HALF AND HALF JOURNAL
無意味な破片
環境と精神 4
自由と技術 ☆人間は環境によって造られる。しかし、逆に生きるために環境を形造ってゆく。それが自己の形成である。自己とは主観と客観の統一である。生物は身体の、環境に限定された有機的な道具によって周囲に適応するだけで、したがって、変化した環境に積極的に働きかけることができない。しかし、人間は物質から取り出した無機的な道具を造ることができ、それによって環境と彼自身の関係を間接的に造り変える。
夢のコラージュ しかし、それは抽象的な自由である。単なる可能性にすぎない。真の自由は、三木清という哲学者が《技術哲学》の中で言うように、技術によって得られる。技術とは物に形を与えること、想像することである。 例えば、大館の旧市街が位置する高台に細い坂道の途中から三の丸へ向かうコンクリート造りの階段がある。それが斜めで踏み段を持っているのは言うまでもない。土地の傾斜と人間の運動能力がその構造を限定するので、フォルムは必然的に出来上がる。 階段は、地形の制約を克服するために造られた道具である。設計者の想像力は目的と制約の中にある可能性と風景との間に美しい調和を見い出す。技術はそれを実現して、その結果、市民は気楽に昇り降りしたり心地良く散歩したり、自転車を曳いて中央の細い斜面を通れるようになった。手摺りの青い色は青空に誘うように延びている。〈美とは幸福の約束である。〉~スタンダール。 制約が新たな可能性と自由を生む…創造とは、対象の必然と可能性の統一によるあるイデー(理念)の形成である。見い出されたその可能性は彼の中に潜在していたものに他ならない。 環境世界の変様 ☆しかし、階段が階段でなくなったら、人はどうなるだろうか?映画の中でキートンは階段を昇ると不意に坂に変わるので、その度に滑り落ちてしまう。彼は笑わないコメディアンだが、実は環境世界の変様に当惑して笑えないのである。これは川や大気の汚染といった環境の変化とは区別されなければならない。階段が階段でなくなるという非現実的な表現は、ただ事物が人間を愚弄することの寓意であるだけでなく、環境世界と人間の関係が本質的に変わってしまったということの象徴なのである。そこではもはや階段は階段を意味しない。ほぼ同時代の詩人であるリルケは20世紀の初め《マルテの手記》の中にこう予言的に書き記している。 〈もう少しのところであらゆるものがその意味を失ってしまう瀬戸際である。おそらくテーブルも、コーヒー茶碗も、すわっている椅子も、あらゆる日常の道具と手近の品物までが、その時何かわからぬ無縁な鈍重なものに一変するだろう。〉 〈しかし、ぼくは一人抵抗を続けたかったのだ。〉 〈ぼくは、ぼくにとって安心のできる世界の意味の中で暮らしたかった。もし何かがぜひ変化しなければならぬとすれば、せめてぼくは、犬の世界でいっしょに暮らす程度で容赦してもらいたかった。犬の世界だったら、いくらか類似な世界であるし、日常生活のあらゆる事物はおそらく現在のままで済むわけだからである。〉 ☆ とろんぷ・るいゆ Vol.3 1986年3月23日 環境と精神 4 |
環境と精神 5 知覚と事物の関係
意味? さて、マルテは日常の事物を〈何か分からない無縁な鈍重なもの〉に、そのうえ〈堕落した物たちの反抗と嘲罵と憎悪〉を感じる。彼には、知覚が事物を有意義連関の中に正しく位置づけるのが困難なように思える。しかし、事物は人間にとって可能性として現われるものである。絵描きのノートにはこう書き記されている。 絵を描く時、ぼくは何を描くかあらかじめ決めることもあるが、白紙にただ何となく線を引き戯れて、そこにある形を見つけて発展させる手法が好みに合っている。 曲線が女の腰のように見えれば、意識的に女を描き、交錯した線でできた図がウィスキーの瓶に似ていれば、ラベルを加えて具体的なイマージュを形造る、という無造作なやり方である。これは現代では珍しくないが、絵に限らず、偶然に何か起こると、人はそこに意味を求めて必然づける傾向がある。