クグツガリ

月の満ちたる日にて 三

 午前中に散々桐紗と遊んだ――もとい、遊ばれた九虎丸が早々に進藤家へ帰って以降、桐紗の相手は静見に任された。忙しく働きまわる光江の手をわずらわせるわけにもいかず、眠る間もない。
「ねえねえ、しじゅみちゃん、これなあに?」
 今日何度目かの質問に、静見はあくびをしながら答える。
「ああ……これは式神の紋だ」
 少女が指をさしたのは、静見が筆をとって書きつけた呪符の紋様だった。
 彼は何枚も重ねた呪符をめくって確認すると、じっと眺めている少女の前で、それを懐に入れる。
「シキガミのモン?」
「今のお前さんには、わからなくても良いところだよ」
 言ってから、何かを思いついたように、少女に目を向ける。
「お前さん……本当に、普段の記憶がないのか?」
 訊かれると、少女は不思議そうに首をひねる。
「あたしねえ、普段はお父さんと、お母さんと暮らしてるの。でも、たまに色んなところに行って、色んな人に会えるんだよ」
 たまに、というのが、満月の日のことか。では、両親と暮らしているというのは、一体いつのことなのか。
 否、今の彼女に両親はいない。幼い桐紗の記憶は、同じ年齢の頃のまま止まっているのだろう。
 ――つまり、織術で変質させた記憶が桐紗の普段の人格の基礎となっているのか。
 この幼い少女と同等の人格がある瞬間、術を使ってでも変わることを、成長することを選択したのだ。あるいは、変わらざるを得ない何かと出会ったはずだ。
 そうでなければ、普段の桐紗には繋がらない。
「しじゅみちゃん」
 少女が、自分を見つめる青年の手を引いた。
「どこか痛いの?」
 そのまま大きな目を見開き、心配そうにのぞき込んでくる。
 別段感情を表したつもりのなかった静見は、少し訝るように少女を見下ろす。事実、彼の表情ははた目には、少し眠たげとだけ映るものだった。
 だが、次に少女が口にしたことばには、明らかにその顔色が変わる。
「だってしじゅみちゃん、白い怪物のところに行く人たちを見送るときとか、いつもそういう顔してた」
「――ッ!」
 優れた織術の術師の中には、人間の記憶を読み取ることもできる者もいる。だが、それはいつもの桐紗なら、決してやらないことだった。
「いたっ」
 静見が思わず小さな手を振り払うと、その勢いで少女は尻餅をつく。その顔が今にも泣きそうに歪む。
 我に返ってそれに気がついた静見は、はた目にもあきらかなほど慌てた。
「す、すまない……怪我はないか?」
 何のためらいもなく、自ら少女の手に触れ、助け起こす。涙をこぼしそうだった桐紗の目は、驚きに開かれた。
「気持ち悪くないの、あたしのこと? お父さんもお母さんも、この子おかしい、変だって言うよ?」
 平和に、心安らかに暮らしていたころの姿と記憶を持つと見えていた幼い桐紗だが、それでも、すでに辛い体験を小さな胸に刻んでいるらしかった。
 怯えたような少女の顔に、静見はわずかに顔をしかめる。
「気持ち悪くなどないよ。お前さんは、お前さんだろう。他の誰とも同じではない。他の皆も、それぞれ異なる特徴を持っている。お前さんの特徴は、他の者のものに比べ少々珍しかっただけだろう」
「でも……お父さんが、あたしをバケモノだって……
「珍しい力を目にした者は、それに驚き、否定することがある……その力の正体がわからないから、怖いのだ。怖いから、バケモノなどと言って拒絶するのだろう。お前さんは、バケモノなどではないよ」
 静見のことばをすべて理解しているわけでもないだろうが、少女の表情が少しずつ悲しみから離れていく。
「儂もお前さんと似たようなものだ。お前さんは、儂がバケモノに見えるかい?」
 身を屈めて視線を合わせ、たしなめるように言う。彼の顔には、警戒を解くようなほほ笑みが浮かんでいた。
「んーん、そんなことない」
 少女は少し慌てたように、大きく首を振る。それを目にした静見のほほ笑みが、わずかに深くなる。
「なら、大丈夫だ」
「だいじょぶ」
 桐紗の顔に、屈託のない笑みが戻った。
