楽駕町にもいくつか観光名所と呼ばれるところがある。そのひとつが温泉旅館や湯治施設が並ぶ温泉街だった。
湯煙の中木造の古風な建物が脇に並ぶ道は、どこか別の時代に迷い込んだような風情がある。
そんな独特の雰囲気に、静見、それに二人の少女も上手く溶け込んでいるようだった。美佐子は白に淡い黄色の花が舞う柄、桐紗は濃紺に桜が咲く柄の浴衣を着込んでいる。光江が愛娘の晴れ姿を見たい母親のごとく喜んで用意したものだ。
「なんか、ここだけ時代が違うっていう感じ。浴衣、借りられてラッキーだったな」
「わたしが昔着てたやつだから、ちょっと傷んでるかもしれないけど……でも、桐紗ちゃん、良く似合ってるよ」
「美佐子ちゃんもね。それにしても、同じ浴衣って言ったって、いくら男物でももっと飾り気があるのが普通だよねー」
確かに少女たちに比べると、いつもの無地の浴衣姿の静見はずいぶんと地味に見える。
しかしわざと大きな声で言った桐紗のことばの意味は、静見には届かなかったらしい。だいぶ間をおいて、曖昧な反応がある。
「……何が?」
周囲の風景に気を取られて、やっと気がついたような様子だった。普段から反応が薄い静見だが、いつもは答えるときには早い。
「もしかして、ここ、初めて?」
静見がこの町に来て二年ほどだということは、桐紗も美佐子に聞いていた。楽駕町に来た時期と神代家に来た時期にそれほど差がなければ、この町に滞在して二年ということになる。
その間ろくに外出しなかったのなら、少なくとも昼間の温泉街を訪れたことはないとしても無理はない。
「ああ。温泉は初めてではないが」
「二年もいるくせに、全然この町のこと知らないんじゃないの?」
「知る必要がないから」
「寂しい人生だねー!」
からかうような調子で声をかける桐紗と、それを適当にあしらう静見のやり取りを見ながら、美佐子もただ傀儡を狩るためだけに生きているような静見の存在を、確かに少し寂しいものだと思う。
それでも桐紗が来てからというものの、とても微妙ではあるが静見は以前よりは表情を見せるようになっていた。
――それはたぶん、桐紗ちゃんが同じ種類の存在だから。
昨夜は眠気と驚きのうちに曖昧にやり過ごしてしまったものの、桐紗もおそらく、ただ傀儡が見えるだけの少女ではない。それくらいは予想がついた。
やっと普通の友だちができたと思ったら、その友だちは『傀儡狩り』と同種の者だった。それが少し寂しくはあるが、自分がそう感じることは当の桐紗が普通の女子高生、普通の女友だちとして接してくれているのに、失礼なことかもしれない、と美佐子は思う。
それに、友だちが普通じゃないというのも別に悪くはない。
「んで、どの温泉に入るの? 美佐子ちゃん、お勧めある?」
名を呼ばれて我に返り、美佐子は慌てて先頭に立つ。
「たまにお祖父ちゃんや光江さんと来るときには、いつも同じ温泉に入るの。ほかのところにも機会があれば入りたいけど、まずは勝手を知ってるところに行きましょう」
古き良き時代を再現した家屋の中でも、一際古めかしい瓦屋根の建物に入る。木の看板に書かれているのは、〈楽駕史跡温泉〉という文字列だった。
休日だけあってそれなりに客は入っているらしく、人の出入は多い。玄関を上がってすぐにあるカウンターの番頭が、忙しく声をかけていた。
「はい、いらっしゃい!」
美佐子にとっては見覚えのある、少し横幅のある身体の主人が、以前見たときと変わらぬ笑顔で客を迎えた。
「おや、これはこれは、神代さんところのお嬢さん。お友だちと一緒かい? はい、女湯三枚、と」
言いながら入浴券を出す主人のことばに、美佐子の表情が引きつる。
居候の青年は、はた目からも短髪の和装の美女と見えなくもない。決して主人の目が悪いわけではないが――
「いやあの……女湯二枚男湯一枚です……」
無言のまま、それでも決して愉快そうではない視線を向けている静見に不穏なものを感じながら修正すると、主人も自分の間違いに気がついたらしい。
「す、すまないね。ごゆっくり」
券を差し出して料金を受け取ると、番頭は逃げるようにカウンターを離れて奥から三人を見送った。
丁度、客が途切れる頃合だったらしい。更衣室に入ったときには棚に並ぶカゴの半分が使われているくらいに混んでいたものの、美佐子と桐紗が身体を洗って湯船に浸かった頃には、女湯にある客の姿は二、三人にまで減っていた。
「いやー、あたしも温泉は久々だけど、やっぱりたまにはいいもんだね。美佐子ちゃんちのお風呂もでかいけどさ」
たたんだタオルを頭にのせた桐紗が、極楽極楽、と少々年寄り臭いことばを口にする。
家の大きさに合わせたのか、神代家には銭湯並みに大きな風呂があった。しかしさすがに銭湯のように女湯と男湯に分かれているわけではなく、道場での汗を流す男たちに占領される時間が長いので、のんびりと風呂に浸かる機会は少ない。