意味は、ぼくと対象との関係で生じたものであって、緩やかな曲線に対して鉛筆という意味(方向)を与えることはできないが、山の中の道路という形象を造ることは可能だというふうに、あらかじめ限定された範囲を持っている。それを外れるのは狂った知覚で、方向を誤った、無意味な、したがって〈絵にならない〉ものだろう。 しかし、人は目の前の曲線に人間的な意味を与えないこともできるのに、なぜ他のものとして見たり考えたりするのだろうか?それは事物が人間存在の可能性として現われるせいで、関心がその可能性を開く。 可能でない状況 マルテはあるものをあるものとして他から分ける、すなわち了解するのが難しいために、事物を正しく位置づけることができない。〈それらは、ともすれば正しい用途から逸れてゆこうとするようになって来た。〉だから、マルテは環境世界の事物に対して彼の可能性を見い出すことができないのである。あたかも彼がパリという社会の中で自分の役割を持たないかのように。事実、彼は孤独な人間だった。 詩人が第1次世界大戦の前夜、予感した環境世界の変様を、サン・テグジュペリは第2次世界大戦の束の間の平和な時代に《南方郵便機》という地味な作品の中で劇的に描いた。ジュヌヴィエーブの愛児が病気になると、〈事物が謀反を起こした。〉そして、〈彼女は不思議な秩序の必要を感じた。位置の悪いこの花瓶、椅子の上に脱ぎっぱなしになっているあのエルラン(夫)の外套、この台の上の埃、それらはすべて死という敵の前進の数歩だった。それらはすべて、表面に現われない敗北の数々の兆だった。彼女はこの敗北に対して戦った。〉 しかし、やがて子どもが死ぬと、〈彼女の過去のすべてが崩れる。長い月日が丹念につくり上げたこの応接室。それらの家具を按配したのは、人でも、家具屋でもなく、時間だった。[略]それが今この安楽椅子をマンテルピースから遠くへ、この台を壁から遠くへ引き離す。すると、たちまちあらゆる過去から離れ、今までとは別な、むき出しの顔を見せて漂流し始める。〉〈今になってみると、たった一人の子どもの力で世界の関係が維持されていた〉ことが分かるのだった。彼女の身の回りのあらゆる事物がその意味を減少させ、無意味なものに化してしまった。これは存在の不安である。周囲を取り巻く事物がほころびた織物の糸のように目立ち、彼女は触れることに嫌悪を感じるのである。ジュヌヴィエーブは、環境世界との関係を新たに造り直すために、マルテが詩的な創造によってそうしたように、新しい愛に生きるだろう。失われた世界を求めて… ☆ とろんぷ・るいゆ Vol.4 1986年4月23日 環境と精神 5 |
歴史的な時間
環境と精神 6 絵を構成
デペイゼとは、vol.4の記事を参照にしてもらいたいが、本来あるべき場所から離れて存在することである。灰皿が歴史的に配慮された有意義連関の中で灰皿として有用性を持っているなら、それがどこにあろうと、デペイゼとは呼ばない。たとえば、ジグソー・パズルを思い浮かべてほしい。散らかったそれぞれの破片に何が描かれているか、理解できないが、試行錯誤でそれらを組み立てると、破片は何らかのイマージュを見せる。高い背凭れの長椅子、擦り切れた枯草色の肘掛け椅子、カウンター、青と黒の扉…それは〈とろんぷ・るいゆ〉の編集長が住む地下室である。 環境世界の変様とは、簡単に言うと、人がそこに1枚の絵を構成するのがむずかしくなるようなことである。 同時代の精神 マルテやジュヌヴィエーブの経験は異常と思われるかもしれないが、そうではない。20世紀の初期、ヨーロッパやアメリカの人々は多かれ少なかれ似たような雰囲気の中で生きていた。〈朝の食事〉に見られる映画流の視覚的な表現、キートンのいくつかの映画、ハイデガーの《存在と時間》などには異郷的な雰囲気を反映した同時代の精神が感じられる。 その時代は、機械産業の発展によって新製品が都市にあふれ、容易に手に入れることができた。日用品だけでなく、新しい道具や機械(自動車、レコード・プレイヤー、ラジオ、カメラ、電球、映画など)も一般化した。