 静見が内心ほっとした瞬間、不意に、居間から声がかかる。
「あら、二人とも仲がいいのね。でも、できればちょっと手伝って欲しいの。今日は夕飯たくさん作らないといけないからねえ」
 光江に声をかけられた静見はその顔から笑みを消す。いつもの、少し眠たげな表情だけが残された。
 そろそろ部活を終えた新しい入門者たちがやってくるころだった。今回は六人の中学生と高校生が入門し、食べ盛りの男子のためにいつも以上に夕飯の量が必要だ。
「お手伝いするー」
 そう言って喜んで光江に駆け寄っていく桐紗に、黙って静見も続く。
 二人にほほ笑みかけて台所へ踏み出したところで、光江は一旦振り向いた。
「そういえば……今日は美佐子ちゃん遅いわね。そろそろ帰ってきてもいいころなんだけど」
 普段ならすでに帰ってきている時間帯だ。まれに友人たちとの付き合いや高校での係の仕事などで遅れることはあったが、必ず事前に連絡を入れる。
 光江が何か連絡を受けているのだろうと思っていた静見は、わずかに目を見開く。
「なんにも連絡ないのよ。よほど急な用事でもあったのかしら」
 急な用事がよほど重大なものなのかもしれない。だが、それならますます電話の一本もあるはずだ。
 用事がそれほど重要でなければ、美佐子は断って、真っ直ぐ帰ってくる。早く桐紗と再会するために。
 そう、静見は推測していた。
「まあ、美佐子ちゃんはしっかりしてるもの。すぐに帰ってくるわよ」
 光江の声にも、少しだけ心配がにじむ。彼女のことばは、まるで自分に言い聞かせているようにも聞こえるものだ。
 当人のいない間の食事中に静見が聞いた話では、昔、まだ美佐子が小学生の頃に何度か帰ってこなかったことがあったという。一度は林の中に迷い込み、迷子になった。そのときに神代家の大人たちは捜し回り、大したことはなかったものの、誰かが怪我をしたそうだ。
 それ以来、美佐子は帰りが遅くなるときも小まめに連絡をするようになった。そのため、連絡もなく帰って来ないのは一大事なのだ。
 大人たちの雰囲気を敏感に感じ取ったらしい桐紗からもはしゃいだ様子が消え、彼女は少し不安げな顔のまま、おにぎりを作り皿に漬物や鶏のから揚げを盛り付けるのを手伝った。
 陽は傾き、中庭もオレンジ色に染まっている。やがてそれも薄い夜闇色に変わっていき、道場での威勢のいい声も途切れ、夕飯時も過ぎていく。
 道場が空になりかけたころ、ついに堪えかねたのか光江が連絡先を知っている美佐子の友人、奈美の家に電話をかけた。だが、昔ながらのダイヤル式黒電話の受話器を置いた彼女の表情は冴えない。
「おかしいわね……いつもより早く帰ったはずだって言うんだけど……
 縁側でなく居間の卓の前に座っていた静見がわずかに目を細める。となりに正座した桐紗も、どこか不穏なものを感じたように周囲を見回している。
……桐紗、大人しく待っていられるか?」
 青年が目を合わせると、少女は目を瞬かせた。『あたしも一緒に行きたい』と語りたそうな様子だが、実際にそのことばを口にするほど、精神的に幼くはないらしい。
「待つの、慣れてるもん」
 少し挑戦的に言って、その場にちょこんと正座したままうなずく。
「大治どのにも伝えておいておくれ」
 光江にそう言い残し、静見は席を立つ。
 道場も最後の掃除を終えた門下生たちが去り、大治と師範ら数人が話をしているだけとなっていた。
 居間を出て縁側廊下から玄関に下りる静見を、道場の大治が見咎める。
「美佐子が帰ってこないのか?」
 道場での稽古に夢中に見えていても、孫が帰宅していないことはきちんと把握していたらしい。
 静見が目を向けて頷くと、しわの刻まれた、それでも健康的な色をした顔に薄い翳りがさした。
「几帳面な娘のはずなんだがな……頼んだぞ。わしは待っている」
……ああ」
 短く答えて、玄関を出る。
 すでに陽が暮れた外界は、濃くなりつつある闇に染まりつつあった。

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