石川五右衛門 漫画家の原作 2009.8.16 W252

10日、新橋演舞場で行われている「石川五右衛門」の夜の部を見てきました。

主な配役
五右衛門 海老蔵
茶々 七之助
秀吉 團十郎
前田利家 市蔵
百地三太夫 猿弥
霧隠才蔵 市川右近

「石川五右衛門」のあらすじ
秀吉が天下を統一したころ、京都の町を荒らしまわっていた盗賊・石川五右衛門は、秀吉の鼻を明かしてやろうと聚楽第に忍びこむことに成功したが捕えられたが、からくも逃げ出す。

五右衛門は忍術を会得しようと伊賀へ向かうが里へ辿りつくなり倒れてしまう。通りかかった霧隠才蔵は五右衛門が所持する立派な銀ぎせるをとりあげて見ていると、息をふきかえした五右衛門は銀ぎせるは母の形見なので返してほしいという。

二人が争っていると伊賀の領主百地三太夫が姿を現し、才蔵から銀ぎせるを受け取り五右衛門に返してやり五右衛門が何者で、何のために伊賀にやってきたかを悟る。鼻っ柱の強い五右衛門を気にいった三太夫は、忍びの術を教えることを承諾する。

はじめは里の子供たちにもかなわなかった五右衛門だが、みるみる技を身につける。秋がすぎ冬雪が積もるころ、三太夫は五右衛門に伊賀の頭目の地位を譲ろうと言い出す。だが五右衛門にはそんな気は毛頭なく、伊賀を出てゆこうとするが、才蔵は伊賀の地を離れるなら自分を倒してから行けという。

三太夫は二人の勝負を許し、五右衛門は才蔵に討ち勝つが、これは三太夫が与えた最後の試練で、三太夫は五右衛門に奥伝の飛行の術を授ける。五右衛門は京へ向かう。

桜が咲き誇る聚楽第では、今は秀吉の側室となった茶々が秀吉に滅ぼされた亡き父浅井長政と母お市の方を偲んでもの思いにふけっている。一人で舞を舞う茶々を、忍び込んだ五右衛門が見つけ、いつしか共に舞始める。

このことをきっかけにいつしか二人は恋仲となり、茶々は五右衛門の子供を身ごもる。寝所にひきこもっている茶々を、制止をふりきって前田利家が見舞う。利家は自分が裏切ったためにお市の方が命を落としたことを悔いていて、茶々がひきこもっているのは、そのためかと案じていたのだ。

利家は侍女から茶々が懐胎したことを聞き、祝いを述べる。だが茶々はもの思いに沈んでいる。そこへ秀吉がやってくる。秀吉は茶々に妊娠は本当のことかと尋ね、確かだと聞くと喜ぶものの、その場に五右衛門が残していった銀ぎせるを見つけると何か思い当たることがある様子を見せる。

しばらくすると秀吉のところへ五右衛門から「南禅寺で対面したい」と書状が届く。秀吉は意を決して南禅寺へ向かう。一人で待ち受ける秀吉の前に五右衛門は現れ、秀吉を打ちのめそうと「茶々の子供は自分の子供だ」と告げる。

しかし秀吉は全く動揺を見せず、「それでも腹の子はわしの血筋だ」と言う。不思議に思う五右衛門に秀吉は驚くべき事実を告げる。五右衛門の母親は秀吉が昔関係をもった宗蘇卿の娘で、五右衛門こそ秀吉の実の子だと言うのだ。

それを知った五右衛門は秀吉のために自分を犠牲にしようと決心する。そして秀吉の野望を象徴する大阪城の天守閣の金の鯱鉾を盗むことを企て、大立ち回りの末にわざと捕えられる。

ついに五右衛門が釜ゆでの刑に処せられる日がくる。五右衛門が煮えたぎる油に身を投げると釜が爆発し、大きな葛籠が飛び出す。秀吉は五右衛門を助けようと、油の中に葛籠を用意していたのだ。父の情けをかみしめながら、五右衛門は葛籠を背負って、宙をとびさって行く。

海老蔵が漫画家の樹林伸に原作を依頼して作られた今回の「石川五右衛門」は、漫画家と歌舞伎との初めての組み合わせと、篠山紀信撮影による海老蔵の素晴らしく雰囲気のあるポスターが話題になり、どんなものを見せてくれるのかと大変楽しみでした。

樹林の原作は数々ある五右衛門のどれとも違う大胆な発想で、二重三重のサプライズを用意している独創的なものでした。

幕が開くとすぐに五右衛門最期の場面「釜ゆでの場」が現れるのは、小説にはよくある現在から過去に戻る手法だと思います。その場が最後で再び出てくる「釜ゆでの場」と区別をつけるためか、人形振りで演じられていました。木村常陸介の新蔵は阿古屋の岩永のようなピクピク動く眉毛をさかんに動かして客席を笑わせていましたが、あんまり動かしすぎてまるで人形ぶりを皮肉ってようにも見えました。このお芝居では義太夫が大事な場面で使われていました。

