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封魔界カオス戦記〈グラン・プリミア〉 - 女神の右手
第一話 女神の烙印 |
グラン・ミシュヒビンはセルティスト界〈カオス〉の中でも随一の歴史を誇る国であった。その存在はたくみに大河のごとき世界の移ろいの影に隠されてきたものの、他のグランの上層部や名だたる識者は、その影響力をしかと感じ、数々の噂を耳にしていた。 ミシュヒビンは高位魔族が管理する二〇万の軍を持ち、それは七つの軍団から構成されている。長たるエルソが直轄する〈滅神鬼団〉、そして六人の将軍がそれぞれ治める軍団は、〈カオス〉の中でもエリート中のエリートだ。 その噂を耳にした者の多くは、いずれミシュヒビンに赴くことを夢見た。だが、〈カオス〉に暮らす者の八割以上は、その偉大な都市の名を耳にしたことすらない。 「ガディス、今年のラマムバの調子はどうだ?」 甲冑を着込んだ、鍛え抜かれた肉体を持つ黒目黒髪の青年が、井戸水を汲み上げている男に問うた。桶を引っ張り上げていた男が、驚いたように甲冑姿を振り返る。その顔は青白く、白い髪の毛のかかった額の真ん中には、小さな角が生えていた。 「旦那、もうお帰りで? 今度の遠征は長引くと聞きましたが」 「ああ、意外に早く片付いたんだ。もう帰るところだよ」 青年は、日に焼けた顔に人の好さそうな笑みを浮かべた。裏表のなさそうな、それでいて、芯の通っていそうな笑顔だった。 彼の銀の甲冑に刻まれている紋章がグラン・プリミアのものであることは、この辺りの多くの者も知っている。だが、グラン・プリミアがグラン・ミシュヒビンの属国であることを知っている者は数少ない。 ガディスは、その、数少ない部類に入っていた。 「では、丁度よかった。実は今日、収穫を始めたところです。採れたての、いいのがありますよ」 ラマムバは、この辺りの名産の果物だ。果実は細長く、陽に当てて干してから皮を剥いて裂きながら食べる。一見干からびていても、内部は瑞々しい。長持ちすることから、携帯食としても重宝されている。 「それを買い取らせてもらえないか?」 「もちろんです。こちらへどうぞ」 ガディスは嬉しそうな笑顔を満面に浮かべ、水を張った桶を手に、青年を畑のそばの三本の木に案内した。 「いつもすまないな」 「いいえ。こちらとしては、大助かりですよ」 木の間に、いくつものロープが張り巡らされていた。その表面に、細長い茶色く干からびた物が、隙間なく敷き詰められ、吊るされている。 「これなら、ヴァイン様やラインハルト様のお土産にできる分もあるな。……いい匂いだ。すぐに馬車と代金を用意しておこう」 「ありがとうございます」 桶を下ろして、ガディスは礼儀正しく一礼した。 「いいや。また頼むよ。ここの品質は信頼している」 ラマムバ作りにとって、最高の褒めことばである。ガディスはもう一度、この、上司の信頼も厚く部下にも親しまれている、プリミアでも一、二を争う戦士、百勝将軍ベルモントに頭を下げた。 ベルモントは、まるで子どものように無邪気に笑う。 だが、その視線が何かにひきつけられるように横に移動した。ガディスは一瞬、機嫌を損ねたかと首をすくめる。しかし、彼は相手が注目している方向に気づくと、ほっとする。 「ああ、あれですか。ちょっと、妙なものを見つけまして」 彼は言いながら、再び桶を持ち上げて、ベルモントを畑の縁に案内する。 そこには、窪みがあった。その窪みから出土したのだろう。土にまみれた、一抱えほどの青黒い何かが布の上に置かれていた。 「一体なんなのか、気になりましてね。とりあえず、洗ってみようかと」 桶を置いて、出土した物を水に浸し、土を溶かす。それを、ベルモントは興味津々で凝視する。 水が茶色く濁るにつれ、青黒い物の正確な形が見えてきた。 「これは……」 水を吸ってもろくなった土を擦り落としていたガディスが、それを持ち上げて、目を見張った。 それは、石像の腕のようだった。それも、女の腕をかたどったものだ。自然な動作で軽く握られた手の中指には、シンプルな指輪がはめられている。その指輪の輪には、小さく、文が刻まれているようだった。 「……ガディス、それも売ってもらえないだろうか?」 ガディスは、驚きの目を、今度はベルモントに向けた。 「欲しいならただで差し上げますが、飾りにでもするので?」 「いや……俺は魔術だのなんだのはよくわからないが、城に戻れば調べられるかも知れん。それにまあ、エッゲルへの土産だ」 「それなら、かまいませんが……」 ガディスは、それを丁寧に布に包んでベルモントに手渡す。 ベルモントはなんとなく、それを『女神の右手』と呼ぶことにした。 