それに、洞穴の中のような雰囲気ある岩風呂は家の風呂とはまた違う趣があった。男湯とは天井近くにある窓でつながっているらしく、こもったようなざわめきが聞こえるのも、大衆浴場ならではである。
「光江さんとなら入ったことあるけど、友だちと一緒に温泉に入ったのなんて、中学校の修学旅行くらいかな」
「あたしもー。同性相手だって、けっこう恥ずかしいもんねえ。裸の付き合いも、よっぽど気を許せる相手じゃなきゃあ」
と言いながら、桐紗は美佐子の胸の辺りに目をやり、突然、手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと桐紗ちゃん何するの!」
真っ赤になって思わず大声を出す美佐子だが、一方、居候の少女は妙に真剣な顔で自分の身体を見下ろす。
「へえ……いいな~、美佐子ちゃん、胸おっきい! あたしなんて、まな板だからうらやましいな」
美佐子は耳まで真っ赤に染まると慌てて周りを見回すが、幸い湯船に浸かっているのは二人だけで、湯煙の向こう、洗い場にいくつかある姿の中にも注意を向けている者はいない。
「そっ、そんなことないわよ……もう、恥ずかしいじゃない」
「恥ずかしがることないよ。美人でスタイルも良くて性格よし、成績優秀で家の手伝いにも熱心な女の子なんて、あたしが男だったらほっとかないよ。ねえ、彼氏とかいるの?」
桐紗の顔の上で見かけることの多い、からかうような笑み。
彼女が話題にしていることは、美佐子が密かに憧れていた種類のものだ。いつも学校で同年代の女子の口に上る最大の関心事、恋愛に関する噂話を聞きながら、自分が女友だちとそういったことを話すことなどないだろうとずっと考えていた。ましてや、自分の心に秘めた恋愛感情について話す機会なんてあり得ない、と。
だから、桐紗がそういう話題を振ってくれたことは嬉しい。だがその話題に乗れるほど美佐子は気が強くはない。
「彼氏なんてずっといないし、それに……わたしなんて、要領は悪いし気は利かないし全然ダメで……」
「そーゆー卑屈なこと言わない! 美佐子ちゃんに一番足りないのは、自信だよ、自信」
「わたしのことはいいじゃない。それより、桐紗ちゃんは良さそうな人、見つかってないの? それとも、実は転校前に住んでたところにいて遠距離恋愛とか?」
きかれて、桐紗は恥ずかしがるでもなくあっさり首を振る。
「まっさかー。あたしはけっこう忙しいからね。色恋沙汰にかまってるような暇はなくてさ」
美佐子はピンときた。
桐紗は、ある話題から美佐子を遠ざけたいのだ。決して悪意があるわけでも話を楽しんでいないわけでもないだろうが、別の話題を続けることで、ある方向に行かないようにと会話をコントロールしている。
眠さと静見の新たな一面のせいで流してしまったが、昨夜――正確には今朝だが――疑問に思ったことは、まだ胸のうちに重くわだかまっている。
その重さを吐き出すには、桐紗と二人きりのこの状況はおあつらえ向きと言えた。もちろんそれは相手の方にとっては都合の悪いことだったろうが。
「桐紗ちゃん……」
少し声をひそめた呼びかけで、相手に話題へかまえる時間を与える。続けて何を話すのか、桐紗も予想がついたらしい。
「桐紗ちゃんも、傀儡狩りなの?」
まず口にしたのは、一番答えやすいと思われる質問。
「んー……まあ、そんなとこ」
顔色をうかがうような視線を向けながら、桐紗はあごまで湯に浸かる。
「それじゃあ、桐紗ちゃんも傀儡に対抗できる不思議な力があるの? 静見さんが使ったみたいな……」
「あたしの力は……」
これは少し答え辛い質問だったのか、桐紗は迷うように、少し時間を置いてから目をそらして、彼女にしてはかなり小声で話し始める。
「織術、っていう、ずいぶん古くから細々と伝えられてきた術があってさ。昔、万物に精霊が宿るという教えを受け継いだこの辺の神社で編み出された術で、物の記憶や力を引き出す術なんだ」
「この辺の神社って……楽駕神社?」
「ずいぶん前に移転したりなくなったりしてるらしいけど、まあ、知識は楽駕神社に引き継がれたみたいだね」
楽駕神社は神代家とも関わりが深い。美佐子も何かあるごとに神社に行き、宮司とも顔見知りである。
そんな身近に不思議な術というものが伝わっていることは、衝撃だった。
それ以上に、興味はその術自体と術を使えるという桐紗に向かう。
昔から自身の霊感に悩まされていた美佐子は、超常現象や超能力などといったものには懐疑的なほうではない。それでも、実際に静見の傀儡狩りを目にしていなければ術というものの存在など、考えてもみなかったが。
「その術って……どんなことができるの?」
純粋な、好奇心からの質問だ。
