HALF AND HALF JOURNAL
HHJ
Dépaysée でぺいぜ E
傘と蝙蝠と迷路
Dépaysée E 異郷にある 傘と蝙蝠と迷路 ☆何か変わったことがある。なぜなのか、分からないが、それは事実である。自分に関係がなければ、放っておいてもいい。関係があるとすれば、考えなければならない。どういう意味なのか? すぐに解答を出して、それに応じた行動を取らなければならない。だが、その現象の意味は彼にとって迷路そのものなのだ。原因は?分からない。いずれ起こるべき結果は?分からない。時間の中で孤立した現在から脱出できないまま… これは現代の特徴的な状況である。ノイローゼや精神分裂症では同じ状態におちいる。言葉の場合、単語とその意味内容の間に乖離(あるいは亀裂)があって、通常の規則と違った結合をする。同じように傘は雨に濡れないための道具ではなく、蝙蝠(こうもり)になる。形や性質の類似による連想で、隠喩(メタフォール)は他のある全体との同一性を指示する。 傘={蝙蝠}←【迷路】 。 } }
傘が蝙蝠になるとき、人は迷路的な状況にある。蝙蝠は、迷路と共通した無気味さとあいまいさを帯びているので、認識が困難なとき、それの象徴として代わりになる。 蝙蝠がイマージュあるいは幻覚であること、現象の解釈が妄想であることは言うまでもない。しかし、それが外界と内面の統一としての表象だとしたら、真実そのものである。彼は現に自分が生きている世界を語っているのだ。 芸術家は、それをもっと自覚的に方法化するだろう。印象派以後のある画家たちは対象を知覚する自分をも描こうとした。傘は、彼自身の生の時間のさまざまな情動の反映で主観的な形になる。シュール・レアリストは、傘と蝙蝠を対立させながら同一のものであるかのように組み合わせて、ある抽象的な観念(イデー)を暗示する。仮に迷路をも具象的に描くとすれば、テーマは明白である。迷路は、言ってみれば、外界の事物を他のものに変える差異化の装置だ。 ☆ とろんぷ・るいゆ vol.14
1993.2.9 ▼ 黒いコウモリ傘 EN PASSANT 1996.5 |