一番最初にくだんの橋で事故が起こったのは、四〇年近く前だった。
大きなトラックが横転し、増水した川に落ちかけた。幸い運転手は骨折と打撲程度で済んだものの、彼は地元新聞の取材に対しこう答えたのだ。
『小さな女の子のような声が聞こえてきて、慌ててブレーキを踏んだ』
――と。
それ以後、事故を起こして同じような証言をする者がたびたび現われるようになり、いつしか橋はそれにまつわる話を知る者たちの間から〈トオラセンの橋〉と呼ばれるようになった。
その名の最大の由来は、何人かの証言者が『通らせん』のようなことばを聞いたと主張していたからだった。
そしていくつか事故が続いたあと、一人の男が車でトオラセンの橋を通りかかる。地元でジャーナリストをしている、神代大治の知人だった。
べつに、噂の真相を確かめるべく深夜の橋を渡ろうとしたわけではない。しかし近づいてくる橋を視界に捉えたとき、そのような思いが芽生えたのは確かだったという。
どうせ、噂など偶然だろう。しっかり確かめてみれば何かしら説明がつくものだ。
そう考えていた彼に回り道をしようなどという意思が生まれるはずもない。噂の真相を暴いてやろう、場合によっては飯の種になるかもしれない、というくらいの思いで車を走らせた。
声が聞こえるという話を思い出し、流行の曲を流していたラジカセを止める。エンジン音が声に聞こえるという線を消すために車のスピードを落とし、ゆっくりと橋に近づいた。
低い駆動音だけが聞こえる中で耳を澄ます。目はヘッドライトの照らす橋の全体に向けていた。
タイヤが最初に橋へと乗り上げたときは、さすがに緊張が走る。だが数秒待っても何も異変が起きないと、再び自信が生まれてくる。
まだ、橋の中央にすら辿り着いていないというのに。
やっぱり何かの偶然なんだ、と思った瞬間、声が聞こえた。
気のせいかと耳を澄ますと、まだ声は聞こえている。
小さな子どものものらしき声。
『トオリャンセ、トオリャンセ……』
誰かに話しかけているのか、と思われたが、段々と大きくなるそれは歌声だった。誰もが一度は耳にするわらべ歌だ。
車を止めそうになって、我に返りアクセルを踏み込む。
静寂を作ることで声などしないと証明するはずが、よりはっきりと声を聞くことになってしまった。頭が一瞬真っ白になり、とにかく逃げ出したかった。
『……行キハヨイヨイ、帰リハコワイ』
歌がその部分に差し掛かったとき、何かが車の前にぶつかった。
驚いてブレーキを踏みながらハンドルを切る。甲高い音を立てて車はスピンした。橋を渡りきったところで止まる。
道路に対し、まるで道を塞ぐように横になった車から降りようとすると、足元に地面がない。わずかではあるが、車の前の部分が道路から川に向かってせり出していた。
それでも、愛車を少し傷つけたくらいで済んだのはこの橋で不可解な体験をした者たちの中で最小の被害だった。
後日、彼は大治のもとを訪ねる。彼の体験に興味を持った大治は彼と協力し、橋とその周辺に関する情報を集め始めた。
その結果にいくらか推理を加えたトオラセンの橋に関する噂の成り立ちはこうだ。
橋の近くの家に幼い少女が住んでいた。周辺の子どもたちはよく集まって遊んでいたが、引っ込み思案な少女は仲間外れにされ、ときどきいじめにも遭っていたらしい。仕方なく、一人遊びを続ける日が続く。
だが、あるとき少女は勇気を出して、仲間に入れて欲しいと言った。それに対し意地悪な少年が、鬼ごっこで最後まで捕まらなかったら仲間に入れてやるよ、と応じる。
少女は必死に逃げ、最後まで鬼に捕まらないようにしようと隠れた。
この日、楽駕町付近には台風が近づいていた。少女が隠れている間にも風は強くなり、やがて雨が降り出したのを機に、彼女を除く子どもたちはそのまま家に帰ってしまう。
それを知らぬ少女は雨が強くなっても震えながら待ち続けた。しばらくは雨には当たらずに済んだ。彼女は街の側に溜まった水を川へ逃がす排水溝の中に隠れていたから。
しかし、当然雨水が溜まると排水溝を流れる水も増えていく。
この日の雨量は楽駕町の過去の記録を更新した。
少女は行方知れずとなり、未だに見つかっていない。
「肉体は流されたが、少女の魂はあの排水溝のそばにある橋に残されたのではないか……というのが、わしらの落としどころだった。もちろん、かなり想像も入っているが」
ことばを切ると、大治は葉巻を灰皿に置き、いつの間にか光江が入れていた茶をすする。
美佐子は話の内容に恐怖を覚えたが、それ以上に少女が哀れに思えた。
ただ他の子どもたちと仲良くしたいだけだったのに、誰に看取られることもなく命を落とし、その後も家に帰ることもできず――。
「可哀想だね……どうすれば解放されるんだろう」
「難しいことだね」
ことばとは裏腹に、大治は穏やかにほほ笑んだ。
「それでも、花の一本も手向けれあげれば少しは心が通じるかもしれない。我々生きた人間にできることはそれくらいだろうしね」
美佐子が大治に話を聞いた夜も、やはり闇の住人たちが蠢き始めた。
これもまた、日々の営みのひとつかもしれない。
「やっぱり、行ってみるんだ」
何も言わずに歩き出した静見の後ろを、ときどき小走りになりながら小柄な少女がついていく。
「ま、傀儡の発生要因を確かめるのも傀儡狩りの仕事だしねえ。それにしても、けっこう律儀よねー」
