HALF AND HALF JOURNAL
HHJ
とろんぷ・るいゆ 1986.6.30 vol.6 -1-
☆大館から長木川に沿って北東に車で約20分、山の斜面を通る完成間もない高速道路の下をくぐると、小坂の街に着く。途中何度か黒い道路に水の蜃気楼が浮かんだ。アスファルトは石油から造られるので、はるかな異国で砂漠を懐かしんでも不思議はない。 康楽館は、街の中央を流れる川のほとりにある。橋の手前を左に折れると、アカシアの並木が遊歩道を蔽っている。ウグイス色の濃淡に塗り分けられた洋風の木造建築が、それに面して立ち、鉱山町らしくない閑静な落ち着いた趣がある。しかし、まだ新しく、模造品めいた感触が消えない。左側にある、康楽館と同じ配色の小さな6角形の建物の中には、テレフォン・カードが使える最新式の緑色の公衆電話が据えられていた。明治の洋風建築とは対照的なデザインの粗悪さ。 事務所でもらったパンフレットには、康楽館は明治43年(1910)に同和鉱業の前身である藤田組により鉱山の厚生施設として建てられたとある。内部は今改築中で、伝統を生かした舞台と畳敷きの観客席しかのぞくことができない。舞台の奥が柱廊のような変わった設計で、上に欄干が付いている。たぶん劇に使われたのだろう。歌舞伎座と違うのはそういう近代的な配慮であり、映画の設備も整っている。しかし、この現存する日本最古の芝居小屋は、歌舞伎が催されただけあって、回り舞台や迫り上がり、奈落、それに花道を備えた本格的な劇場である。2階に通じる擦り減った階段が往時の享楽を物語っている。 小坂は、鉱山のおかげでさまざまな先端技術と新しい文化を授かった。水力発電、電信電話、上水道、鉄道、病院などの施設はすべて、金・銀・銅の産出を誇る鉱山が自前で造ったという。《まさに明治の文化が凝縮して存在していた》パンフレットは語る。そして、《今を生きる人々にもう一度夢を運ぶために》街は康楽館の復興に将来を賭けている。高速道路が開通して小坂インターチェンジ完成すれば、十和田湖への観光ルートとして軽視できない価値を帯びるだろう。ぼくは、正面を飾る《はずむ小坂》というキャッチフレーズ入りの幟(のぼり)の列に地元の期待感を見た。もっとも古い写真には、しゃれた公衆電話ボックスもノスタルジックな街灯もない。花の散ったアカシアの並木で、ぼくの心によみがえるのは大館のある婦人の言葉だった。 彼女は出版社の経営者の妻なのだが、数年前はじめて会ったとき、大館の人はがさつだ、と評した。小坂の人々の方が鉱山町でありながら神経が細やかだという。意外に思って話を続けると、故郷の想い出になった。 ―家が文房具屋だったのよ。収容所から解放された黒人が来て、あたしは初めて、黒人の手がきれいなピンク色で、自分たちと同じなんだな、と分かったの。 |
-2- ―何か買ったんですか? ―ガムをくれたわ。
ぼくは捕虜収容所があった大谷地へ車を走らせた。円高で不況に追いうちをかけられた鉱山の衰退ぶりを反映して、街路に白けた空虚感が漂っている。商店街に迫り出した高台に昇ると、少し不安になって、子ども連れの主婦に道を尋ねた。 ―今は誰も住んでませんよ。 鉱山の奥だと聞いて、ぼくは引き返した。昔は、あんな荒漠とした土地にも人々が住んでいたと知って、捕虜収容所の位置に疑問が湧いた。小坂では寛大だったのだろうか? ともあれ、ぼくは前に見物したことのあるルネサンス風の鉱山事務所を通りすぎて、巨大な機械設備の群れの中に入った。100メートルあまりの赤茶けた煉瓦造りの精練所から先は、機械の唸りと灰色の煙がなければ、廃墟に近い風景だ。反対側には荒涼とした廃棄物の堆積台地が続き、そのエンジ色と黒の滑らかな表面と二列に並ぶ電柱が幻想的に映る。舗装が切れた行き止まりで、ぼくは車を止めて、通りすがりの工夫に元山小学校の跡を聞いた。 ―捕虜収容所があったところです。 ―あそこの、とヘルメット姿の男が手で示した。事務所が立ってるところだ。 