「高野聖」 鏡花の世界 2008.7.19 W222

13日、歌舞伎座夜の部を見てきました。

主な配役
玉三郎
宗朝 海老蔵
富山の薬売り 市蔵
次郎 右近
猟師 男女蔵
百姓 右之助
親仁 歌六

「高野聖」のあらすじ
飛騨越えの山道
飛騨から信濃へと向かう山道で、薬売りが猟師に松本に行くには二つの道のうちどちらへ行けばよいかと尋ねる。すると猟師は水浸しになっている方が本街道なので、そちらを行けと勧め、もう一本の方は旧道で七里ほど近いが本街道を行けと答えて立ち去る。

そこへ後から若い僧、高野聖の宗朝(しゅうちょう)がここを通りかかる。さきほどの茶屋でこの薬売りにからかわれて厭な思いをした宗朝は薬売りが旅のつれになろうというのをやんわりと断る。すると薬売りは「自分は近道の旧道を行くから」と去っていく。

どちらを選ぼうかと思案にくれる宗朝だったが、通りかかった百姓に「去年も行方不明になった巡礼を総出で探したくらいだから絶対に危険な旧道を通ってはいけない」と言われる。それを聞いて、自分が連れになることを断った薬売りの身が心配になった宗朝は旧道へと分け入る。

同じく山中
宗朝が進んだ旧道は蛇や蛭がうじゃうじゃいるうえ、獣の声があちこちから聞こえる恐ろしい道だった。

山中の孤家(ひとつや)
疲れっ切った宗朝は山の中の一軒家にたどりつく。その家には白痴(原作のまま)の男がおり、馬屋には一匹の馬がいた。宗朝が何度も呼んでいると奥から一人の女が姿を現すが、「どうか一夜の宿を貸してほしい」という宗朝の頼みをそっけなく断る。しかし疲労困憊で一歩も歩けない宗朝が馬屋の片隅でもよいからと重ねて頼むと、気を変えてとめてあげましょうと言う。

急にやさしくなった女は汗になっただろうか崖下の淵で身体を洗うようにと宗朝を誘う。そこへやってきた親仁に留守を頼んで二人は出かける。

山中の淵
親仁が呼んでいたように「嬢様」と宗朝が女に呼びかけると、女は喜ぶ。淵に着くと猿や蟇蛙が女の足にまとわりつくが、女はじゃけんに振り払う。この淵の水は蛭にかまれた傷にもよく効くからと女は宗朝の背中を流してやるが、いつのまにかぴったりと寄り添ってくるので、宗朝はあわてて水から上がる。

女が自分が川に落ちて川下に流れていったら村人はなんと言うだろうと問うと、宗朝が「白桃の花だと思うだろう」と答えるのを聞いて女は嬉しそうにほほえむ。

元の孤家
二人が帰ってみると親仁はなぜか、宗朝が元の姿で戻ってきたことに驚く。親仁が明日馬市で売るからと馬を連れていこうとすると、馬がいやがって暴れる。女に道中でだれかに逢わなかったかと尋ねられ宗朝が薬売りのことを話す。女は馬に自分の裸身をかいま見せ、顔をやさしくなでて抱いてやる。すると馬は魔法をかけられたようにおとなしくなって親仁にひかれていく。

夕飯が出されると、女の亭主でさきほどの白痴が自分も食べたいと言うので、しかたなく女は亭主の好物の沢庵をもたせてやる。亭主の名は次郎と言って、淵の水でも治らない体で口をきくこともできないが、ただ謡だけは歌えるのだと女は言う。

白痴の次郎が木曾節を美しく節回しも見事に歌うのを聞いた宗朝は、そんな次郎にやさしい女に心をうたれ涙を流す。それを見て女は宗朝の優しさを感じ取る。その夜ふけ、家のまわりに鳥や獣が集まってくる物音が聞こえるが、納戸に亭主と寝ていた女は「今日はお客様があるよ」と叫ぶのだった。

信濃への山路
翌朝、女に見送られて宗朝は旅だつ。が途中で女への想いがつのり、歩きつづけることができなくなる。そこに通りかかった昨日の親仁が声を掛ける。不憫な女を救いたいという宗朝の言葉に親仁は宗朝の女への執着を見てとり、女の素性を語り始める。

女は近くの医者の娘で、父親は藪医者だったが、娘は癒しの力をもっていて、手を当てるだけで治ると評判になり患者が絶えなかった。ところがこの父親が、まだ子供だった次郎の手術に失敗し、次郎は歩くことができなくなる。そんな次郎を彼の実家へと、娘と奉公していた親仁が二人して送ってきた間に、大雨が降って村は全滅し、生き残ったのは次郎と女と親仁の三人だけになった。

帰る家を失った女はこの家で暮らし始めるが、言い寄ってくる男は数知れず、その男たちと遊んだすえに飽きると女は不思議な魔力で鳥や動物に変えてしまうのだと親仁はいう。昨日売られていった馬があの薬売りだったと聞かされて宗朝は愕然とする。