いつものように桐紗が一方的に話し、静見は黙々と進むのみ。
それが終わるときには、橋が近づいていた。
「また来た」
桐紗があっけらかんと言う。
二人の前方に妖気が凝り固まっていき、それが弾けるような感触を覚えたときには橋の下から白いものが跳び出している。
それを目にしたときには、桐紗はすでに流牙を手にしていた。
「それ」
一気に突進し、振りぬく。
傀儡は一瞬にして両断され煙と化すが、眺めていた静見は軽く眉根を寄せる。
「不用意な……昨夜より速度を増している可能性もあるというに」
「だったら、よけいにこっちから仕掛けた方が早いじゃん。何事も先手必勝だよ」
少女が胸を反らして返事をするが、もうすでにそのことから興味を失ったらしく、静見は橋の下を覗き込んだ。
「へへえ、この下に少女の霊が?」
「いや……ここからは何も感じない。少女はどこにもいない」
「じゃあ、あのわらべ歌は傀儡が聞かせた幻聴?」
「そんなところだろうが、そのためにはわらべ歌を知らなければならない」
青年のことばに、桐紗は首を傾げる。そして、傀儡が少女の霊を喰ったのではないかという悪い想像が脳裏をよぎった。
「傀儡は記憶を奪ったとしても、必要のない記憶を長く覚えていたりはしない。わらべ歌など、本来必要ないものだ」
「わっかんないなー……まったく、これはやりたくなかったんだけど」
肩をすくめ、桐紗は橋の欄干に手を置いた。
意識を集中すると、膨大な量の情報が彼女の頭に流れ込んでくる。映像と音声が早回しのように流れていく。その中から必要なものを取り出すのは、かなり困難な作業だ。
「あー、駄目だ」
情報量の余りの多さに、桐紗は手を離して投げ出した。
そして視線を上げるなり、静見の視線を辿る。
その先には、橋のそばに立つ若い木があった。
「あ、そうだ」
まだそれほど年代を重ねていない木ならば、それほど大量の情報を蓄積してはいないだろう。
少女はそう考えるなり木に駆け寄って、幹に手を当てて再び集中する。
間もなく、心に触れるものがあった。
「ん……?」
木の太い枝の下に手を伸ばし、そこにあるものを力づくで取る。
引き出した手のひらに現われたのは、短く切りそろえた藁を紐で組み合わせて人型にしたものに、竹釘を打ち付けたものだった。
「なに、丑の刻参り?」
藁人形から、彼女は夜中に神社の木にそれを打ち付ける安直な光景を想像したようだ。
「これはおそらく、何かをここに縛り付けるためのものだ。おそらく、くだんの少女だろう。人型の作用により、その少女の怨念に傀儡が操られていたのだろう」
静見の目は橋の上の一点を捉えている。
「誰がそんなこと……」
人型に集中してみても、だだ闇しか見えない。呪術に使う道具には術者への追跡を回避する仕組みが施されていることが多く、この人型もそうらしい。
雨風に当たりにくい場所に打ち付けられていたとはいえ、人型はそれほど汚れてはおらず、何年も前からあったものというわけではなさそうだ。
「少女の霊も利用されて懲りたようだ。大人しく成仏すると言うている。もう、ここで事故は起きないだろう」
「へえ、わかるの?」
桐紗が問いかけると、静見は眠たげな目を少し見開いて少女を見る。
「……お前さん、見えぬのか?」
余り他人に興味を示さない彼にとっても、それは驚きだったらしい。桐紗が藁人形を手にしたときから、彼には橋の上に何かが見えていたのだ。
「見えない」
周囲を見回し、桐紗は素直に答えた。
「……そうか」
別に追求することもなく、それでもどこか不可解そうに口を閉ざした。
橋はいつもと変わらずそこにある。ビル群のそばとはいえ川沿いだけに自然にも囲まれていて、昼間の光の中にあればのどかな風景の一部と見えた。
今は、橋よりもむしろ生活の気配がない一部のビル群の方が不気味すら思える。
誰かの視線を感じて、美佐子は並ぶビルのある一角を見上げた。目に映るのは古そうな、見かけからしても独特の雰囲気のある建物たち。
この時間では営業しているホテルでも人が入っている部屋が少ないだろう。いくつも並んでいる暗い窓の奥が口を開けた異界への入り口に見えて不気味だ。
「あ、美佐子、来てたんだ」
不安になりかけたとき声をかけられて、弾かれたように振り向く。
そこにはジャージ姿の奈美の他に、まだ包帯は見えるもののしっかりとした足取りで歩く敦子の姿がある。
「敦子ちゃん、もう退院できたんだ」
「おかげさまで、検査結果も脳なんかに異状なしだったよ。部活に復帰するにはもっと時間掛かりそうだけどね」
と、敦子は苦笑してみせる。利き手ではないが、手首の怪我が治らなければテニス部に復帰するのは難しいだろう。
口を開こうとして、奈美が親友の背後の方に何かを見つけた。
「あれ、どうしたの?」
メガネを軽く持ち上げて彼女が言うと、敦子も橋の手前側、欄干に軽く立てかけるようにして隅に置かれたものに気がつく。
一本の桃色の花が、丁寧に包まれて捧げられていた。
「うん、ちょっとね」
誤魔化すように笑い、早足で友人たちのもとに歩み寄る。
「さあ、帰りましょっか。快気祝いに、何か奢るわよ」
「ええ、嬉しいなあ」
「あたしからも、何かお祝いするね」
少女たちの明るい声が響く。
どこか重々しい雰囲気のビル群もあの橋も、美佐子にとっても、もうそれほど不気味には感じられない。
一度だけあの橋を振り返ると、ほんの刹那の間、少女のほほ笑みが視界に浮かんだ気がした。