巨大にそびえ立つ煙突のわき、小高い丘の上に高圧ガスを製造する会社の平屋建ての事務所があった。桜の黒い老木が周りを囲んで、出入口に進入禁止の標識が立っている。その横に、元山小学校跡という石碑がある。ここが、太平洋戦争で捕虜になったアメリカ、イギリス、オーストラリアの軍人約350人が収容されていたところだった… 小坂町史によれば、彼らは鉱山冶金課と工作課に勤めさせられたという。 佐藤正三 談 イギリス人の大尉が隊長になっていた。50人ないし60人は私も使った。機械屋だという者には図面を描かせたりもした。彼らは体力を消耗しないような働き方であった。栄養を補えない当時としてはやむをえないことだった。また、火を扱う場所では圧縮釜の形式の弁当に水を入れ、くたくたにして煮て食っていた。 これらは俘虜(捕虜)の待遇問題で戦後収容所責任者として数名の者がC級軍事軍事裁判を受け、鉱山従業員には重労働3年の刑を受けた者がいる。[第2章 近代] |
▼ SELECTION 6 Kossaka river
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花岡は、小坂と同じように同和鉄道で大館と結ばれていた。去年、その線が廃止されて駅舎も線路も消えた。駅の近くにあった厚生施設の共楽館はすでに7,8年前に取り壊されて、記念碑と体育館があるだけだ。昭和20年(1945)そこで6月30日の夜収容所を脱走した中国人約800人の拷問が行なわれて、約260人が虐殺された。強制連行で虐待され続けた中国人たちは逃げる体力もほとんどなく、山狩りであっけなく捕まったのだった。治安確保のために警防団などの住民も参加した。反乱の夜、大館には異状を告げるサイレンが鳴り響いたという。 戦後、中国人11名が殺人罪で秋田地方裁判所で裁かれた。アメリカは逆に横浜第8軍事法廷に捕虜虐待等で所轄警察署長、寮長、鹿島組出張所長、その他の補導員らを起訴した。補導員2名、寮長、絞首刑。出張所長、終身刑。警察署長、20年の懲役。巡査1名、20年の懲役。後に全員が減刑されて仮釈放となる。A級戦犯でさえ7名の死刑判決に留まったのだから、事件の深刻さは容易にうなづかれる。今は慰霊祭が催され、それを機に中国との交流が深まっている。歴史を忘れないということは、過去の罪悪を裁くことではない。 花岡は街そのものが荒廃してしまった。小坂は《もう一度夢を》と言うことができる。花岡と同じく強制連行の中国人と朝鮮人、それにアメリカ軍人などを使っていたものの、人間の尊厳を侵すような暗い事件は一つもなかった。事件がなければ、良心の呵責も感じないで康楽館を再び主役につかせることができる。今日の午後、例の夫人に久しぶりに会うと、彼女はうれしそうに話した。 ―あたしは、女学生のころ、あそこで芝居をしたのよ。 ―そうですか、とぼくは奇妙な偶然に驚いた。行ってみたけれど、捕虜収容所がどこなのか、分からなくなってしまって。小坂町史の運動会場というのは運動場とは違うのでしょうか? 当然のことだが、捕虜収容所が建てられた運動会場は小学校の校庭とは全然関係がなかった。だが、夫人の記憶も曖昧だった。 ―それにしても、共楽館で拷問が行なわれた同じ7月1日に康楽館が華々しく再開されるなんて、なかなかユーモアがあります、ねえ、とぼくは言わなかった。
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一部省略 参考資料---聞き書き花岡事件; 野添憲治 |
▼ SELECTION 9 Shimonai river
花岡事件GHQ資料展より デ・バーグ大尉の調査報告書 1998年6月 大館労働福祉会館 冒頭:〈この中国人捕虜収容所は、私が近くの連合国軍捕虜収容所の調査に行った際に発見した。〉[部分公開] コピー: アメリカ公文書館資料。国会図書館に保存されている。 連合大館・花岡平和記念会の谷地田恒夫の話では、だまされて行き先も知らされずに強制連行されて来た中国人を捕虜とか俘虜と呼ぶのは正しくない、ということである。 写真: アメリカ公文書館資料 強制連行された中国人たちが従事した花岡川(大森川)の河川切り替え工事現場 これに関する簡単な記事 |