五右衛門が猿弥の百地三太夫に弟子入りして忍術の修行をする場面で、右近の霧隠才蔵と独立をかけた決闘をしますが、リアルなスピードでの立ち廻りの中に、突然スローモーションの場面が挿入されていましたが伝統的な暗闘を基礎にして考えられたであろうこの場面は自然かつ斬新に感じられました。

季節の移り変わりを背景に仲間を相手に修行する五右衛門が「姿を消した」ということを表すためか、茶色のネットと五右衛門の吹き替えを長々と使っていたのは、もたついていて感心しませんでした。

五右衛門が聚楽第に忍び込み、茶々姫と出あうところは舞踊として表現されていて、これはなかなか素敵でした。演出振付は藤間勘十郎。茶々を演じた七之助は、しっとりとしていて優雅でした。

物語はここからが佳境に入り、茶々は五右衛門の子を宿してしまいます。茶々に子供ができたことをたしかめた秀吉は喜ぶものの、五右衛門が残していった(母の形見の)銀ぎせるを見て何か思い当たる、このあたりの團十郎の秀吉は軽妙でありながら、時の権力者としての貫録、思慮深さを感じさせたしかな存在感があります。

秀吉を南禅寺に呼び出した五右衛門は秀吉に「茶々のお腹の子供は自分の子だ」と告げるのに対し、秀吉が「それでも自分の血筋の子には間違いない、お前こそわが子だから」と言いきる。これを團十郎が言うというのが、ますますぴったりとはまる仰天の展開で、そのユニークなアイデアには感心しました。で

樹林独自の仕掛けが明かされる、この五右衛門と秀吉の対決がこの芝居の一番の見どころ。ここで秀吉が五右衛門の母は宗蘇卿の娘だと明かすのは、宗蘇卿は五右衛門の父親だとする「楼門五三桐」を下じきにしているようで面白く感じられます。

後半は南禅寺の山門の「絶景かな、絶景かな」という名台詞や、本水を使った川の中の金の鯱つかみ、(海老蔵のお面を使って)10人に分身する五右衛門、金色の紙吹雪をきらめかせながら大爆発する大釜、葛籠ぬけの宙のりと、趣向満載の見せ場が矢継ぎ早に続きます。

自分が秀吉の息子だと知った五右衛門は大阪城の金の鯱ほこを盗み、わざと捕えられますが、いざ刑が執行され五右衛門が釜ゆでの釜に飛び込むとそこには脱出用の葛籠が用意されていたというこれまた驚きの結末。

史実の五右衛門は家族20人とともに処刑されたそうで、自分の子供を救おうと片手で油の上に出している浮世絵がありますが、それを逆手にとって五右衛門自身が父親に救われるという結末にしたのかと想像しました。

金の紙吹雪とともに大釜が割れて上手に葛籠が飛び去りると暗転。それからぱっと客席が明るくなると大きな葛籠が花道七三の上空にすでにあって、海老蔵が中からでてくる大詰めは、絢爛豪華で菊百の鬘が海老蔵にとてもよく似合ってほれぼれするような姿です。

釜ゆでにされるという残酷な運命を背負った大泥棒石川五右衛門が、実は父秀吉の情けで助けられるというお話は、なかなか後味が良く、夢の中で金の鯱を追いかける場面も勇壮で面白いし、趣向は満載で、役者の数は少ないけれどそれぞれが役に合っていて、しっとりとした見せ場もあった今回の公演。

にもかかわらずあっという驚きは泡のように一瞬ではじけてしまい、深く印象には残りませんでした。特に前半は空疎という感がいなめません。後半もこれでもかとばかりに趣向をつめこみすぎているように思います。今のままでは一回見れば充分というお芝居。観客にもう一度見たいと思わせるには、さらなる改善が必要だと感じました。

ですが書きものを上演するのには大変な労力を必要とするのに、批判をあびれば二度と上演できないので本当に不利なものだと聞きます。せっかく一から創りあげたのですから、二度三度と上演を重ねるうちに洗いあげて良いものにしていってもらいたいものです。

この日の大向こう

最初のころ声を掛けている方はおひとりだけでした。会の方はお昼はいらしていたそうですが、夜の部はいらっしゃいませんでした。

山門の上に五右衛門が現れ「絶景かな、絶景かな」と名台詞を言う場面では、「まってました」と声が掛かりました。本家の「楼門五三桐」ではかからない声だと思いますが、すでにこの舞台を一度ご覧になって展開をご存じの方が「みなさん、例の名台詞が始まりますよ~」という感じで掛けられたのかな?と思いました。(*^_^*)

演舞場8月演目メモ
「石川五右衛門」―海老蔵、團十郎、七之助、市蔵、右近、猿弥

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