している光は下層の霊にはあまりにも強過ぎるため、まぶしさを超えて苦しみとなるからです。結局いたたまれなくなって、その界層から逃げ出さざるをえなくなります。明る過ぎる光は、未熟な者にとっては苦痛以外の何ものでもないのです。

(二)地上の愛のゆくえ――霊界での「男女愛」と「家族愛」

霊界での男女の再会と別離

地上で愛し合った男女が他界した場合、もし魂の成長レベルが同じであれば、同じ界層で再び愛し合うようになる可能性があります。その場合、二人の結びつきは地上時代よりも、いっそう強くなります。しかしその後、両者の霊的成長のスピードが異なれば、やがて一方が先に上昇の道を歩み出し、それにともない二人は別々の界層で生活するようになります。

とは言っても、両者の間に本当の愛があれば、上の界層へ行った者が一時的に下に降りて会いに行くこともできます。真の霊的絆があるなら、愛の関係が失われることはありません。「霊的愛」という真実の愛は、界層の違いを超えて二人を結び続けるのです。

霊界では存続できない地上の男女愛(性愛)

男女愛について論じる際に重要な点は、地上の男女愛と霊界のものでは、その内容が全く異なるということです。地上では子孫を残すために男女の肉体的交わりがありますが、霊界ではそうした子供をつくるためのセックスは必要ありません。そのため霊界では、地上のような性愛は存在しなくなるのです。

地上における男女愛(性愛)は肉体本能から発生しているため、往々にして“利己的要素”がともなっています。しかし肉体の存在しない霊界では、男女愛の中にそうした要素は一切含まれません。もし男女愛が、地上時代の肉体本能を土台とした男女関係の延長であるなら、地上でいかに愛し合った男女であっても霊界では一緒に生活することはできません。霊界全体を支配している摂理によって、そのようになるのです。地上の男女愛(性愛)は、激しくなればなるほど“利己性”が強くなります。この男女愛(性愛)の激しさが、しばしば文学のテーマになったり、多くの純粋な男女の憧れにもなってきましたが、そうした愛は霊界では通用しません。地上で一般的に見られる男女愛は「霊的法則」から外れているため、永遠性を持つことができないのです。

地上時代の男女の結婚が、肉体の結びつきだけで霊的な結びつき(霊的愛・純粋な利他愛)がない場合、死とともに二人は離ればなれになり、二度と会うことはなくなります。

霊界における男女関係――霊的な男女愛とは?

利己性のともなった愛は霊界では全く通用しないため、地上の大半の男女愛は存在しなくなります。霊界と地上界との際立った違いの一つが、この男女愛です。霊界通信では、絶えず「地上には本当の男女愛はない」と言っています。

では、本当の男女愛とはどのようなものなのでしょうか。霊界の男女の関係とはどのようなものなのでしょうか。結論を言えば――「霊界における男女愛とは、地上の親友同士の友情関係に近いもの」ということになります。魂と魂の関係、利他愛と利他愛の結びつきが、どこまでもその中心となります。相手の霊的成長を最優先して願う愛が、霊界での男女愛です。地上のような独占的愛(利己的愛)が一切含まれない純粋な霊的愛が、霊界における男女愛なのです。

霊界での男女愛には、地上のように“相手を自分に惹き付けておきたい”といった思いは全くともないません。常に相手の霊的成長に関心が向けられます。そしてそれを成し遂げる本物の「霊的愛(利他的愛・普遍的愛・神への愛)」を求めるのです。霊界では成長するにつれて、地上のような男女差はなくなっていきます。それと同時に、真実の神の愛によって結ばれた両者は、地上では想像もつかなかったような愛の喜びを体験することになります。これが霊界での結婚、魂と魂の融合化です。

地上の家族愛と、霊界での離散

男女愛と同様、地上における「家族愛」は往々にして排他性と利己性をおびています。常に自分たちの家族の利益を第一に求めます。親は自分の子供の幸せだけを願い、自分の子供の利益を優先して求めます。“我が子だけが大切”というのが、地上の大半の親子愛の実態です。地上の家族の結びつきは、いわゆる血のつながり(血縁)であって、どこまでも物質的つながり・物質的関係にすぎません。それは肉体本能による結びつきであって、霊的なものではありません。そのため大半の地上の家族関係は、霊界においては失われることになります。