▼ SELECTION 26 Omori
river
HHJ 1993.7.12 VOL.19
MODE ACTUEL MODE ACTUELLE 特派員報告 続・6月の最後の夜 耿諄さんの《新鮮な認識》 と反抗の歴史的意義 ☆1945年6月の最後の夜、鉱山の町花岡で、強制的に働かされていた中国人約800人が蜂起して収容所から逃亡。まもなく全員捕まり、厚生娯楽施設共楽館で拷問を受けて約260人が死亡した。反抗を指揮した耿諄(コージュン)大隊長以下11名が秋田地方裁判所で裁かれたが、戦後進駐して来たアメリカ軍に発覚して横浜第8軍事裁判所で日本側関係者が捕虜虐待等で裁かれた… 何年か前に、その耿諄さんが再び花岡を訪れた。大館の中央公民館で彼の話を聞く会が開かれたので、ぼくはそんな努力をしたくない人間だが、あえて絶好の横会を捕らえて会いに行った。どこにでもいそうな、痩せた小柄な老人だった。しかし、中国で英雄視されているだけあって、眼光が鋭い。彼は、八路軍(共産党の軍隊)の兵士らしく《暴動》を憎悪に支えられた単なる復讐にしないよう理性的な政治的反抗に変えた人物だ、つまり、敵国の内部での反抗が中国情勢および戦争全体に与える意義を計算していたのだ。ただ逃亡して中国に帰ろうという《素朴さ》はない。衰弱した体で逃げるのが精一杯だったとはいえ、政治的目的は果たしたと言えるのではないか、とぼくは思う。彼が工作員だったとしたら、他の収容所のイギリス・オランダ・アメリカの捕虜達と協力して積極的な反乱を計画することができたに違いない。ともあれ、恐るべき八路軍の兵士と〈労働契約を結んで〉金属資源の供給基地に連れて来るとは、愚かな敵国ではないか? 耿諄さんは、戦後日本の経済発展によほど驚かされたようで、しきりに〈生活水準〉という言葉を使った。彼には、強制連行された貨車の中から覗いた日本という侵略国の本土の貧窮な様相が記憶にあった。その時、それが人民の実態はどちらも等しいと認識させたのだった。そういう経験的な認識がなかったら、《暴動》にはヒューマニズムの色彩が欠けて歴史的意義も変わったに違いない。 歴史的意義があるとは、 1 敵国の内部での反抗の意義を自覚していたこと。 2 一般民衆を巻き添えにしなかったこと。 後者は当然なことかもしれないが、捕虜達が飢蛾に喘いでいたことと《暴動》によって大館地方の人々が逆に恐怖の収容所に捕らえられたという危機的状況を考えれば、賞賛に値する倫理的行動である。実際、耿諄さんは人間の尊厳を重んじる人だ。 帰国してから耿諄さん等関係者は、鹿島建設に対して賠償と記念館の建設を求めた。賠償問題はともかく、共楽館を保存しなかった日本という国家の無責任さに憤りを感じたぼくとしては、花岡事件記念館の建設が歴史の論理的な結末であると思う。歴史の論理と言っても、人間がそれに適合する謙虚さがなければ、結末は決して快い浄化をもたらさない。街の中に漂う自動車の排気ガスのように、いつまでも陰に籠った不愉快な《現実》、花岡事件という目に見えない収容所であり続けるだろう。 記念館建設は、表現として見れば、いろんな意味がある。 1 歴史への隷属を止めて、歴史を主体的に認識することができる。 2 被害者と加害者の区別、それぞれの歴史的位置を公に明確にする。 3 国際関係全般において、自由と平和と民主主義の意思の証明になる。 隷属とは、歴史への無関心、細かな事実に囚われることである。 これは文章の論理的な結末だな、と思う 長木川上流社会特派員 ダレナニ ☆ これに関する簡単な記事 人間の尊厳について |
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