仮面について

米代川ドキュメンタリー撮影レポート 1993

Report 3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


HHJ 1111 VOL.23

白い泡の謎                                       

瀬ノ沢川の水源から下ると、ダムの手前、山の斜面に鉱山跡が見える。4日の朝、花輪鉱山事務所に電話すると、やっと職員が出て、あれはフロクラ鉱山と言い、別の会社の経営だったと質問に答えてくれた。

―フロクラって、どういう漢字を書くんですか?

―さあ。

―何を採っていたんですか?

―金と銀だと思いますね。                

 後で調べると、不狼倉銅山とあった。江戸時代から続いていた鉱山だ。

 ぼくは、廃坑の下の沢に浮かぶ白い泡について話した。

―硫黄が何かと化合してできるのじゃありませんか?

―硫化物は水には溶けませんよ。

 硫化物とは、硫酸塩を除いて、硫黄とそれよりも陽性の元素との化合物の総称である。硫化物のすべてが水に溶けないかというと、そうではない。アルカリ金属の硫化物は水に溶ける。退屈かもしれないが、百科事典のメモを読んでもらいたい。

 

 アルカリ金属…ナトリウム・カリウムなど、地殻中に多量に存在する元素。セシウムの黄金色を除いて、すべて銀白色。融点沸点が低い。化学反応牲に富み、種々の元素と直接化合する。水・アルコールと作用して水素を発生し、水酸化物を作る。

 

 水酸化物から白色が生じるだろうか?そうだとすれば、謎は消える…水酸化物の項を見てみると、水酸化カルシウム(消石灰)は酸化カルシウム(生石灰)に水を加えれば生ずるとある。石灰はありふれた物質なので、それが白い色であることはすぐに想い浮かぶ。しかし、水酸化カルシウムとは何だろうか?

 

CaOH2…白色の粉末。水溶液を石灰水と言い、強アルカリ性を示す。水溶液は空気中の二酸化炭素(炭酸ガス)を吸収して炭酸カルシウム(CaCO3)の白濁を生ずる。  

          

 これが白い泡の正体らしい。他の可能性もあるので、断定はしない。石灰がそこでだけ白い泡になっていることが、気になる。

 花輪鉱山事務所の話では、瀬ノ沢川上流の水質は金属工業事業団の調査で72pH、魚が住めるという。pH(ペーハー)7が中性で、それ以上はアルカリ性、以下は酸性である。酸性が強いと、公害問題になる。ぼくは安心したけれども、数字の客観性に視覚が疑問を感じている。

川原の白い泡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


色彩の暗合

白い泡がきっかけになって、ぼくは硫黄について調べる嵌めに陥ったのだが、その過程でだんぶり長者伝説に現われる白い色を発見して解読を試みた。それは下流の錦木の悲恋の伝説との密かな関連性について考えさせることになった。再び継体天皇に話を戻そう。                              

古事記を読むと、重要な人物であるにもかかわらず、継体天皇の章はわずか18行(原文11行:岩波文庫)、執政の地と系譜と乱と御陵の記述だけである。しかし、色彩の文字が多いという非常に目立った特徴がある。

 

御子、廣国押建金日命(ヒロクニオシタケカネヒノミコト)。大后、手白髪命(タシラガノミコト)。后、黒比賣(クロヒメ)。御子、白坂活日子郎女(シラサカノイクヒコノイラツメ)。御子、赤比賣郎女(アカヒメノイラツメ)。御陵(みはか)、藍の御陵。

   

金  白  黒  赤  藍

       

 この五色の色彩は、求愛に使われた錦木の五色の枝と同じかどうか、ぼくは知らない。継体天皇がだんぶり長者伝説に登場するので、自然に連想しただけである。五色の枝は、何らかの顔料を塗ったものか、それとも、染めたものか・・

藍の色は植物の藍から作ったが、いずれにしても他の色は鉄資源と製鉄技術を持っていた継体天皇と結び付くようだ。というのも、硫黄は自然硫黄としてばかりでなく、鉄・銅・鉛・亜鉛などの金属と結合した硫化物(その中に金・銀も含まれる)としても多量に産出するが、この硫化物は、染料や漂白剤や顔料に用いられるからだ。しかし、いくら進んだ科学技術が古代にあったにしても、鉱物から染料や顛料を取り出すことができただろうか?無理だな、と思い込んでいると、日本の古代においても鉱物性染料が使われていた、という官科事典の簡単な記述に行き当たった。詳細は、資料がないので、分からない。   

