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窯垣1
尾張瀬戸(おわりせと)というところ

「せともの」という言葉は関東では一般的だけれども、多くの人は漠然と瀬戸内海の瀬戸だと思っている。名古屋の近傍に瀬戸という土地柄があることは、そういう自分も焼物に興味を持ってから始めて知った。瀬戸内海と区別するためではないと思うが尾張瀬戸と呼ばれている。しかし、「瀬戸焼」というとそれは瀬戸だけのものではなかった。つまり、瀬戸の北(車で30分)に隣接する岐阜県多治見(たじみ)市、さらには土岐(とき)市、可児(かに)市なの美濃と呼ばれてきた地域でも古くは室町時代に黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部が焼かれてきたのだ。もちろん、昔は県境があったわけではないが、今では美濃焼として区別されている。
この日は仕事を半日で切り上げて夕方に名古屋に到着、とりあえず瀬戸へ向かうことにした。地下鉄で2つ、3つ乗ると名古屋の中心地「栄」に着く。そこが名鉄尾張瀬戸線の始発駅栄町だ。ここから終点の尾張瀬戸までは 急行で40分ぐらい。
名古屋の地下鉄
名古屋地下鉄マップ
名古屋地下鉄電車
名鉄線あれこれ

実は昔は市電だったそうで、各駅停車に乗っても急行には抜かれずに終点まで到着してしまうらしい。線路はくねくねしていてスピードはでない。だから車で行くともっと近いらしく、普通の路線バスでも行けるのだ。瀬戸線の車両は丸みがあってかわいらしい赤い電車だ。窓も真四角に近い形で、やはり角張ってないところが見た目にやさしい。こんなほのぼのとした電車はいつまでも残してほしいものだ。

美濃へのアクセス

ところで名古屋から美濃へ行くには中央本線を利用しなければならない。多治見駅と土岐市駅は隣の駅だ。しかし、尾張瀬戸から美濃へ行く鉄道はなく、名古屋市内の大曽根駅まで戻って中央本線に乗り換えなければならない。前述のように車ならば2、30分の距離で、本数は少ないながらも路線(JR)バスもある。
名鉄線の車両 名鉄瀬戸駅
名鉄瀬戸線電車
尾張瀬戸の陶土採掘場

これほどの規模の陶土もしくは陶石の採掘場は他に類を見ないのではないだろうか。これは有田の採石場をはるかに凌ぐ規模だ。おそらく江戸・明治の頃はもっと小規模なものであったに違いない。近年は国内はもとより韓国やタイにまで陶土や珪石を輸出していて、これが現在の瀬戸の主要な産業となっているからなのだ。それにしても採掘跡に溜まった水の色は、目が覚めるような美しさのエメラルドグリーンだ。
    
採土場の遠景と巨大水溜り

尾張瀬戸地図1 尾張瀬戸地図2 尾張瀬戸地図3

陶祖籐四郎と磁祖民吉

瀬戸には2人の祖と仰がれ奉られている人がいる。陶祖と言われているのが加藤四郎左衛門景正という人で、通称籐四郎と呼ばれる。籐四郎は1223年に入宋して6年間やきものを学んで帰国し、瀬戸の地の良土を利用して瀬戸焼を始めた人だと言う。一方、磁祖の加藤民吉は19世紀も初頭に4年間にわたって有田で修行して、磁器の製法技術を瀬戸にもたらして傾きかかった瀬戸を建て直した人だと言う。
この後者の磁祖民吉を祭ったのが窯神(かまがみ)神社であり、社が窯の形をしているのが独特だ。神社は駅南の小高い丘の上にあり、例の採土場を遠景から展望できる。ここを訪れたときは桜が満開で、花見酒を楽しんでいる人たちがござを敷いてくつろいでいた。
窯神神社の窯形の社
窯神神社1
窯神神社の由来
窯神神社2
狛犬2
窯神神社の陶製の狛犬
       狛犬1
エンゴロを利用した窯垣
窯垣2
窯垣3
窯神町の窯垣(かまがき)