混沌の海を眼下にのぞむ遥かなる詩の流るる岡の上に、プリミアの王城はそびえている。その城の上を過ぎたる三〇〇年の歴史は、〈カオス〉では短くもないが長いとは言えない。ただ、その城を影から支える、魔術師の住む谷に乱立する塔は、グラン・ミシュヒビンでも重要視されているほどの要所である。 その、まるで針山のように不気味に地上に上部を突き出している塔の群れは、王城の最上階にある王の寝室からよく見えた。夜闇が周囲を支配し始めると、余計に不気味さが増す。 そのため、部屋の主であるヴァインは、暗くなるとすぐにカーテンを閉めた。 「エルソ・ヴァイン。お仕事の時間ですよ」 あきれたような色を含んだ、老人にしてはよく通る声が、分厚い扉の外からかけられた。だが、それに答える声はない。 「ヴァイン様! 今日は、ラインハルト殿や将軍たちも待たせておるのです。入りますぞ」 そう声をかけると、老人は遠慮なく扉を開け、部屋に侵入した。その身なりの整った老人は、すぐに、目的の人物を見つける。相手は、ベッドの上だった。 ベッドに座った銀髪碧眼の少年は、一応、身なりを整えてはいた。だが、目は眠たげに、天井と壁の境目辺りに向けられている。 「ヴァイン様、聞いておられるのですか?」 「ああぁ、今行くよ」 不機嫌な老人の声にあくび混じりに答え、ヴァインはベッドを降りた。 明日は、一週間後に開かれるグラン・ミシュヒビン軍の一部隊としての軍事演習のための、予行演習だ。そのための打ち合わせで、プリミアの軍関係者が会議室に集合しているのである。 会議室の四角系のテーブルには、プリミアの重臣たちが顔を並べていた。ただ、三つだけ、埋まっていない席がある。そのうちの一つは、遠征中のベルモントのものだ。 残る二つのうち、一方の席を占める老人が、溜め息混じりに会議室に入り、最も豪奢な椅子の隣の椅子に腰を下ろす。 その直後、眼鏡をかけた黒マントの青年が、棘のある声を響かせた。 「マティアス殿。グラン・エルソはいつおいでになるので?」 「すぐに、後を追ってくるはずだが……今しばらく、お待ちを」 再び息をつく老人の眉間のしわが、いっそう深くなったかに見えた。 だが、間もなく、扉が開く。左右に兵士を従え、一応身なりを整えたらしいグラン・プリミアのエルソ――ヴァインが席に着く。髪型や服装が整ってはいても、寝起きであることは一目瞭然であったが。 とりあえず形が整うと、マティアスが表情を引き締め、簡単に開会の辞を述べた。 「まずは、それぞれの将軍から部隊の状況を知らせていただきたい。ベルモント将軍には後ほどご報告願うとして、ジュディア将軍、お願いできますかな」 「ええ。ご報告します」 見事なブロンドを頭上で束ねた、儀礼用の白銀の軽鎧姿の美女が、立ち上がって顔ぶれを見渡した。 「〈銀の翼〉部隊八五〇名、うち、現在出陣可能な者は規定の八〇〇名となっております。控えに、三八名が待機可能です。無論、上級仕官は全員出陣予定です」 「うむ。ご苦労」 マティアスが関係書類の内容を確認しながらうなずくと、ジュディア将軍は優雅に一礼して、再び自らの席におさまった。 続いて、〈緑の風〉、〈赤き刃〉、〈黒の影〉の隊長らが報告する。ベルモントがいないため、〈蒼き刃〉はマティアスが口頭で確認した。 「我ら、〈白き角〉も、総力を挙げて参加致します。では、ここから作戦の説明に入ってよろしいですかな?」 眼鏡の青年が、許可を求めるように、マティアスに目を向ける。 「うむ、エッゲル殿、よろしくお願いします」 そのことばを待って、〈白き角〉の部隊長、エッゲルと呼ばれた青年は演習の詳しい説明を開始する。 「一週間後の演習ですが、やはり、我々は隣国アルセダとの共同作戦となります。演習の目的は、カラム高原に設置された二つの砦を制圧し、五人の人質を無傷で解放すること。相手は、総勢五万。すべて、ミシュヒビンの魔術師部隊が作り出した高性能ゴーレムを仮想敵として利用します」 隣国アルセダは、もともとミシュヒビンの五大部隊の隊長であり、高位魔族でもある実力者たる、アガマが治める自治領である。高位魔族であり、変わり者とは言われるが、アガマは人格者で、アルセダは〈カオス〉でも有数の平和で豊かな国となっていた。 「我々、プリミア・アルセダ連合軍の目的は、できるだけ多くの人数を砦から引き離すこと。上手く囮を演ずるには、綿密に作戦を練り、アルセダとも事前の打ち合わせが必要でしょう。明日は、アガマ様も千名からなる精鋭部隊を率いて参加なさいます」 「それで、明日の敵はやっぱりゴーレム?」 一切興味のない様子でぼうっとしていたヴァインが、会議が始まってから、初めてことばを発した。エッゲルは多少面食らいつつ、グラン・エルソに目を向ける。 