天守物語 完成された美 2006.7.22

16日と18日、歌舞伎座夜の部を見てきました。

主な配役
富姫 玉三郎
姫川図書之助 海老蔵
亀姫 春猿
舌長姥 門之助
朱の盤坊 右近
小田原修理 薪車
奥女中・薄 吉弥
工人・桃六 猿弥

「天守物語」のあらすじ
ここは武田播磨守の居城、白鷺城の天守閣。巨大な獅子頭がすえてある最上階には、魔界の者たちが住んでいる。今宵は天守夫人・富姫の親しい友・猪苗代の城の亀姫がやってくるというので、腰元たちは白露を釣竿の先につけ秋の草花を釣っているところだ。

するとにわか雨が降ってきて、その中を案山子から借りた蓑と傘をつけて富姫が帰ってくる。この城の播磨守が今日は鷹狩りに出ていて騒がしいので亀姫に失礼だと思い、夜叉ケ池の雪姫に雨を降らせてもらうように頼みにいっていたというのだ。

そうしているうちに亀姫の一行が到着し、富姫は歓待する。亀姫は手土産の男の生首を披露する。それはこの白鷺城の城主・播磨守の兄弟で、猪苗代亀ヶ城の城主・武田門之介の首だった。

富姫は首を獅子頭におそなえし、亀姫への土産にと用意した播磨守秘蔵の先祖伝来の兜を取り出すが、亀姫の土産にくらべては見劣りがするので、かわりのものを捜すと言う。

手鞠で心行くまで遊んだ亀姫がそろそろ帰ろうとするところへ、城主・播磨守が鷹狩りから戻ってくる。亀姫が播磨守自慢の白鷹をすっかり気に入ったのをみて、富姫は白鷺に化けて羽ばたいてみせ、それに釣られて飛んで来た白鷹を捕らえて亀姫に進呈する。

日はとっぷりと暮れ、富姫が一人獅子頭の前に佇んでいると、灯りを手にもった一人の若者が現れる。その若者は播磨守の鷹匠・姫川図書之助(ずしょのすけ)となのり、白鷹を逃がしたために切腹させられるところ、だれも恐れて登ろうとしない天守に白鷹の行方を捜しにいけば一命を助けようといわれたと語る。

富姫は心がまっすぐで凛々しい図書之助を一目で気に入ったが、天守へ登ってくるものは生きては返さない掟なので、二度とここへ来てはいけないと諭して帰す。

しかし三階まで降りた図書之助は雪洞の灯りを大蝙蝠に消されてしまい、真っ暗な中で階段を踏み外しては武士として面目がたたないと考え、引き返して富姫に火をわけてもらえるように頼む。

富姫は図書之助が自分のために困難な目にあっているのを不憫に思い、理不尽な主従関係にしばられる彼を帰したくないと思う。富姫の気持ちを聞いた図書之助は迷うが、やはり地上に戻ることを選ぶ。富姫は自分に出会った証拠として、さきほどの播磨守秘蔵の兜を渡す。

しかし播磨守の元へ兜をもって帰った図書之助は、兜をぬすんだという疑いをかけられ殺されそうになる。

大勢に取り囲まれた図書之助は天守に逃げこみ、無実の罪で朋輩に殺されるくらいなら、天守に登った罪で姫に手にかかって死にたいと三度天守に現れる。富姫は図書之助に共に生きようと言い、獅子頭の母衣の中へ二人して隠れる。

やってきた播磨守の家来小田原修理は獅子頭をみつけ、この獅子頭にまるわる伝説を他の者たちに語って聞かせる。

二代前の城主が鷹狩りの途中で見初めた美女が、人妻だったので城主の命に従わず舌をかんで自害した。その時この獅子頭を見ながら、「自分にこの獅子頭ほどの力があればこんな目には会わなかっただろう」と言い、獅子頭は女の血をなめて涙を流したとうわさされた。その後三年領地が大洪水に見舞われたのは、この獅子頭のたたりだと恐れられたので、領主はこの獅子頭を天守におさめたのだ。

武士たちはおそるおそる獅子頭をとり囲むと、急に獅子頭が動き出し、武士を蹴散らす。だが目を槍でつかれると、中にいた富姫と図書之助の目も見えなくなる。富姫が亀姫の土産の生首を投げ出すと、武士たちはそれを城主の首だと思い込み、逃げ出す。

目のみえなくなった二人は固く抱き合い、富姫は「千度百度に唯一度、たった一度の恋だというのに」と嘆き悲しみ、自分は逃げることができても図書之助を助けることが出来ないと悔しがる。二人はもはやこれまでと死ぬ覚悟をきめる。