焼物を焼成するときに焼物を保護するための窯道具にコウ鉢(はつ)、さな板、支柱などがあるが、これらをこの地方ではエンゴロと呼んでいる。エンゴロの老朽化していらなくなったものを利用して築地塀、すなわち窯垣があちこちに作られている。
神社下の窯神町の一角に磁祖加藤民吉の出生地の碑が建っていた。
       。      
尾張旭の友人宅へ
      
初日は陶土の採掘場と窯神町の窯神神社を見ただけで夕方になってしまった。名古屋に戻るにはまたこ1時間ぐらい使わなければならないところを、この日は予てより連絡しておいた友人宅(となり町)に宿泊させてもらうことができた。
先に紹介した名鉄瀬戸線の沿線は、名古屋の近郊住宅地としての役割を担っているようだ。名古屋へのアクセスがいいところにもってきて、まだまだ緑が豊富で住み易そうな環境だ。名古屋万博へ向けての準備も始まっていて、畑を残しつつもその上を何かで覆って万博用の臨時駐車場にする計画もあると聞いた。
駅前の元祖手羽先焼?の焼き鳥やで親交を暖めた後、夜の散歩がてら歩いて友人宅へ。畑や沼地もあって心地よい散歩だった。友人はパステル画にはまっていてパステル画教室にも通っているとか。デジカメに撮ったらふんわりとしたいい雰囲気の絵になった。自分のホームページに掲載してインターネット画廊を開いてみてはどうでしょう?頑張ってください。
友人のクレパス画
パステル画
      
使い込まれたクレパス
   パステル   

赤津マップ

赤津(あかづ)地区

大規模な窯業工場は別として昔ながらの小さな窯元が軒を連ねているのは、赤津(あかづ)、品野、洞(ほら)の3地区である。上記の瀬戸散策絵図の右上からさらにバスで10分ほど入ったところが赤津地区であり(上:赤津読本)、さらに東、西赤津などの地区に分かれている。瀬戸散策絵図の最上部あたりが品野地区で、絵図の最も右中央の絵図内に描かれている地域が洞地区である。特にオレンジ色で描かれた道は窯垣の小径と呼ばれていて、やはりエンゴロの築地の多い、起伏のある散歩道である。

赤津には赤津会館という建物があって、この地区の作家ものの展示・即売を行っている。そもそもこの地区は独立独歩の気運がが高くて、独自に旧通産省の伝統工芸品の指定を受けて赤津焼と歌っているらしい。やきものの名前を歌うのに官庁の許可がいるとは知らなかった。でもその後、注意して東京のショップを見てみると確かに赤津焼と書いてあるものがある。
赤津地区の窯元
赤津窯元

実際、この地区には個人作家も多いらしく、赤津会館にも黄瀬戸やら志野やら織部のおもしろいやきものがいっぱい並べてあった。これらの釉薬を使った土もののやきものであることが赤津焼と呼べる条件となっているらしい。ところで観光客としてはこの建物以外に訪れるようなポイントがなく(窯元はあるのだが)、この地区へのアクセスもちょっと悪く(タクシーを使えば話は別だが)、歩いて行ける距離でもなくてバスの本数も少ない。赤津会館に行ってすぐ折り返すことになったのたけれども、結構な時間を使ってしまった。帰りは瀬戸公園下でバスを降りて、洞地区から瀬戸川沿いに散策して駅に戻ることにした。
洞町(ほらまち)地区の今昔