地上の家族関係の中には、人間として体験すべきあらゆる種類の愛が存在します。親子愛・兄弟愛・夫婦愛という、それぞれ異なった次元の愛を体験することで“人類愛”のリハーサルが可能となります。また他人に愛を与え、他人の愛を受け入れるという愛の基本的訓練が、家族関係の中でなされるようになっています。

しかし、その家族の内容が本能的で利己的なものであるとするなら、せっかくの家族関係は、霊的成長にとって何の役にも立たないことになってしまいます。そうした家族は死後、お互いが幽界で一時的に会うことはあっても、霊界に入るともはや一緒に歩むことはできなくなります。各自がそれぞれ霊的に成長し、霊的愛・利他的愛・普遍的愛を持てるようになったときのみ、霊界での再会が実現することになりますが、現実には死とともに大半の家族はバラバラになってしまいます。

地上で血縁的関係を重視し、それに縛られた生活を送れば送るほど、霊的な家族の絆は薄くなります。地上世界における利己的愛・自己中心的意識は、霊界では必ず拭い去らなくてはならない時を迎えるようになります。この意味で地上における血縁信仰や家信仰には、大いに問題があります。地上では、とかく血筋・血縁を重視する傾向が強いのですが、それは霊界では全く通用しません。霊界では、地上のような親子関係も家族関係も血縁関係も一切存在しません。霊界では「霊的愛・利他的愛」のみが、唯一の人間関係をつくる絆となるのです。

(三)霊界の環境――想像を絶する躍動的な極美の世界

自分の思いで直(ただ)ちに好みのモノや環境をつくり出すことができる、テレパシーでお互いの心が通じ合うことができる、行きたいと思うだけで瞬間的に移動することができる――こうした幽界での特質は、何ひとつ欠けることなくそのまま霊界へ持ち越されるようになります。それどころか、それらのすべてがより完璧に高められて実現することになります。

幽界とは比べものにならない美しさ

幽界で展開していた環境は、地上時代に各自が抱いてきた物質的欲求の反映でした。一人ひとりが思いのままに勝手につくり出した幻の環境でした。

しかし霊界には、もはやそうした地上的欲求を持ち続けている者はいません。霊界の同一界層では、霊的成長が同レベルの者が集まって生活しています。そのため界層の環境は、各自がバラバラにつくり出したものではなく、全体の心が反映した調和のとれた一つの世界となっています。霊界の環境は幽界と比べ、すべてにわたって遥かに美しく輝いています。もちろん霊格の高い霊たちが集まる上の界層に行けば行くほど、霊を取り巻く環境は、美しさと輝きを増していきます。

地上の言葉では表現できない美しさ

そうした霊界の様子を、地上の言語で説明しようとしてもできません。地上の言語はどこまでも物質的なものであり、霊的次元のものではないからです。“言葉”という粗雑な地上の手段では、精密・精妙な霊的なものを説明することはとうてい不可能なのです。地上の言語は、霊的なものを表現する道具としては役に立ちません。それと同時に霊界には、地上にはない美と色彩と音楽が満ちあふれています。地上には霊界のような美しさがないため、それを表現する言葉そのものが存在しないのです。

したがって地上の人間に、霊界の美しさを正しく伝えることは、どうしてもできないということになります。シルバーバーチは次のように述べています。

「私の苦労を察してください。譬(たと)えるものがちゃんとあれば、どんなにか楽でしょうが、地上にはそれがない。虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明できないほどの美しい色を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解してもらえないのです。」

シルバーバーチ霊の語る霊界の美しさ

しかし、そのシルバーバーチに敢えて霊界の様子を語ってもらうことにしましょう。シルバーバーチは霊界の美しさ・素晴らしさを、次のように感動的に述べています。

「あなた方は、まだ霊の世界の喜びを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現れる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。

その楽しさは、あなた方には分かっていただけません。肉体に閉じ込められた者には、美しさの本当の姿を見ることができません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなた方はご存じない。

人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなた方は自分では立派に生きているつもりでしょうが、私たちから見れば、半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。なるほど小さな生命の灯(ともしび)が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことにはいっこうに反応を示さない。霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見い出せないのです。

すでに死んで霊界にいる者の方が、生命の実相についてはるかに多くを知っています。住民の心には真の生きる喜びがみなぎり、適材適所の仕事に忙しく携わり、奉仕の精神にあふれ、互いに己の足らざるところを補い合い、充実感と生命力と喜びと輝きに満ちた世界です。

ここは光と色彩にあふれ、芸術の花咲く世界です。この世界に来て芸術家は、地上で求めていた夢をことごとく実現させることができます。画家も詩人も思いどおりのことができます。本来だれもが持っている天才的才能を、存分に発揮することができます。地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。