するとどこからか、この獅子頭を彫った桃六が現れ、鑿を獅子の金の両目にあてると獅子の目が元通りに開き、二人の目も再び見えるようになる。桃六は睦まじげに見つめあう二人の様子を楽しそうに眺め、騒がしい下界にむかって「お祭礼だと思って騒げ」と言い放ち、高笑いするのだった。

1917年(大正6年)に発表された泉鏡花作「天守物語」は、1951年(昭和26年)にようやく新派公演で初演されました。

富姫を演じた玉三郎も図書之助を演じた海老蔵も、これ以上はない最高の配役で、うっとりとするほど美しい鏡花の世界の魅力をあますところなく具現化してみせてくれました。

昭和52年以来今回が10回目で、歌舞伎だけでなく、普通の演劇でも富姫役を演じてきた玉三郎は、たおやかな姿やこの世のものとは思えないほど優雅な立ち居振る舞いはいうまでもなく、硬軟自由自在の台詞まわしで、まるで詩を朗誦しているかのように、鮮やかなイメージを次々と紡ぎだしていました。

しかしながら16日も少し高い声がかすれていて、18日に幕見で見た時は一人だけよく聞こえなかったので、もしかしたら風邪気味だったのかもしれません。

また玉三郎が自前で新調したというギャラリー泰三作黒地に金の横縞に花の薬玉模様の打掛けは、富姫の怪しくも美しく華やかな雰囲気を最高に引き立てていて、写真でみるよりも実物ははるかに素晴らしかったです。

一方今回で3度目となる海老蔵は快く響く声で、若く凛々しい図書之助を見事に演じていました。台詞まわしに独特のくせがあるのですが、なんと言ってもその横顔の端正なことといったら比類がなく、盲目になった富姫と図書之助が「千歳百歳に唯一度、立った一度の恋だったのに」と嘆きあう場面では、完璧につりあいの取れた美しい二人の姿から目がはなせず、すっかり魅了されてしまいました。

春猿の亀姫は可愛らしく綺麗でおっとりとした雰囲気も色っぽさもあって感心しましたが、裏声を使いすぎるのが少し気になりました。門之助の舌長姥は、奇怪でいながらユーモラスなところを上手く演じ、右近の元気一杯の朱の盤坊も持ち味を存分に発揮していて良かったです。

薄を演じた吉弥は声がちょっと重かったですが存在感があり、工人・桃六の猿弥も出番は短いですがこの人が出てこないとハッピーエンドにならない重要な役どころを好演していました。

舞台装置は基本的に一つだけで、正面に見える空の色や雲の様子が刻々と変化していく有様が物語の世界を大きく表現していました。音楽はハープやお琴など雰囲気のある音楽が録音されて使われていたようでした。

ことに幕明きの女童たちが童唄を歌いながら遊び、天守から侍女たちが釣糸をたらして、白露をえさに秋の草花を摘んでいるという光景は一瞬で見るものを異次元へと誘う、忘れられない場面でした。

その前に上演された「山吹」は、三島由紀夫が絶賛したという戯曲ですが、かなり変わった猟奇的といった雰囲気のお芝居でした。

―伊豆修善寺の町外れの酒屋の前で、人形使の辺栗藤次が大きな静御前の人形をかたわらに置いて、したたか酒を飲んでいる。そこへ一人の女(縫子)が通りかかり、池に大きな鯉が死んでいるのを見つける。

降りだした雨に藤次は酒屋の中へと入っていくが、縫子は静の人形が濡れるのを気に掛けて人形に傘をさしかけ見入っていると、後からやってきた画家の島津正が人形をほめ、人形使に遣わせたいものだと声を掛ける。

すると縫子は「自分は島津をかねてから知っていて、昨日同宿になった時、島津の妻と偽って宿に泊まった」と思いがけないことを話しだす。これを聞いて驚く島津に、縫子は自分は今、その池に浮かんでいる死んだ鯉と同じ身の上だと言い、島津にどうか自分を一緒に連れて行って欲しいと頼む。

島津がそれを断ると、縫子はその鯉と同じになるつもりだというので、島津はそれを諌めて立ち去る。そこに現れた藤次は何を思ってか、その腐った鯉を拾って持っていた袋に入れ肩からかける。ふいに縫子は藤次に、「自分は何も望みがなくなったので、お前の望みをなんなりと一つだけかなえてあげよう」と申し出る。

