二月堂 清々しい香り 2004.2.7

5日、歌舞伎座昼の部を見てきました。

主な配役
良弁大僧正 仁左衛門
渚の方  鴈治郎

「良弁杉由来」(ろうべんすぎのゆらい)のあらすじ
近江の国の志賀の里の領主、水無瀬左近元治は菅原道真の家臣だったが、筑紫へ流罪になりそこで亡くなった道真の後を追って殉死する。

今日は残された妻、渚の方が忘れ形見の光丸をつれて夫の墓参りにきている。渚の方が夫の墓へ詣でた隙に、大きな山鷲が幼い光丸を攫って飛び去ってしまう。腰元から知らせを聞いた渚の方は半狂乱で我が子の行方を追っていく。

さ迷い歩くうちに渚の方は桜が咲き乱れる桜の宮へとたどりつく。我が子を攫われ物狂いとなった様子をみて人々はあわれに思うが、渚の方は正気にかえることなく我が子を探して立ち去る。

光丸が攫われてから30年がたった。奈良の東大寺の良弁大僧正は毎日春日大社へ参拝し、その帰りには二月堂のそばにある杉の大木へ拝礼するのが日課になっていた。

実は良弁大僧正は30年前に、この杉の木の梢で大鷲の餌食になるところを師の僧正に助けられ、その後この寺で育って今では大僧正と崇められる身となったのだ。しかし今でも、いつか仏の加護で別れた両親にあえることを願って毎日参拝を欠かさない。

ところがいつものように杉の木のそばへ来てみると、幹に一枚の張り紙がある。それを読んだ僧正は、だれがこれを張ったのかと近習に尋ねる。

あたりには乞食の老婆しかいないと聞いて、僧正が老婆を連れてくるように命じると、杖にすがったみすぼらしい老婆がやってくる。

問われるままに自分が張り紙をしたと言う老婆に、良弁大僧正は「自分の身に起こったことと同じことが、その紙に書かれていたので驚いてよんだのだ」と話す。

すると老婆は自分の子供が大鷲に攫われた顛末を語り、「良弁大僧正の話を聞いて、もしや自分の子供ではと思って紙をはった」と泣き伏す。

良弁大僧正は老女に深く同情し、「何か身につけさせたものはないのか」と聞くと、「小さな観音像をお守り袋にいれて持たせていた」と語る老婆。

すると良弁僧正は幼い頃から肌身離さずもっていた守り袋を取り出して見せる。その守り袋こそ、菅原道真から拝領した香木を包んでいた錦を、渚の方が縫い直して我が子光丸に持たせた守り袋だった。

こうして30年ぶりにめぐりあった親子は抱き合って喜び、むせび泣く。「我が子にめぐり合えた上は故郷に戻って尼になり、夫の菩提をとむらいたい」と立ち去ろうとする渚の方を、良弁は自分の輿にのせる。

良弁僧正は仏の導きに感謝し、守り袋の観音像を本尊として故郷の志賀の里に寺を建立し、石山寺と名づけようと決め、母を乗せた輿とともに二月堂を後にする。

 

「奈良時代の東大寺の高僧、良弁僧正は二歳の時に鷲に攫われ、春日神社前の杉の木に置かれていたのを助けられたのでその杉を良弁杉と呼ぶようになった」という伝説をもとにした芝居です。

明治20年に初演された浄瑠璃「三拾三所花野山」の一部で、作曲は名人といわれた豊沢団平。歌舞伎初演は明治31年中座。(筋書きより)

二月堂の場の幕が開くとすぐ清々しい芳香が漂ってきました。お香がたかれる場面というと「十種香」と「判官切腹」を思い出しますが、どちらもほんの微かにしか匂わなかった記憶があります。

今回はお寺の場面なのであたり一面良い匂いに包まれ、杉の大木や立派な二月堂の大道具とあいまって、素晴らしい効果をあげていたと思います。仁左衛門も「この役をやる時は、お香で身を清めてから出る」とインタビューで話しています。

鴈治郎の渚の方は志賀の里ではキラキラした簪をつけたまだうら若く美しい奥方、桜の宮狂乱の場ではもうすこし老けた狂女、最後の二月堂では乞食の老婆を見事に演じわけていました。