インスピレーションなどという仰々しい用語を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。地上の芸術家が、最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚(こうこつ)たる喜悦に浸ったといっても、われわれ霊界の者から見れば、それは実在のかすかなるカゲを見たにすぎません。

金銭の心配がありません。生存競争というものがないのです。弱者がいじめられることもありません。霊界の強者とは、弱者に救いの手を差し伸べる力がある、という意味だからです。失業などというものもありません。スラムもありません。利己主義もありません。宗派も経典もありません。あるのは神の摂理だけです。それがすべてです。

地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端なりとも地上の絵の具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の旋律の一節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で書き表すことはできないでしょう。

そのうち、あなた方もこちらの世界にこられます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。あなた方は地上の大自然の美を見て感嘆されますが、その美しさも、霊の世界の美しさに比べれば至ってお粗末な、色あせた模作程度でしかありません。地上の誰ひとり見たことのないような花があり色彩があります。小鳥もいれば植物もあり、小川もあり山もありますが、どれ一つとっても、地上のそれとは比較にならないほどきれいです。

そのうちあなた方も、その美しさをじっくりと味わえる日がきます。その時、あなた方は霊になっているわけですが、その霊になった時こそ、真の意味で生きているのです。」

以上、シルバーバーチの説明によって、霊界がどれほど素晴らしい世界であるのかを理解していただけたものと思います。このシルバーバーチの言葉の中には、霊界の素晴らしさの他に、芸術観や言語観といった哲学的テーマに関する、実に重要な内容が示唆されています。

霊界から地上を見ると

さて、霊界という素晴らしい世界で長いあいだ過ごしてきた霊が、もし地上に降りてくるとしたら、どのような感じを持つのでしょうか。霊界側では、地上をどのように見ているのでしょうか。これについても、シルバーバーチに語ってもらうことにします。

「物質界に降りてくるのは、正直言ってイヤなのです。楽しいものではありません。光もなく活気もなく、うっとうしくて単調で、生命力に欠けています。譬えてみれば、弾力性のなくなったクッションのような感じで、何もかもがだらしなく感じられます。どこもかしこも陰気でいけません。

したがって当然、生きる喜びにあふれている人はほとんど見当たらず、どこを見渡しても絶望と無関心ばかりです。この地上は本来幸せであるべきところに不幸があり、光があるべきところに暗闇があり、満たされるべき人々が飢えに苦しんでいます。こうした活気がなくどんよりとして重苦しい地上世界に、われわれ霊界の者が合わせようと波長を下げていくことは、小鳥を小さなカゴに閉じ込めることと同じなのです。

用事を済ませて地上から去って行くときの私は、鳥カゴから放たれた小鳥のようで、果てしない宇宙の彼方へ喜び勇んで飛び去って行きます。」

これを読んだ皆さんは、「私たちの住んでいるこの物質界は、そんなにひどい所なのか……」との思いを持たれたに違いありません。しかし多くの霊界通信が同様のことを述べているところから推察すると、これが率直な霊界側の見方であることが分かります。

シルバーバーチの言葉は、“霊界がいかに素晴らしい世界であるのか”ということをよく示しています。私たちが死後に赴く世界が、それほどまでに素晴らしい所であるとするなら、“死”は希望以外の何ものでもないことになります。“死”は恐れるどころか、まさに心から待ち望むべき出来事となるのです。

(四)類魂(グループ・ソウル)としての歩み

霊的家族の形成

霊界入りした霊は、同じ成長レベルの他の霊たち(同じ界層にいる霊たち)と、共同社会をつくるようになります。霊界に入ると“類は類をもって集まる”の譬えのごとく、自動的に惹き合って一体となり、霊的グループを形成するようになるのです。

霊界でこのようにしてつくられたグループは、まさに「霊的家族」というべきもので、きわめて親近性の高い関係を保つようになります。メンバーの霊格(霊的成長度)は言うまでもなく、情緒や嗜好に至るまで類似性・共通性を持っています。これほどの親密さは、地上には決して存在しません。お互いの親密度は、地上時代の親友関係などの比ではなく、どのような夫婦や家族の結びつきも遥かに及びません。まさしくここには、完璧な親和性を持った理想的な人間関係が存在します。