この地区にある窯垣の小径というのが瀬戸では一番整備された観光客用の散歩エリアかもしれない。登ったり降りたりの起伏の激しい細い路地なのだが、両側に窯垣が続いていて、民家の合間を抜けていくようなおもしろい小道だ。眼下に併走する車道は、かつてこの地区のメインストリートだった通りで、焼物街道と呼ばれていたらしい。右の写真のようにそれは多くの窯元がひしめいて建っていたようだ。今でも窯元が点在しているのだが、写真のような面影はない。ただ、残っている民家の家並みは風情があり、欄干や古い瓦の感じが昔を偲ばせる。
現洞町地区の民家の屋根瓦と昔の様子 洞民家
旧洞地区の風景
窯垣の小径資料館
窯垣の小径資料館
窯業道具類
窯垣の小径資料館

窯垣の小径の途中の山あいの中腹に資料館はある。かつての窯元の作業場を資料館としたもので、窯道具などが展示されていて当時を偲ばせる。ここの説明書きが洞町の歴史に詳しいので抜粋してみる。
19世紀初頭になって磁器の製法が加藤民吉によって有田よりもたらされたと上述したが、旧来の陶器を本業焼、新しく興った磁器を新製焼と呼んで区別した。洞町地区では江戸時代以降に大きな連房式登窯(本業窯)が行く筋も建ち並んで、本業焼(陶器)の生産が行われ、瀬戸の陶器生産の中心であった。碗、皿、鉢、甕などを生産していて、特に石皿、馬の目皿、行灯皿、本業タイルなどが有名であったとのこと。
             
洞町街道沿い長屋
洞街道沿い民家
洞町の銭湯、宝湯洞街道沿い宝湯
洞町地区の風景

この地区も窯垣の小径を除けば、普通の山あいの街道沿いの風景と変わらないが、今でも窯元や商店が点在している。建物の多くはまだ欄干を残すような昔ながらの木造家屋だ。子供たちが道端で遊び、街道沿いの銭湯も飾りつける必要もない町の必需品のように見えた。
             
登窯の内部の様子

ここに残されている登窯も昭和54年までは使われていたが、現在は文化財として保存されているものだ。かつては13連房だったものを4連房にして使っていたものだ。このあたりには24連房など、創造を絶する巨大な登窯が幾筋も建てられ、稼動していたのだ。窯の中も当時のままに残されており、自由に出入りできるので窯の様子がよくわかる。
登り窯内
4連房の登窯
本業窯登り窯
登り窯看板
洞町地区の窯元

登窯こそ使用していないけれども、今でも営業中の窯元があちこちに点在している。町工場風の少し大きめの木造家屋から突き出た煙突がユニークだった。ガス窯か何かだろうか。見学OKと書いてあるところもあるけれど、一元さんでぶらりと入るには少し敷居が高い感じだ。町の雰囲気を感じて洞町地区を後にした。
洞町地区の窯元
洞窯元
瀬戸川沿い
瀬戸川遠景
川沿い銭湯玉の湯瀬戸玉の湯
瀬戸川沿いのやきものや

瀬戸川沿いの界隈は瀬戸を訪れた人が必ず散策するエリアだ。川の両岸にやきものを売る店が軒を並べている。かつてより店の数が減少しているのか、店じまいをしているような古い建物もちらほら見受けられる。町の人が利用していると思われる川沿いの銭湯はこぎれいに飾られていた。
             
はずれにある商店街跡
旧商店
旧長屋
橋の欄干を飾る瀬戸焼のやきもの
東橋
宮脇橋

瀬戸川にはいくつもの橋がかけられているが、それぞれの欄干が志野や黄瀬戸のやきもので装飾されている。それらを眺めつつ、ぶらっと歩くにはおもしろい景観だ。瀬戸川の流れは乳白色で、さすがにやきものの採掘場に近いことを物語っている。少し青みがかった乳白色が川面に美しく輝いている。
             
瀬戸川の流れ
瀬戸川
やきものの店

今も残る昔ながらのやきものやの店先は、なかなか情緒豊かだ。宿場町を思わせるような古風な店が散在している。人の背丈ほどもある大皿のディスプレイが目を惹く。店の中に入るとそこにはさまざまな趣のせとものであふれかえっている。普段使いのせとものを選ぶには選り取りみどりだ。
やきものやの店先 陶磁器商
陶磁器店
深川神社と宮前界隈