桐紗は少し考えたあと、湯を両手にすくった。
「さあ、思い出して。あんたが天に昇り、冬の夜に舞ったときを」
ささやきかけ、両手の水を頭上に放り投げる。
普通ならば投げられたままの水滴が宙から降りそそぐはずだ。しかし見上げる美佐子の目の前にはらはらと落ちてきたのは、白く薄いものだった。
それは花びらのように舞い、肩の肌に触れるとかすかな冷たさを残して融ける。
「雪……?」
季節はとうに雪が融けた春だ。それ以前に、ここは屋内である。天井近くにある窓も開かれてはいない。
しかし、舞い落ちて湯に触れる端から融けけていくものは、確かに水ではなく雪だった。
「凄い」
最後のひとひらまでがはかなく消えると、ようやくそれだけがのどの奥からしぼり出される。
「これを有効活用すれば、その辺の物かステキな武器になったりするわけ。記憶を引き出せば情報も集められるし、なかなか便利な力だよ」
「静見さんも、同じ力を?」
「いや」
明後日の方向を眺める大きな目に、ほんの一瞬、悔しそうな光が灯る。
「あいつが使うのは、創天術……存在自体は聞いてたけど、ほんとにあるとは思わなかった。大本は同一というか、あの術を完成させきれなかった術師が残した系統が織術さ。あたしが知ってる傀儡狩りもみんな、創天術は伝説上のものだと思ってた。無から有を創り出す術。四つの術の中でも最も強力で、最も珍しい」
記憶を司る織術、一般的な符術や儀式をまとめた方術、邪悪な力を扱う呪術、そして創天術。美佐子にはすべては理解できないが、桐紗は簡単に四つの術を紹介した。
その中でも創天術はほか三術の根元となった術であり、歴史が古いがゆえに全貌を知る者はいない。
「凄い……術なんだ」
「ああ……」
と、桐紗は急に声の調子を変え、
「どこまで再現できるもの何だかあたしもよくわからないけれど、ちゃんと構造を把握しているものなら、何だって作れちゃう。食べ物もノートも文房具も布団も……まさに歩く価格破壊、お買い得だよ」
まるでテレビの商品紹介番組のような調子に、美佐子は思わず笑ってしまう。
ただ、おどける前の桐紗の態度とことばで、静見の力が強力なものであることはわかる。
傀儡を切り裂く細い糸。見た目には地味なものだが、美佐子を救ったそれは無から創りだされた物なのだろう。その気になれば、桐紗が見せた力の一端――雪を降らせることよりも、ずっと大きなことができるのかもしれない。
だが静見が美佐子の好奇心を満足させてくれるとは思えなかったし、そんなことのために力を使わせるのはためらわれた。最近彼の正体を知った少女は、ささやかな好奇心を胸に仕舞っておくことにする。
「美佐子ちゃんちもこの辺の神社に関係ある血筋なんでしょ? 案外、親戚に術師がいるかもよ」
術や術師に、少しだけ憧れを抱きつつあった。桐紗のことばは、そんな思いを見透かしたかのようだ。
「宮司さんは遠い親戚だけど、母さんの親戚は遠いところに住んでるし、お祖父ちゃんはそんなことないし……」
少しでも術師の血が流れている可能性があると嬉しいと思い、彼女は真剣に親戚の顔を思い浮かべては消す。
「お父さんに兄弟いないの?」
神代家の家と道場は、父方の長男に代々受け継がれてきた。美佐子の父も道場を継ぐはずだったのだから、祖父の唯一の子、あるいは長男ということになる。
頭が痛くなりそうなくらいに考え込んでいるうちに、ふと、曖昧な顔を思い出した。
――なんで忘れていたんだろう。
そう考えてさらにはっきりと思い出そうとするが、顔もともに過ごした記憶も曖昧にしか思い浮かばない。
「うーん……父さんには弟さんがいたんだけど……」
それでもほんの少しだけ、その人物の情報が脳裏に甦ってくる。家系図のような非常に事務的な情報だけが。
「叔父?」
「そう。でも、ずっとちっちゃい頃に遊んでもらったような記憶があるだけなの。経済の勉強とかで、親の反対を押し切って海外に行って、それから連絡が取れなくなってそのままとか」
「行方不明ー?」
相手の驚きの顔を見ながら、思わず美佐子は苦笑する。
叔父は行方不明になり、家族は事故死。自分で説明しながら、よくここまで不幸が続くものだと思う。
――たたられてるのかな。
半分冗談の気分でそう思うが、宮司の血筋であることや傀儡のことを考えると、少しだけ怖くなる。
それと同時に、最近耳にしたことばが脳裏をよぎった。
『だから、美佐子ちゃんもあんまり怖がっちゃダメよ? それって、あいつらにとっていいことだからね』
――そうだ、怖がっちゃいけない。傀儡なんかに怯えるものか。強い傀儡狩りが二人もついているんだ。
そう思うと気が楽になる。
「……そろそろ、あがろっか。指がふやけちゃう」
「そうだね」
白くなった指先を見て苦笑すると、二人は笑って湯船を出た。