もちろんメンバーの間に、ウソや裏切り、本音とタテマエの区別というようなものは、ひとかけらもありません。地上のような言葉の壁は一切存在せず、お互いが心の中で考えている内容が手に取るように理解できます。自分の思うことは言葉を介さなくても完全に相手に伝わります。初めて霊的家族の仲間入りをした新しい霊は――「これほどまでに自分と似通った者たちがいるのか!」と驚きます。「これほどまでに自分と一心同体の世界があるのか、これほどまでに心が通じ合う者たちがいるのか!」と感嘆するのです。

霊的家族は、さまざまな人種・民族から成り立っています。メンバーの中には地上時代に黄色人だった者もいれば白人だった者、黒人だった者もいます。また地上生活を過ごした時期も一人ひとり異なり、地上時代の職業もさまざまです。ある者はインド人の僧侶であったり、ある者はアメリカ人の技師であったり、イタリア人の画家であったり、中国人の農民であったりします。

霊的家族においては、そうした違いは全く問題にはなりません。「魂の兄弟」という意識以外、何も存在しません。ここには、地上ではいまだに成し遂げられていない完璧な平等社会が実在しています。地上ではなかなか純粋な平等意識を持つことができないため、完全な平等と公平は、常に理想として残されたままになっていました。しかし霊界では、その理想が完璧な形で実現しているのです。

「類魂」という共有意識・共通意識の発生

この霊的グループでは、さらに驚くようなことが起こります。そこにいるメンバーの心が文字どおり一つとなってしまうのです。こうしたことは地上時代には想像することさえできませんでした。地上では、自分は自分、自分の考えは自分のもの、自分の心は自分のもの、というのが常識でした。自分は自分、他人は他人という区別は、地上では当たり前のことでした。時には仲のよい夫婦や男女が“あなたと私は一心同体”と言うことがあっても、それは単なる比喩であって、言葉どおりそれが実現するとは考えられていませんでした。

ところが霊界の霊的家族の中に入ると、その地上の大常識が覆されることになります。霊的家族の中では、「あなたと私は同一の人間」というような奇跡が発生するようになります。「自分の心」が「他人の心」と一つになり、相手そのものになってしまうのです。「心の融合化・心の一体化」という、地上では絶対に考えられなかったような出来事が現実のものとなるのです。

霊界の霊的家族の中では、それぞれの心が融合化・一体化して「大きな意識体(心)」をつくり上げることになります。メンバー全員の意識(心)が一つに融合して「大きな共有意識体・大きな共通意識体」を形成するようになるのです。これを「類魂(グループ・ソウル)」と言います。地上では、自分の意識が他人の意識と融合して一つになるというようなことは決してありませんが、霊界ではそうした奇跡のようなことが実際に起きるのです。霊界の低い界層では二十人くらいの霊が集まって類魂を形成し、高い界層ではその数がずっと多くなって、何百、何千という霊たちが一つの類魂(共有意識体)を形成するようになります。広大な霊界には、こうした類魂が何億、何十億と存在しているのです。

類魂の中では、「他人の心」が私の心と一つになって「私の心」となります。何十人ものメンバーの心が「私の心」となります。「私の心は皆の心、皆の心は私の心」というような状態になるのです。その結果、「私の心」はそれ以前では考えられなかったような「大きな心」となり、「大きな意識体の一部」となるのです。

他の霊の地上体験を共有

全員の心が融合して一つとなる「類魂」の中にあっては、“自分と他人の区別はどうでもいい”といった状態にまで至ります。また実際に、自分と他人の区別さえつかなくなるようなこともあります。こうした場合、類魂仲間の他の霊を指して“私”と言ってもよいことになります。反対に他の霊が、私の名前を用いて“自分”と言っても、間違いではないことになります。

一方、類魂の中では、他の霊の地上人生はその霊のものであると同時に“私”の地上人生にもなります。肉体的には“私”はそれを体験しなかったけれども、「私は間違いなくその地上人生を歩んだ」と言うことができるようになります。地上時代の“私”は東洋人であっても、「私は西洋人でもある」と言うことができるようになるのです。

類魂という共有意識体の中では、他の霊の体験と知識はすべて“私”のものとなります。他の霊の感情も“私”のものとなります。こうなると自分の経験・知識・意識は一気にふくらみ、突如「大きな私」になるのです。自分自身でも驚くような「大きな意識(心)」を持つようになるのです。霊たちは類魂の一員になって初めて、全体としての内面的協調の生活が、いかに素晴らしく、いかに美しいか、しみじみと実感することになります。ここにおいて地上生活では免れえなかった“自己中心性”という地上的傾向から完全に解放されるようになるのです。