声も老婆の時は仁左衛門の良弁より低い調子で、親子がひしと抱き合って泣く所では、「ゥオ〜」と言う声が獣じみていましたが、実際に何十年ぶりに別れた肉親にあったら、こんな声が出るのかもしれないなぁと、拉致された方たちのことが思い出されました。

鴈治郎はものよっては、自分の感性で間をいくらでも引き伸ばすようですが、今回は特にそんな事もなく、自然に子を想う親の情が出ていたと思います。

平成12年に同じコンビの二月堂を南座で見たことがあります。仁左衛門はその時よりも、少し痩せてやつれている感じがしましたが、良弁僧正の優しい高潔な人柄にはぴったりです。

前回、鴈治郎が大声で泣きはじめると、ちょっとひいてしまったように見えましたが、今回は鴈治郎と掛け合いで思い切って泣いていたのがかえって良かったです。

母とわかって駆け寄るところが、糸にのって動くのにとても自然で感心しました。

その他には、吉右衛門の六助、時蔵のお園で「毛谷村」。これはとても面白い「毛谷村」でした。

吉右衛門の六助はおおらかで心が広く、人の良さが良く出ていて、それだからこそ殺された老婆を見て「騙された」と知った時の怒りには非常に説得力がありました。

バンと板を踏む音も大変に力強くて、六助が強くて頼もしい男だということがよく理解できます。吉右衛門が和藤内を演じた時、六方がフワッとした感じだったのは、やっぱりどこか具合が悪かったのでしょうか。

ところで六助の鬘が、五郎蔵のようなお祭りつきなのかなと思ったらそうではなくて、あれは朴訥さをあらわすための「ぼっと」というものだと吉右衛門のインタビューに書いてあるのを見つけました。

時蔵のお園は吉右衛門の六助と良いコンビで、戦っている相手が婚約者だったと判った後、きゅうにしおらしくなるところなど前回みたときよりも良かったと思います。

片腕で子供を小脇にかかえたまま二重の上でずっと六助の台詞を聞いている間、黒衣が飛んできて子供の足を支えてはいましたが、あそこはとても大変そうです。

お園が焦がしてしまったお釜を、六助が縁側の手水鉢につけるのですが、最初はお釜の底が赤く焼けていたのに、その後同じお釜を取り上げて、六助が自分とお園の間において平伏する時はもう普通の色だったのは、底に赤いものが貼り付けてあったのかなと面白く思いました。

「市原野のだんまり」はとても珍しい演目で昭和26年以来今回で3回しか演じられていませんが、花道にまで置かれたススキの野原に風情がありました。梅玉が公家、左團次が盗賊、玉太郎が稚児と三人三様の格好で登場する短い一幕です。

玉三郎初役の「茨木」は、老女真柴で出てきたところは背がすらりと高くて、顔もほとんどシワをかいていないのに、頭は真っ白。しかし片腕で舞う姿は美しく、品がありました。この時着ていたの、いろんな色に見えるウロコ模様の着物が印象的でした。

鬼になってからは、ボサボサ眉毛をつけたラフな黛赭隈の顔が、いつもの端正な玉三郎のイメージとあまりに違うので驚きました。(トップページに載せた)六代目菊五郎の茨木童子の顔とも異なる隈取のようです。

幕外の引っ込みでは飛び六方を踏んで入っていくのですが、真女形にとってはやはりやり難いものだろうなと思いました。團十郎の渡辺綱は脇に徹していたようです。

この日の大向こう

最初から数人の方が声を掛けていらっしゃいました。会の方も3人ほど見えていたそうです。中に台詞の間に低く掛ける方がいらして、声質も大きさも程よく極まっていました。

この日は早めに掛ける方が少なくて、ホッとしました。見得が極まらないうちにわれ先にと掛かる声を聞くと、どうも気分がよくありません。しかし気合の入りすぎのような掛け声も時々聞こえました。

玉三郎さんには控えめに声が掛かっていましたが、『茨木」の幕外の引っ込みの見得などで声を掛けて欲しくないと、ご本人が思われることは絶対にないと思います。

玉三郎さんには、本当に気の抜けたゲンナリするような声が掛かる事が多いので、いろいろと憶測も生まれるのでしょうが、もっと無心にあの方の芸を受け止めるべきではないでしょうか。

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