人は環境の中にそれらを適合させ、新しい生活様式いわゆる現代生活を形づくる。しかしながら機械産業が人間を物質的に豊かにする一方、画一的に大量生産された事物は歴史的な時間を欠いていた。それらは手作りの製品にくらべると、奥行きと親密さを欠き、実際は人々が製造物に適合するように要求する。ちょうど既製服のように環境が窮屈になる。 退行的な願望 そのせいか、身体に馴染んだ古い衣装が流行している。ぼくが未だに着る黒と灰色の2枚のセーターは20年も前に近所の婦人に編み機で編んでもらったものである。いつまでも着られるような大きさで、今でも着心地がいい。事物はそんな風に二つの世界を相互に結びつける。そして、目に見えない地下通路のように過去と現在を結びつける。他人が、流行から外れていると思おうと、そのセーターはぼくにとって意味深いもので、心の中で1枚の絵を歴史的に構成している。 それはすでに象徴である。ホイジンガは《中世の秋》の中でこう述べている。 いかなる事物も、その意味は現象界における機能と形態の枠内に尽きるということであるならば、事物はすべて不条理であること、すべての事物は、その存在の糸を辿れば、必ず彼岸の世界につながるということ、このことは中世の人々の決して忘れぬところであった。 彼岸とは、永遠を感じさせる過ぎ去った世界である。象徴的な事物は言葉で表現するのが困難なさまざまな情緒の共鳴を呼び起こす。忘却の共鳴と言ってもいい。世界と自己との融合がそこでは実現されていて、環境は意味の濃密な神話的な空間になる。古い衣装の流行は、だから、意味の希薄な不安定な時代における神話(ミュトス)化への退行的な願望の現われである。 ☆ とろんぷ・るいゆ Vol.5 1986年5月 環境と精神 6 |
環境と精神 7 モードと身体
そのうえ、流行のモードを着ることは環境世界への帰属への願望である。できれば、物のように環境に適合したいのだが、過去をノスタルジックに振り向いてはいない。しかし、神話化への退行的な願望と帰属への願望は、世界への融合を求めるという傾向で一致している。 とはいえ、その感性的な傾向は個性を犠牲にして、主体性の喪失を引き起こす。20世紀の前半において、それはファシズム(あるいは全体主義)の土壌になった。ヒトラーはナチを率いて政治を祝祭と化した。ゲルマン民族の神話が甦った。 祭儀は一般に神話を再現する象徴的な、より正確に言うと、隠喩的な行為である。神話(ミュトス)は世界の了解の表現であって、人間はどこから来たか、なぜ在るのか、何をどのようにするべきなのか、そして、どこへ行くのか、ということを自然や社会の現象の多様なイマージュによって説明する。要するに、生の全体を。それは世界という目に見えない原文の解釈であると言っていい。ちょうどこの《とろんぷ・るいゆ》の試論や他の表現が現在の世界の解釈であるように。 ご存知の通り、祭儀の社会的機能は個性の共同体への融合である。大衆はナチの現代的な祝祭と化した政治に呪縛された。ファシズムは社会に潜在する欲求を巧みに利用したと言える。歴史はその悲惨な結末を我々に教えている。 だが、環境世界と自己の対立的な関係を克服しようという傾向は、フランスやアメリカでは反対の方向へ進んだ。ファッションには作るという意味もあるが、モードは模倣でなく、創造だった。それはシュール・レアリスムなどの前衛芸術と係わり、写真を通して20世紀の知性的な傾向を大衆化した。 モード写真は常に象徴的神話的だった。それを深化させれば、潜在的なものに結びつきえた。その手法はシュール・レアリスムの中にあった。 (しかし)モード写真はむしろ死を避けて、夢を紡ぐ手法として、それを受け入れた。 多木浩二:モダニズムの神話 モードは、他の現代的な事物のように、自由に着換えることができる夢だった。それは生きる喜びを造り出し、人はその変化を楽しむ。だが、いずれにしても、感性と知性のその傾向は現代都市における疎外とデペイゼの表現である。 ☆ とろんぷ・るいゆ Vol.6 1986年6月30日 環境と精神 7 |