藤次は縄を蛇のように遣って縫子を脅かしてみるが、縫子の気持ちがかわらないのを知って、縫子を木立の中へといざなう。それを見ていた馬士は、その光景の気味の悪さにぞっとする。

島津は山中をウィスキーを飲みながら散策しているが、縫子が縄でしばった藤次をつれてくる異様な光景を見て物陰に隠れる。

藤次は自ら縄をとき、縫子に一生のお願いだから、自分を打って打って打ちのめして欲しいと懇願する。縫子がためらいながら傘で藤次を打つと、それでは物足りないと着物をぬぎ、傘を骨と柄だけにして憎いものを思いっきり打つようにやれと頼む。言われたようにするうち、縫子は思わず我を忘れて、夢中になって藤次を打ち据える。

それを見ていた島津は縫子をとめに入る。我に返った縫子は恥かしさに身を縮める。すると藤次は、自分は昔美しい人をひどい目にあわせ、そのためにその人は血をながして死に、それ以来、美しい人に死ぬほど打ちのめして欲しいと願っていたが、果たせなかったその望みが今日ようやくかなったのだと話す。

それを聞いた縫子は、自分は島津が昔よく通ってきた日本橋の料理屋の娘で、ひそかに島津を慕っていたが、そんなこととは露知らない島津が結婚したあと落胆のあまり病気になり、その後貧乏華族に嫁に行ったが相手の目的は縫子の財産だけだったので姑や小姑にいびられつづけ、とうとう家出してきたのだと告白する。

死んだ鯉も同然の自分だが藤次が感謝しあがめてくれるので、自分は藤次について行こうと思うと語る縫子に驚愕した島津は、なんとかならないものかと引き止める。縫子は島津が自分を宿に連れて帰ってくれるなら思いとどまるというが、島津にはその決心ができない。

縫子は藤次に死んだ鯉を出すように言い、藤次と暮らすからにはこんなものでも食べなくてはと腐った魚をさばいて一口食べ、藤次も同じように食べる。これを見て縫子の決意の固いのをさとった島津は、通りかかった稚児に三々九度の酌を頼み、二人に祝言をあげさせる。

降ってきた雨に、自分の傘をさしだす島津だが、縫子はそれを捨て、裸足になって片褄を上げ藤次の手をとって去っていく。島津はいったんは何もかも捨てて縫子を呼び戻そうかと迷うが、しょせん自分には仕事が捨てられないとあきらめるのだった。

幻想的な他の三作品とは、あきらかに肌合いの違う作品で、縫子がどういうわけで自暴自棄になっているのかが、最後にならないとわからないので、筋を知らないで見るとかなり難解に感じられると思います。しかし印象深いお芝居で、鏡花の作品にはこんなおどろおどろしい一面もあるのかと衝撃を受けました。

縫子を演じた笑三郎が縫子を熱演しましたが、そのせいか生々しく感じました。藤次を演じた歌六は独特のあくの強さが合っていました。段治郎の演じた画家・島津は、「魔界かな、これは」というほどの異常な世界に直面する常識人で特に最後の台詞が難しい役ではありますが、若く勢いがよすぎて、もう少しどっしりとしたところがあったらよかったなと思います。

「おれの身も、おれの名も棄てようか。」に続く「いや、仕事がある」というこのお芝居を締めくくる島津の台詞は、陳腐と受け取られやすく、16日には笑いが起こって気の毒でした。しかし18日には、島津の固い意志の裏打ちが感じられ、そうなるとだれも笑う人がいなかったのは、実に正直な反応だなと思いました。

原作では縫子がぱっと着物の裾をめくると鮮やかな緋の長襦袢があらわれるのですが、笑三郎は地味な色の襦袢を着ていたようで、ここはやはり緋色の方がよかったのではと思います。タイトルが「山吹」なのに、舞台で目立っていたのは桜の花だったのは不思議でした。

この日の大向こう

「山吹」では全く声はかかりませんでしたが、幕切に縫子が藤次の手をとって花道を引っ込むところで、普通だったら「澤瀉屋」と声が掛かっても全くおかしくないほど、気合の入った引っ込みだったのにとちょっと残念に思いました。

「天守物語」では玉三郎さんの出と、幕切れの大拍手の中で「大和屋」と掛かっていました。18日にもう一度見た時は、声を掛ける方はいらっしゃいませんでした。

歌舞伎座夜の部の演目メモ
●「山吹」 笑三郎、歌六、段治郎、
●「天守物語」 玉三郎、海老蔵、春猿、右近、門之助、吉弥、猿弥

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