瀬戸川界隈のちょうど中央付近に深川神社と陶祖を奉る陶彦神社が並んである。深川神社には国の重要文化財に指定されている古瀬戸の狛犬が安置されているのだが、生憎この日は境内の補修中で見ることができなかった。深川神社がユニークなのは、その屋根を飾る瓦葺が織部焼でできた緑の瓦でできていることだ。荘厳な感じの鬼瓦もあって、さすがに焼き物のふるさとという感じがする。  
     織部の鬼瓦
深川神社
深川神社遠景
深川神社織部の瓦

宮前のうなぎや
宮前のうなぎ屋
宮前の商店街

深川神社に続く小さな山道の両脇にはこじんまりとした商店街が形作られている。そんな一角の老舗のうなぎやで昼食をとることにした。ここのうなぎはこれまでに体験したことのないような珍しい蒲焼だった。というのもわざとパリパリに焦がしてあって、香ばしいまでのこげ味が不思議な味わいを醸し出していた。
             
愛知県陶磁資料館
愛知県陶磁資料館
愛知県立陶磁資料館
瀬戸駅から車で20分ほど行った猿投山のふもと、広大な敷地内に建てられているのが愛知県立陶磁資料館だ。アクセスは事のほか悪く、車でなければ行き着けないような立地条件なのが玉に傷だ。しかし、さすがに県立の施設というだけのことはあってそれはすばらしい、見ごたえのある美術館だ。庭園を配した敷地内に西館、南館などのいくつかの建物群を擁している。とりわけ本館で催されていた、猿投、常滑、渥美のつぼ・かめ・すりばち展は見ごたえのあるものだった。
つぼ・かめ・すりばち展

つぼ・かめの類は装飾品と言うよりも実用品として作られ、使われてきたやきものだが、それだけにその歴史は古く、味わいのあるやきものが多い。昔ながらの灰釉のかかり具合や深みのある土味は骨董品ならではの味わいを醸し出していて、見ごたえがある。
その他の常設展も国立博物館にも匹敵する品揃えだ。愛知県のやきものばかりでなく、六古窯や世界のやきものも取り揃えていて、やきものの歴史が総括できる趣向となっている。
特別展案内
常設のこま犬展

こま犬というやきもののジャンルも他に類をみないもののひとつだ。その歴史は古く、遠くはインドから伝わった架空の動物、獅子にこま犬が組み合わさったもので、あうんといって口を開いた獅子と口を瞑たこま犬が対を成しているらしい。門を守る守り神として神社仏閣に奉られたものだ。大小さまざまな大きさで、恐ろしい気配の狛犬からほのぼのとする表情の狛犬まで、そのバリエーションの豊富さに圧倒された。
常設展案内
発掘された登窯と復元穴窯
発掘後の窯跡
再現大窯
発掘された登窯と復元された穴窯

敷地内には復元された登窯もあって、陶芸教室で実際に使われているらしい。下の写真は展示用の復元された穴窯だ。これとは別に発掘されたままの古い時代の猿投山の窯跡が保存・展示されている(写真上)。最後の1枚の写真は発掘後に移転された、瓦を焼くための窯の跡だ。
             
編集後記

午後の半日を愛知県陶磁資料館で費やしてしまい、1日半に及ぶやきもののふるさと瀬戸の旅を締めくくることになった。最後に尾張瀬戸駅そばのやきものの店で現代もののお見上げ品を購入して瀬戸の町を後にした。美濃焼のふるさと、多治見、土岐への思いを心に秘めつつ、それなりの充実感に満ちたやきもの紀行でありました。次回へ続く。
瓦を焼くための窯の跡 発掘移転後の瓦窯跡


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