女への想いを断ち切らせるために親仁がことさらおぞましく語っているのだとわかっていたが、煩悩をはらってくれた親仁に感謝つつ、宗朝は里へと急ぐのだった。

一昨年の七月に引き続いて玉三郎が澤瀉屋一門と、そして今年は海老蔵が加わった舞台。夜の部の「高野聖」は昭和29年に扇雀(現坂田藤十郎)が演じて以来、54年ぶりの上演です。

真っ暗な中で幕があくと、すぐに鏡花の幻想的で怪しい世界にぐんぐんひきこまれました。登場するのは7人だけですが、どの人物も重要で存在感があります。この中で猟師だけはお芝居にしか登場しませんが、原作はお芝居とはちょっと違って中年になり名高い僧となった宗朝が旅先で相宿になった「私」に語ってきかせるという構成になっているためでしょう。

海老蔵の宗朝はいかにも清々しい若い僧で、ひかえめで立派すぎないのが良かったと思います。宗朝がどうして薬売りの後を追って、危険な旧道をとったかというと、「唯挨拶をしたばかりの男ならうっちゃっておいただろうが、心善からぬ人と思ったから、そのままに見捨てるのが、わざとするようで気が責めてならなかったから」ということ。

薬売りの市蔵は、俗っぽくて考えが浅く軽い男という雰囲気をうまくつかんでいました。

旧道を歩く宗朝の様子は廻り舞台を廻しながら進むことで立体的に表され、黒衣が遣う数知れない大小の蛇がのたくる有様はぞっとするような怪奇な雰囲気を十分にだしていました。

散々な目にあいながらたどりついた孤家(ひとつや)には、白痴の若者・次郎が美しい女とともに住んでいるというのは、まさに鏡花独特の世界。口もきけないこの難しい役を演じた右近はを、その純粋さがぴったり。次郎が歌う「木曾節」はつやのある美しい声で、終わると盛大な拍手がわき起こりました。ここへきてようやく、この役を右近が演じたわけがわかったという次第です。

「女」を演じた玉三郎は、このジャンルの鏡花作品のもつ不思議な魅力を存分に表現していて、現在他の役者では出すことができない味だろうと思いました。おぞましいものでありながら、同時にやさしさと清らかさをもった女。

女が宗朝を淵へと案内するところでは、上手から一階席に降りて通路をまわり、花道へ出ていましたが、その間もあたりは暗くわずかな青い光の中で差し金で遣う大きなムササビや蝙蝠が二人のまわりを飛び回るという幻想的な演出。

海老蔵の宗朝は次郎の歌を聞きながら本当に涙を流し、誇張のない台詞廻しと無駄な動きのない立ち居振る舞いが若い僧の清い心を表現していたと思います。原作を読むと女に見送られて出発した宗朝は、女の元へ戻って一緒に暮らしたいという想いが耐えがたくなり、歩くことができなくなって座り込んでしまうわけですが、今回はそういう煩悩はほとんど表現されていなかったように思います。

何もかも知っていて女のために尽くしている親仁を演じた歌六がまたはまり役で、最後に宗朝にことの真相を語って聞かせる長い長いセリフには深い思いやりが感じられ、ずしりとした重みがあり立派でした。

いつもの歌舞伎とは全く違いますが、鏡花独特の雰囲気を具現化した素晴らしい舞台だったと思います4。

夜の部の最初は、一昨年と同じメンバーで「夜叉ケ池」。ただ前回、夜叉ケ池の主・白雪姫と鐘つきの妻・百合の二役を春猿が演じたのを、今回は百合を春猿、白雪姫を笑三郎とわけただけが違いました。一人二役だと、幻想的なお芝居だけにこれには何か意味があるのだろうかと考えてしまいましたので、別々なほうがすっきりとしていて納得がいきました。

春猿の百合には大正時代の女性の優美さが感じられ、おどろくほど美しいと思いましたが、特に前半に裏声を多用しすぎるのが気になりました。段治郎の晃は前半の難しい台詞に感情をこめすぎたせいか声がくぐもって前に出なかったのが残念でしたが、どうにかして百合を助けようとするところはこの人物の高潔なところが表現されていて良かったと思いました。

学円の右近は最初に出てくるところの口跡が明瞭闊達でとてもよかったと思います。後半の必死になって百合を救おうとする場面ではちょっともちゃつきましたが。

白雪姫の笑三郎は情熱的で凛としたお姫様にぴったりで、妖怪たちを統べる力強さが感じられました。またなんとなくユーモラスな万年姥の吉弥がはまり役。それに加え二枚目の薪車がこれ以上ないほど嫌味な穴隈鉱蔵を思い切り良く演じていたのが印象に残りました。

この日の大向こう

今月夜の部は鏡花の幻想的なお芝居が並んだため、演者の方から大向こうは掛けないでほしいという要望があったそうで、会の方はどなたもいらしていませんでした。

一階席からお二人ほど歌六さんに二三回声を掛けていらしただけでした。

7月歌舞伎座夜の部演目メモ
「夜叉ケ池」 段治郎、春猿、右近(市川)、薪車、笑三郎、猿弥、吉弥
「高野聖」 玉三郎、海老蔵、右近(尾上)、市蔵、男女蔵、歌六

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