「え、ええ……わたしの部隊でゴーレムを利用しようかと。とはいえ、我々の力では、実際の戦闘がこなせるほどのものを大量に作ることはできませんが」 「敵の作戦、ぼくが決めてもいい?」 少年のことばに、将軍たちは驚きを顕にした。 ただ、部隊を預かっていない重鎮らしい長い白髪の端正な面立ちの青年だけは、おもしろそうに、口もとに控えめな笑みを浮かべている。 そのどちらも、ヴァインは意に介していない。 「だってさ、実際は敵も作戦を使ってくるんでしょ? その上で裏をかかなきゃいけないのに、単純な思考しかしない低能なゴーレムを相手にするだけじゃ、こっちの作戦も単調になっちゃうよ」 もっともらしく声を張り上げるエルソのとなりから、あきれたようにこめかみを押さえていたマティアスが、奇妙な目を向ける。 「確かに一理ありますが……まさか、自分が敵に回ることでさぼろうなどと……オホン。いや、まあ、敵の行動が単調でないほうがいいのは事実ですな」 わざとらしい咳払いで、彼は、一週間後の演習で相手にするのはミシュヒビンの魔術師らが創った一筋縄ではいかないゴーレムだ、それに対抗するには単純な作戦だけでは心もとない……と、思い直したらしい。 「では……ゴーレムの作戦は、ヴァイン様と、監視……いえ、手伝いに、演習には参加しない文官一人をお付けして、考えていただきましょう。ヴァイン様、明日までですが、できますかな?」 「任せて」 いつも適当に流してばかりのグラン・エルソが、自信を込めて言う。 他の参加者たちの胸に大きな不安を残して、会議は閉会となった。 翌日早朝、まだ淡いオレンジ色の太陽が昇りきらぬうちに、アガマとその配下にある千の兵がプリミアに到着した。普段ならまだ眠っている頃だが、さすがにヴァインも眠い目を擦りつつ、マティアスに引きずられるようにしてエルソ・アセルダと顔を合わせた。 「もっと遅めに来るべきだったかもしれないな、ヴァイン殿」 親しげに声を掛けて来たアガマは、髪が白く目が赤いほかは、ヴァインと変わらぬ容姿をしていた。彼は自由に姿を変えることが可能で、またその本来の姿は、公の場に出るのにそぐわないものだと言われていた。 「今回は、敵側の作戦の主として参加なさるとか」 「うん。実際の戦いでも、ぼくは何もしないからね。みんなの指揮はマティアスにでも任せるよ」 「マティアスにでも、でもとは何ですかエルソ……ともかく、アガマ様、よろしくお願いいたします」 まだ半ば寝ぼけたような様子の少年に代わり、マティアスが丁寧に頭を下げる。アガマにとっては、見慣れた光景だった。 「まあ、大丈夫でしょう……我々としては、なんとしてもヴァインどのの作戦の裏をかかねば。そちらに苦労するでしょうぞ」 アセルダの名君のことばに、マティアスは、そんなことがあるはずはない、という思いをあからさまに顔に表わしながら、うなずいてみせた。 演習は、陽が頂点に至った瞬間より始まる。それまでに、郊外に即席の砦をつくり、魔術師部隊〈白き角〉はゴーレムを創りあげる。 ゴーレムの作戦については、本隊の軍師であるエッゲルには伝えないことになっていた。〈白き角〉の作戦担当者のもとへ行こうと、ヴァインはマティアスを意識することなく引き連れ、廊下を行く。 「だから、あれほどエルソとあろうものが一人で歩くなど……」 説教を聞き流しながら歩くうちに、見覚えのある姿が二つ、向かい合っているのが見えた。 「やはり、わたしでは駄目ですか、ジュディアどの」 背中を向けたエッゲルの向かいで、美しき〈銀の翼〉の隊長は、少し困ったように目を伏せた。 「まだ、そのようなことを考えている余裕がないのよ。わたしは、子どもなのかしら?」 「決してそのような……」 「ああ、帰ってたの?」 ヴァインのことばが、二人の会話を中断させた。 ジュディアの背後、廊下の角から、見覚えのある青年の姿が現われた。それを振り返った美女の顔に、ほっとしたような笑みが浮かぶ。 「おかえりなさい」 「おう。ただいま」 遠征に出ていた、〈蒼き刃〉の百勝将軍ベルモント。彼は屈託のない笑みを浮かべて歩み寄る。 「そら、おみやげだ」 彼が包みを取り出すと、ジュディアが期待の目で見上げるが、包みはエッゲルの手に渡される。 「何です、これは?」 目を細め、エッゲルは包みを開いていく。 その間に、ベルモントは懐からラマムバを一本、取り出した。未だ眠たげなグラン・エルソの顔に、にやりと笑みが浮かぶ。 「ヴァイン様にはこれです。新鮮なラマムバが入りましたよ。ラインハルトどのにも知らせたいところですが」 「あ、じゃあ、ぼくが知らせておくよ。だから、ほら」 「そう言って、ラインハルトどのの分も自分のものにするつもりでしょう」 ベルモントは笑い、出された空のほうの手を軽く叩く。 |