ところで、錦木の五色の枝を売り歩いた若者は一説によると草木の里に住んでいた。草木の地名は今も錦木のほぼ東に残っているが、そこから西北西に約2キロの地点に太古の祭祀場と言われている大湯ストーン・サークルがあり、草木の北約3キロの所に黒又山(くろまんた)がある。つい最近、日本環太平洋学会黒又山合同調査団がその山の調査結果を公表して、古代のビラミッドではないかという風説が少し真実味を帯びてきた。地中レーダーの探査で、山頂から西側斜面に約10メートル間隔で1段の高さ7〜約10メートルの大規模な段状の構築が見られたという。続縄文期以前の大工事。エジプト風の墓なのか、マヤ風の神殿なのか?

最近分かったことだが、古墳はもともと土と岩の構築物で、その上に小石を敷き詰めたものもあって、現在のように自然の丘と区別がつかないような光景ではなかった。現在の認識をそのまま過去に当て嵌めて考えると、とんでもない誤解をする。鉱山についても、同じことが言える。以前よく鉱山の高賃金や優れた保証の話を聞いて、まるで公務員に対する羨望に似た感情が混じっているのに驚いた。特に大館は歴史的に鉱山の札束の恩恵に預かってきた街なので、それは自然なことだろう。しかし、近代以降でも鉱山は危険が付きまとう場所である。まして科学などの技術が未発達な時代において、鉱山とはどんな所だっただろうか?落盤を防ぐ堅固な構築はもちろん、坑内や精練所で発生する有毒物質を除去する設備などはありえなかったに違いない。ぼくは先月号で亜硫酸ガスの鉱害について書いたが、これは銅精練の過程で硫黄が分離して生じる。古代の技術者は、それから逃れる手段を知っていただろうか?労働者達は、そんな生命への危険性を知りながら働いたのか?そうだと断言できる人は、おそらくいないはずだ。無知のまま騙されて奴隷同然に働かされたのだろう。病気を患った者は、素朴な医学や呪術で、あるいは温泉で、治療を試みたか…ともあれ、秘密が洩れなかったということは考えられない。すると、不足しがちな労働者はどうして補ったのだろうか?遠くから騙して連れて来たか、無理に誘拐したか…錦木伝説に幼児誘拐が語られているが、幼児を鉱山の労働力にまで育てるのは経済的でないという理由で、その可能性は乏しい。

 しかし、伝説と言えば、こういう反論があるかもしれない。

―あなたは、さっき現在の認識をそのまま過去に当て嵌めると、とんでもない誤解をすると言いましたが、あの二つの伝説の解釈がまさにその例じゃないんですか?二つの古い伝説がまるで1人の作者によって構想されて高度な表現技術で描かれた前衛小説のように思えました。          

 確かに対立と相互補完的な構図が透けて見えたが、その二つの伝説の関係は決して独特のものではない。フランスの構造主義の著名な人類学者レヴィ・ストロースが北アメリカ(ヴァンクーヴァー市周辺)インディアン諸部族の一群の仮面と伝説を考察して、裏と表、鋳型と鋳物の関係にある2種類の仮面の謎を解明している1。その仮面と伝説は、驚かないでほしいが、銅の発見と加工・精練にまつわる物語で、有毒物質に冒されたとしか考えられない人物や凄惨なプロット(筋)が多い。比較すれば、おもしろいかもしれない。文学として見れば、鹿角の伝説の方がはるかに洗練されている。ツィムシアン族のよく似た物語から少し引用してみよう。

 

 (鋼を発見して鉱脈を作った)貴公子は地上に再び降りて来て、(銅の発散する毒気に当たって死んだ)娘婿を生き返らせた。…「生きた銅を殺し、貴重な物に変える」ことのできる唯一者たる彼の子孫を除いて、銅の使用を禁じた。実際、彼は彼らに有毒な煙から身を守る術を授けたのである。

 

 ぼくは《仮面の道》を何年か前に読んでいた。2種類の仮面の関係を想い出したのは、鹿角の二つの伝説について考えていた時である。しかし、《仮面の道》は伝説が質量ともに煩瑣なので、適当な機会があるまで内容には踏み込まないでおこう。表面的な類似に惑わされると、迷路に入り込んで脱出できなくなってしまう。

[このレポートの考察は エセーに続く]

 

1 仮面の道 Les Voies des Masques: C. Levi-Strauss 著 新潮社